日清(にっしん)・日露(にちろ)戦争で戦功を挙げた貫太郎は「鬼貫(おにかん)」とも呼ばれ、海軍大将を経て昭和天皇の侍従長(じじゅうちょう)を務め、二・二六事件で重傷を負いましたが奇跡的に回復し、昭和20年4月に77歳で内閣総理大臣に就任すると、様々な困難を乗り越えて我が国を終戦へと導(みちび)くことに成功しました。
鈴木貫太郎の生涯(しょうがい)はまさに波乱の連続ともいえましたが、幾度(いくたび)もの修羅場(しゅらば)を乗り越えてきた彼の人生をたどることによって、私たちは「目に見えぬ大きな力」がもたらした奇跡を理解することができるのです。
今回の歴史講座では、鈴木首相の人生をたどりながら、明治から終戦までの我が国の大きな歴史の流れを振(ふ)り返りたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
鈴木貫太郎氏ですか・・
私は全く彼の名前すら存じません。
戦争当時、そのような偉大な功績を残した人物が
存在し、具体的にどのような活躍をなさったのか
興味が沸いて来ました^^
これからの記事の内容に期待したいです♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鈴木貫太郎氏は、仰るとおり非常に目立たない人物なんですよね。
しかし、彼抜きでは今の我が国の繁栄か考えられません。これから26日まで講座を続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
明治維新(めいじいしん)を経て本籍地(ほんせきち)である千葉県東葛飾郡関宿町(ちばけんひがしかつしかぐんせきやどまち、現在の野田市=のだし)に父母とともに転居した貫太郎でしたが、幼年期から少年期の貫太郎は体格の良さとは対照的に大きな声をあげて泣くことが多く、周囲から「泣き貫」と呼ばれていたそうです。
父の由哲は貫太郎を医者として育てたかったそうですが、医者をつらい職業と感じた貫太郎本人にその気はなく、そんな折に新聞記事で我が国の軍艦(ぐんかん)が外国で大歓迎を受けたことを知って「海軍に入れば外国に行ける」と思った貫太郎は、初志貫徹(しょしかんてつ)とばかりに両親を説得して、明治17(1884)年に海軍兵学校に入学しました。
しかし、当時の海軍は薩摩藩(さつまはん)出身の人材が多く、いわば賊軍(ぞくぐん)出身の鈴木貫太郎はその中で辛抱強く過ごさねばならなかったのですが、この折の苦労をバネとして彼はたくましく生き抜き、やがて海軍になくてはならない人物にまで成長することになるのです。





