大東亜戦争において、我が国は緒戦こそ勢いがあったものの、長期戦への準備がなかったことや、物量に勝る連合国軍との圧倒的な戦力の差はどうしようもなく、徐々に劣勢(れっせい)に立たされていきました。
そして、もはや敗色濃厚かと思われ始めていた昭和20年4月、前年に枢密院議長となっていた貫太郎は突如(とつじょ)として次の内閣総理大臣に推薦(すいせん)されましたが。しかし、武人の自分には政治は分からないし、何よりも「軍人は政治に干与(かんよ、関与と同じ意味)せざるべし」という明治天皇のお言葉をそのままにこれまでの人生を歩んできた彼にとって、自らが首相になることはできない相談でした。
そんな貫太郎に対して、昭和天皇は「鈴木の心境はよく分かる。しかし、この重大なときにあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と仰られました。
「命ずる」ではなく「頼む」です。我が国の憲政史上、おそらくは陛下から「頼む」と言われたただ一人の人物であろう貫太郎は、亡国の危機が迫る中、難しい局面での内閣総理大臣の重責を担(にな)うことになりました。なお、このとき満77歳の貫太郎は我が国史上最高齢での首相就任であるとともに、元号が明治に改まる前に生まれた最後の総理大臣でもあります。





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鹿児島のタク 77歳ですか。すごいですね。喜寿ですね。
どうやってこの戦争を終戦に導くか、ご苦労なされたことでしょう。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、77歳でのご就任は大変な苦労があったと思います。
歴史上の終戦まであと4ヶ月。鈴木首相はどのように我が国を導いていったのでしょうか。
ぴーち こんばんは!
お陰様で無事、開通することが出来ましたm(__)m
色々とご心配をお掛けしました!
ところで、重傷を負いつつも、奇跡的に
回復する能力の高さも凄い方だったんですね!
しかも内閣総理大臣にその後就くなんて・・
まさに貫太郎氏は日本の夜明けに一役かう為に
生まれて来たという
使命だったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ネットの開通、無事に完了して良かったですね(^^♪
仰るとおり、鈴木貫太郎には大きな使命があったからこそ、ここまで生きながらえて首相の重責に就いたのかもしれませんね。
さて、鈴木内閣が成立した直後の同月12日に、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領が急死しました。当時の我が国にとって、ルーズベルト大統領は戦争相手の元首としてのみならず、前月10日の東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)では甚大(じんだい)な被害を受けるなど、憎んでも余りある存在でした。
しかし、大統領の訃報(ふほう)を耳にした鈴木首相は、当時存在した同盟通信社の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私にはよく同感できる。深い哀悼(あいとう)の意をアメリカ国民に向けて送るものである」との談話を発表しました。
我が国の同盟国であったドイツのヒトラーが、ルーズベルトの死に際して誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の言葉を並べ立てたのとは対照的な、敗色濃厚の窮地(きゅうち)に立ちながらも品位と礼節を失わなかった、武士道精神の発露(はつろ、表面にあらわれること)たる鈴木首相の言葉は、世界中から称賛(しょうさん)されたのです。





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ぴーち こんばんは!
同じ日本人として、誇りに思う貫太郎氏の
文言ですね!
武士道精神に基づく生き方とも言えましょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 同じ日本人として、誇りに思う貫太郎氏の
> 文言ですね!
> 武士道精神に基づく生き方とも言えましょうか・・
私もそう思います。
このような高潔な人物なればこそ、我が国を終戦へと導くことができたのでしょう。
品位と礼節
鹿児島のタク 鈴木貫太郎首相が示したような「品位」と「礼節」…日本の武士道精神に近いのだと思うのですが、現在の日本人も、このような精神の“電流”を持っていることを願っています。この“電流”をもっと強くした方がよいのではないでしょうか。微弱になっているように思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
「古き良き日本」の伝統も取り戻さねばなりません。
鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密(ひそ)かに戦争終結を図ろうと努力していました。しかし、交渉がなかなか進まない間に、ルーズベルトの後継として大統領に就任したアメリカのトルーマンと、イギリスのチャーチル、そしてソ連のスターリンとが7月にドイツのベルリン郊外のポツダムで、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談を行いました。これをポツダム会談といいます。
会談を受けて、7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3ヵ国によるポツダム宣言が発表されました。当時はソ連が対日戦に加わっていなかったため、中国を加えることでカムフラージュしようと考えたのです。
なお、鈴木内閣はソ連が参戦の決定をしていたことを見抜けず、ソ連に対して和平の斡旋(あっせん)を要請していました。このあたりにも当時の我が国の情報戦における決定的な敗北、インテリジェンスの欠如(けつじょ)が見受けられます。





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ぴーち こんばんは!
こんなに情報が溢れている時代でありながら、
現代でも日本は情報に対してどこか鈍感な
所がありますよね?
何が原因なのかは存じませんが、
やはり俗に言う「平和ボケ」が根底に
ある為なのでしょうか?^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現代においては「平和ボケ」による注意力散漫も大きいとは思いますが、戦前と現在とで共通しているのは、いわゆる「スパイ」が政治の世界の奥深くまではびこっているのを許していることだと思います。
戦前はゾルゲや尾崎秀実がそうであり、現在では…。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏にはアメリカによるとんでもない謀略(ぼうりゃく)が隠(かく)されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場(どたんば、最後の場面という意味)でアメリカ大統領のトルーマンが削除(さくじょ)しました。
トルーマンが「天皇の地位の保証」を削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」でした。





