「それなら意見を言おう。私の考えは外務大臣と同じ(=ポツダム宣言を受諾する)である」。
昭和天皇のお言葉が発せられると、大臣らの目から涙がこぼれ落ち、やがて号泣に変わりました。陛下も涙を流されながら、お言葉を続けられました。
「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相が言うように本土決戦に突入すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰が子孫に伝えることができるというのか」。
「祖先から受け継いだ我が国を子孫に伝えることが天皇としての務めであるが、今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人々に我が国の未来を任せる以外に、この国を子孫に伝える道はないと思う」。
「それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことでもある。明治天皇の三国干渉(さんごくかんしょう)の際のお心持ちを考え、堪(た)えがたく、また忍びがたいことであるが、戦争をやめる決心をした」。
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、この世に生き残る事が
一番大切な事ですものね。
少しでも多くの人間が生き残ることを
希望する天皇のお心は十分理解出来ます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 世界の平和を常に願われた昭和天皇でいらっしゃいましたから、我が国が存続することで、ご自身の責任も果たさねばならないという、強いお気持ちがあられたのかもしれませんね。
我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本の政治形態は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属(じゅうぞく)する」というものでした。
この条件では我が国が連合国の属国になってしまう危険性があり、また何よりも天皇の地位の保証が不完全なままでした。この内容でポツダム宣言を受けいれるべきか、外務側と軍部側で再び意見が対立しましたが、ソ連による我が国侵略の脅威(きょうい)が間近な現状では、もはや残された時間はありませんでした。
そこで、貫太郎は14日に改めて御前会議を開きました。会議では自らの意見を述べる者も、またそれを聞く者も、すべてが泣いていました。陛下も意見をお聞きになりながら何度も涙を流され、しばしば眼鏡を押さえられました。そして、昭和天皇による2度目のご聖断が下りました。
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
まさしく、苦渋の決断だったんですね。
それにしても、こういう場面での
素早い決断というのは、これまでに培われた
経験がいかに実のあるものであったのかが
判りますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の長い歴史で培われた経験における決断でもありました。
それだけに、昭和天皇のご苦悩が拝察されます…。
ご聖断が下った後、阿南陸相は耐え切れずに激しく慟哭(どうこく、悲しみのあまり声をあげて泣くこと)しました。昭和天皇はそんな阿南に対して優しく声をおかけになりました。
「阿南、お前の気持ちはよく分かっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」。
昭和天皇によるご聖断は下りましたが、それだけでは明治憲法の規定においては何の効力も持たず、内閣による閣議で承認されて初めて成立するものでした。もし閣議の前に阿南陸相が辞任して、後任者の選任を陸軍が拒否すれば、軍部大臣現役武官制によって鈴木内閣は崩壊し、ご聖断をなかったことにすることは可能でした。
陸軍の強硬派は戦争継続のために阿南陸相に辞任を迫りましたが、阿南は以下のように一喝(いっかつ)しました。
「ご聖断が下った以上はそれに従うだけだ。不服の者あらば自分の屍(しかばね)を越えてゆけ!」
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
貫太郎氏のご活躍も素晴らしいですが、
阿南陸相のこの時の覚悟も凄まじいものを感じますね。
この当時の閣僚は、皆が命がけで戦っていたのだなと改めて思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 貫太郎氏のご活躍も素晴らしいですが、
> 阿南陸相のこの時の覚悟も凄まじいものを感じますね。
> この当時の閣僚は、皆が命がけで戦っていたのだなと改めて思いました。
本当にそうですよね。
現代の(特に前政権の無責任な)閣僚とは月とスッポンです。
そして、詔書のすべての手続きが終わった14日午後11時過ぎ、総理大臣室を訪問した阿南陸相は、貫太郎に面会すると以下のように述べました。
「自分が陸軍の代表として強硬な意見を申し上げ続けたことによって、総理に大変ご迷惑をおかけしたことを深くお詫(わ)びします。私の真意はただ一つ、国体を護持したいと考えただけで、他意はございません。この点、何卒(なにとぞ)ご了承ください」。
阿南陸相の言葉を受け、貫太郎はかつての侍従長と侍従武官の関係のように、優しく語りかけました。
「阿南さん、貴方(あなた)の気持ちは私が一番良く分かっているつもりです。長い間本当にありがとうございました。国体はきっと護持されますし、皇室もご安泰(あんたい)ですよ」。
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なにやら今日の場面は
映画のワンシーンを思い浮かべてしまいそうになるいわゆる山場ですね^^
貫太郎首相の懐の深さが際立つお言葉に感銘しました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なにやら今日の場面は
> 映画のワンシーンを思い浮かべてしまいそうになるいわゆる山場ですね^^
> 貫太郎首相の懐の深さが際立つお言葉に感銘しました!