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ぴーち こんばんは!
鬼と呼ばれた人物でも、そういう時期があったんですね!
それでも、同じ泣くにしても、大声で堂々と泣いたとの事で、物事を常に声に出して発していくという
姿勢が根本的に備わっていたのかも知れませんね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鬼と呼ばれた人物でも、そういう時期があったんですね!
> それでも、同じ泣くにしても、大声で堂々と泣いたとの事で、物事を常に声に出して発していくという
> 姿勢が根本的に備わっていたのかも知れませんね^^
なるほど、「泣き貫」にもそれなりの理由があったということでしょうね。
何事も人生に生かされるのかもしれません。
次に7歳か8歳の頃、釣りをしていた貫太郎少年が不注意から深い水たまりの中に吸い込まれてしまいました。このとき彼は泳ぎを知らなかったのですが、たまたま厚着をしていたことが幸いし、暴れているうちに衣服の浮力で頭が水面に出たことで、一所懸命もがいた後にどうにか岸に這(は)い上がることができました。
貫太郎の危機は海軍入隊後も続き、明治29(1896)年には海防艦(かいぼうかん)から真っ逆さまに海に落ちたり、昭和37(1904)年の日露戦争の冬には狭い艦内で炭火を起こしたことから一酸化炭素中毒を起こして倒れたりと、彼はその生涯で何度も九死に一生を得る機会に恵まれました。
そんな「運の強い」彼だったからこそ、後述する「二・二六事件」で重傷を負いながら奇跡的に生還したり、亡国の危機に直面した我が国を終戦に導いたりしたような離れ業をやってのけたのかもしれません。大器晩成とは、まさに彼のような人のことを言うのでしょう。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!確かに強運の持ち主ですね!
きっと自分の天命はこういう事であるという
事を悟らせる為に
起こるべくして起こった現象なのでは・・と
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思えますね。
運命というのは本当に存在するのではないか、と鈴木貫太郎の人生を振り返ると確信できます。
また、露骨(ろこつ)な旧薩摩藩優遇に嫌気(いやけ)がさした貫太郎は、明治36(1903)年に一度は海軍を辞めようとしましたが、その折に届いた「日露関係が緊迫(きんぱく)してきた今こそ、大いに国家のために尽くさなければならない」という父からの手紙に目を覚まし、改めて国家に忠誠を誓いました。
そんな貫太郎を、国家も必要としていました。日清戦争では威海衛(いかいえい)の戦いにおいて小さな水雷艇(すいらいてい)を駆使(くし)して決死の電撃戦(でんげきせん)を敢行し、我が国側の勝利に大きく貢献(こうけん)しました。日露戦争でも部下に猛訓練(もうくんれん)を課した後に、日本海海戦においてロシア戦艦スワロフに魚雷を命中させるなど、彼が率いた駆逐艦(くちくかん)は大活躍しました。
かくして日清・日露の両戦争に多大なる戦果を挙げた貫太郎は、周囲からいつしか「鬼貫太郎」、あるいは「鬼貫」と畏怖(いふ、恐れおののくこと)されるようになりました。その後の貫太郎は出世街道を歩み、大正12(1923)年には海軍大将、翌大正13(1924)年には連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん)、さらに翌大正14(1925)年には海軍軍令部長に就任するなど重職を歴任しました。





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ぴーち こんにちは!
世の中は何かと自分にとって敵になるものが
多いですが、
そんなとき、
自分の味方になってくれる人物が一人でも
いれば、どんなに波乱に満ちた人生になろうと
何とか突き進んでいけるものなのだなと改めて
感じるお話ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
信頼できる上司や身内、あるいは仲間の存在は大切だと改めて考えさせられます。
「武骨者(ぶこつもの)の自分には到底(とうてい)務まらない」と貫太郎は辞退しましたが、昭和天皇ご自身のご希望もあり、最終的に彼は侍従長への就任を承諾しました。侍従長は軍籍(ぐんせき)が予備役になるだけでなく、前職の軍令部長に比べれば宮中席次(きゅうちゅうせきじ)のランクが30位も下がりましたが、それらをすべて承知のうえで彼は侍従長の職を引き受けたのです。
昭和4(1929)年1月に侍従長になった貫太郎は、いつしか「大侍従長」と呼ばれ、昭和天皇をはじめ周囲から厚い信任を受けることになりましたが、逆にこのことが彼を危険な目にあわせてしまうことになるのが、歴史の流れの恐るべき一面ではあります。
なお、貫太郎が侍従長に就任した同じ昭和4年の8月に、一人の男が陸軍の侍従武官として着任しました。苦労人として知られ、人望も厚かったその人物の名を阿南惟幾(あなみこれちか)といい、阿南自身も貫太郎の懐(ふところ)の深い人格に尊敬の念を抱(いだ)くようになりました。
この時期に貫太郎と阿南の両人が昭和天皇に仕えたという事実が、その後の我が国の運命を大きく動かすことになるのです。





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ぴーち こんにちは!
確かに階級も名誉な事ですが、
天皇ご自身から慕われ、側近としてお仕事が
出来る事の方が、はるかに名誉な事であると
思いますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり名誉なことですし、格が低くなるからと言って断るような狭い料簡を、鈴木貫太郎自身が持っていなかったことも大きいと思われますね。