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ぴーち こんばんは!
一番の元凶はトルーマンだったのですね。
トルーマン自身、日本を追い詰めることで
得られる自身の利益が他に存在していたのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 アメリカとしては、終戦後の日本占領のイニシアチブをとるためにも、ソ連に先駆けて徹底した攻撃を行いたかったことや、せっかく作った原爆の(それも二種類の)威力を確認したかったこと、さらには落とす国が黄色人種であることから、罪の意識が低かったことなどが挙げられますね。
いずれにせよ、断じて許されるものではありません。
つねまる 先生、はじめまして。
近現代史は絶対に「あと、読んどけ」で済まされたので面白いです。
先輩だか後輩だか不問にしてくださいなのですが、私は千里キャンパスの教室出身です。
司法書士事務所から通信教育で教員免許取得で先生なんて、すごいなあ。
わかりやすくて楽しい歴史、をしてくれる大人の教師に出会いたかったな。
背筋を伸ばして勉強します、先生!
つねまるさんへ
黒田裕樹 同じ大学の校友からのお言葉、恐縮です。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる卑劣(ひれつ)極まる暴挙は、東京大空襲とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺(だいぎゃくさつ)です。
なお、鈴木内閣はポツダム宣言の受けいれをめぐって「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意思を表明しましたが、これがいつしか「黙殺(もくさつ)」という言葉にすり替わり、これが同盟通信社によって「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳(ほんやく)され、さらにはロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道されてしまいました。
このことを受けて、ポツダム宣言に対する日本政府の断固たる態度を見たアメリカが、原爆の広島と長崎への投下を最終的に決断したとの見方もありますが、先述のとおりポツダム宣言の発表前に原爆投下は決定されており、むしろ投下を正当化するために鈴木首相の「発言」が「利用されてしまった」のが真実と考えるべきなのです。





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- 黒田先生
青田です。
トルーマンの無能ぶりは、日本だけでなく、
アメリカ軍人さえ呆れていました。
あのマッカーサー(ニミッツも)
広島長崎への原爆投下を批判しています。元帥たる自身への相談なく行われた上、
日本はソ連へ和平仲介を打診した1945年6月の時点で抗戦の意思がなく、
戦略的に無用であると考えたためです。
これは、マッカーサーは、人道主義者だからではありません。
彼は、戦略的に必要だと思えば、後の朝鮮戦争でも
原爆を投下することを進言しています。
日本だけではなく、アメリカにとっても百害あって、一利ナシの行為だったということです。
私は、考えようによっては、トルーマンは、ヒトラーと同一に思えてしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 トルーマンに関しては、前任者のルーズベルトの死で運良く(?)大統領の地位を手に入れたという劣等感があったため、自分を大きく見せるために、しなくてもよい原爆投下を強行したという説もありますね。
いずれにせよ、とんでもない話ですが…。
ぴーち こんばんは!
仰るとおり、本当に・・・
まるで動物実験でもするかの様な
仕打ちを日本は受けてしまったのですね。
話は変わりますが、
よく味方につければ、最強の人物なのに
敵に回すと最悪な存在になる方がおりますが、
アメリカと言う国を敵に回すと、本当に厄介ですね。
もしも
そういう国相手と真っ向勝負をしてしまった日本に少しは落ち度があったとしたらば・・。
そうだとすれば、もう少しあの戦争が開戦される前に
回避出来る策が考えられなかったものかと
今更ながら思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国の戦争責任を声高に叫ぶのではなく、そうすれば戦争を回避できたのか、あるいはどうすれば有利なうちに講和できたのかなど、前向きな議論をすべきでしょう。
これ以上の悲劇を繰り返さないためにも―。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土が、ソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の窮地に陥(おちい)ってしまいました。
我が国を取り巻いた数々の非常事態を受けて、8月9日の夜に貫太郎はポツダム宣言を受けいれるかどうかを決めるために、昭和天皇の御前で会議を開くことを決めました。いわゆる御前会議のことです。
会議は鈴木首相の他に阿南惟幾陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾(じゅだく)を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、いつまで経っても平行線が続きました。
やがて日付も10日に変わり、開始から2時間経ったある時、鈴木首相は立ち上がって昭和天皇に向かい、こう言いました。
「出席者一同がそれぞれ考えを述べましたが、どうしても意見がまとまりません。まことに畏れ多いことながら、ここは陛下の思し召しをおうかがいして、私どもの考えをまとめたいと思います」。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。。
北方領土問題は存じておりましたが、
原爆投下などをされては困る国が日本だけに留まらず、ソ連までも慌てさせていたということに
驚きました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 原爆投下によって、戦後の占領政策のイニシアチブを取られてしまうことにソ連が焦ったことが、卑劣な条約破棄による侵攻を招いたわけですね。
非常時には綺麗事を言っている場合でなく、また弱いものはやられっぱなしとなる。
だからこそ、国家を護るための防衛力は必須なのです。