確かに映画のワンシーンのようですね。
首相と陸相のやり取りは素晴らしいですが、実はこれが…。
「私もそう思います。この葉巻は南方の第一線から届いたものですが、私は嗜(たしな)みませんので総理に差し上げます」。
そう言って貫太郎に葉巻を渡すと、阿南陸相は踵(きびす)を返して去ってきました。その後ろ姿を見送りながら、貫太郎は心の中でつぶやきました。
「阿南君は暇乞(いとまご)いに来たのだろう」。
貫太郎の慧眼(けいがん、物事の本質を見抜く鋭い洞察力のこと)どおり、阿南陸相は昭和天皇から拝領(はいりょう)したワイシャツを身に着けると、翌8月15日午前4時40分に、すべての責任を取って割腹(かっぷく)自決しました。想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃく、とどめを刺して楽にすること)を断り、午前7時10分に絶命しました。以下は血染めの遺書に残された阿南陸相の最期の言葉と辞世の句です。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉(たてまつ)ル 神州不滅ヲ確信シツツ」
「大君(おおきみ)の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言いのこすべき 片言(かたこと)もなし」
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですねぇ・・
想像したくない程の
壮絶な場面ですねぇ・・
今日ばかりはノーコメントにさせて
いただきたい気持ちになりましたが、
天皇も阿南陸相のこの様な
責任の取り方にさぞお心を痛まれたことでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ち、お察しいたします。
事実を述べるときが、時として悲しいこともありますが、陛下のお気持ちに関しては次回の更新で紹介したいと思います。
「阿南には阿南の考えがあったのだ。気の毒な事をした」。
人望が厚かった阿南陸相の割腹自決は、陸軍全体に大きな衝撃を与え、若干(じゃっかん)の離反(りはん)はあったものの、その後の徹底抗戦への動きを封じることができました。阿南陸相は昭和天皇のご聖断を確かなものにするため、自ら命を絶つとともに、責任の重さから介錯を断って、最期を迎えるまで苦しみ抜いたに違いありません。
陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて陸軍全体をまとめ上げ、最後にはすべての責任を一人で取ったその潔い姿勢は、立派なものであったというべきでしょう。
また、陛下の侍従長として長く仕えたことで、昭和天皇とまさに阿吽(あうん)の呼吸でご聖断を導き出し、本土決戦による我が国滅亡の危機や、ソ連の参戦による北海道などの侵略をギリギリのタイミングで防ぎきった、貫太郎の政治力も素晴らしいものがありました。
国民のことのみを考え、自らを顧みずに下された昭和天皇のご聖断の背景には、鈴木貫太郎や阿南惟幾といった、かつて陛下に直接仕えた「忠臣」による、我が国への無私(むし、私心や私欲のないこと)の行動もあったのです。
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・。
ご聖断の裏にはそんな重々しいエピソードが
あったとは、考えもしませんでした。
そう考えると、現代のこの日本の発展と平和は
阿南陸相や貫太郎首相の命の上に成り立っている
と言っても過言ではない様な気がして来ます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そう考えると、現代のこの日本の発展と平和は
> 阿南陸相や貫太郎首相の命の上に成り立っている
> と言っても過言ではない様な気がして来ます。
私もそう思います。
昭和天皇のご聖断が素晴らしいのは当然として、陛下を支えた二人の忠臣の存在を、私たちは決して忘れてはならないでしょう。