彼らを指導あるいは統制(とうせい)しなければ道を誤るかもしれないとの考えから、明治7(1874)年に鹿児島に私学校(しがっこう)がつくられましたが、人材育成がその主目的だったはずが、いつしか西郷を中心とする私兵養成所の様相(ようそう)を呈(てい)するようになりました。
私学校の影響はいつしか県下の行政組織や警察網(けいさつもう)にまで及び、鹿児島県が政府に租税(そぜい)も納(おさ)めなくなったことから、やがては鹿児島全体が独立国のように感じられ始めました。
時あたかも明治9(1876)年に廃刀令(はいとうれい)や秩禄処分(ちつろくしょぶん)が出され、武士としての誇(ほこ)りや経済的な拠(よ)り所(どころ)が政府によって失われたことをきっかけとして、九州を中心に士族の反乱が相次(あいつ)いで起きていました。
西郷の動きを警戒(けいかい)した政府は、大警視(だいけいし、現在の警視総監=けいしそうかん)の川路利良(かわじとしよし)に命じて密偵団(みっていだん)を組織して鹿児島に派遣し、彼らの動静(どうせい)を探(さぐ)ろうとしましたが、そんな折の明治10(1877)年1月下旬(げじゅん)に、陸軍が鹿児島に貯蔵していた武器弾薬(ぶきだんやく)を運ぼうとしていたところに血気盛(けっきさか)んな私学校の生徒たちが襲撃(しゅうげき)して奪い去るという事件が発生してしまったのです。





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ぴーち こんばんは!
何と表現するべきか存じませんが、
西郷さんの意思とは別に、周りの人間が
西郷さんの名を借りて、自分たちの
野望を果たそうする勢いが旺盛であったように
思います
西郷さんのカリスマ性を利用して
世の中を変えてやろうという
思いが大きく膨張し、既にその勢いは
誰にも止められないという状況が思い浮かべられました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷さんのカリスマ性があまりにも高いゆえに、私学生の生徒が「西郷先生ならこう考えるに違いない」と勝手に解釈して暴走したとも言えますね。何という皮肉でしょうか…。
大久保利通と川路利良
鹿児島のタク 黒田先生へ
以前は、島津久光⇒大久保利通⇒川路利良は、鹿児島ではあまり好かれていませんでした。
今でも、年配の方は「西郷さん」と呼びますが、大久保さんに対しては「大久保」…と呼び捨てにする方も多いです。
しかし、時代は流れ、いろいろな歴史研究もあり、今では、大久保利通も西郷ドンに並ぶ郷土の偉人と認識している人が多くなってきました。
川路利良については、西南戦争勃発の直接的な原因を作った人ですが、現在では県庁前広場に、川路大警視の銅像が建てられています。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 時代も変化しつつあるんですね。
お互いが国を思っての結果ですので、再評価を受けることは良いことだと思います。
西郷の怒りは、自身がもはや私学校の生徒たちの勢いを止められないという悲しみでもありました。事実、政府が放(はな)った密偵の一人が逮捕(たいほ)されて「西郷の刺殺(しさつ)計画」を自供(じきょう)したこともあって、決起(けっき)以外に手段がないところまで追いつめられてしまったのです。
西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに明治10年2月に政府に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)しました。世にいう「西南戦争」のはじまりです。ただし、西南戦争自体はもちろん単純な「不平士族の反乱」だったのではなく、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末(そまつ)に扱(あつか)おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという面も含まれていました(これに関しては後で詳しく紹介します)。
ちなみに有名なハリウッド映画「ラストサムライ」は、このような面までアメリカが日本を研究し尽くしていることによって制作することができたともいえます。





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-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ハリウッドが日本の映画を作る場合は、わが国よりもよっぽど時代考証などがしっかりしていることが多いです。
世の中の雰囲気に流されないという映画人の矜持がそうさせているのかもしれませんが、ラストサムライなどは二重の意味でおすすめと言えるかもしれませんね。
避けられない宿命
- 黒田先生
青田です。
明治2年に亡くなった大村益次郎は、
必ず、薩摩で反乱が起こると、
武器を大阪に移していました。
それは、その当時の薩摩武士(薩摩隼人)の気風を
大村益次郎は、わかっていたからだと思います。
ただ、この時の大村益次郎も、西郷隆盛がその反乱の旗頭になるとは、予想できなかったと思います。
そう考えると、薩摩で反乱が起きるのは仕方ないとしても西郷隆盛は、日本のためにも旗頭になって欲しくなかったです。
それは、西郷隆盛だけが優秀というだけでなく、
村田新八のように、これからの日本に必要な人材が西郷隆盛の周りに多くいたからです。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに宿命だったのかもしれませんね。
あたら有益な人災を多く失ったことは残念の一言ではありますが、どうしようもなかったとも言えそうです。
鹿児島のタク ハリウッド映画「ラストサムライ」の主人公(渡辺謙さん)は、明らかに西郷隆盛だと感じました。
それに対して、徴兵令による近代軍隊を作ろうとしていたのは、大村益次郎ですね。
それにしても「ラストサムライ」は、私の中でもとても印象に残っている映画です。
西郷ドンがどのような考えで、西南戦争を起こしたか(担がれたか)難しいところですが、鹿児島には勝海舟による次のような和歌の碑文が私の知るところ2か所にあります。
「濡れぎぬを 干そうともせず 子どもらが なすがままに 果てし君かな」…この場合の「子どもら」がには、桐野利秋らが含まれていると考えてよいのかはよく分かりませんが、薩摩士族(若者)…私学校の生徒たちを表していると思います。
それにしても、勝海舟という人物は、西郷ドンのよき理解者だったと言えると思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 「ラストサムライ」は素晴らしい映画だと思います。なぜあれだけの作品を我が国が作れないのでしょうか。
勝海舟は西郷さんとお互いが国家のために命がけで腹を割って話した人物同士ですから、理解できるところも大きかったと思われます。
なぜなら、本気で政府を倒そうと思えば、政府軍の援軍(えんぐん)が到着(とうちゃく)する前に海路(かいろ)を利用して本州(ほんしゅう)へ攻め上(のぼ)った方が遥(はる)かに得策(とくさく)だからです。しかし、西郷軍はあくまで目の前の熊本城の攻略(こうりゃく)にこだわり続けました。
戦いは「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂(たばるざか)」と後に歌われた田原坂を中心に激しいものとなりましたが、西郷軍が時間を費(つい)やす間に政府軍に取り囲まれるという失態(しったい)を犯(おか)し、いつしか形勢(けいせい)が逆転して追いつめられるようになりました。
なぜ西郷軍は熊本城攻略にこだわったのでしょうか。私たちはそこに「闘戦経」から浮(う)かび上がる西郷の「死生観(しせいかん)」とその覚悟をうかがい知ることができるのです。





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- 黒田先生
青田です。
政府軍も、かなり、つらかったと思います。
山縣有朋は、直属の部下でした。
大山巌は、西郷の従兄弟、
川路利良は、西郷の推薦で、警視総監になりました。
この後、大山巌、黒田清隆は、二度と薩摩に帰らない決意をし、生涯薩摩にも帰らなかったそうです。
まさに、骨肉の争いになってしまいました。
これは、推測ですが、本州に攻めず、熊本城の攻略に固執したのは、政府にいる薩摩の同士との躊躇をあった気がします。
田原坂の戦いでも、政府の会津抜刀隊と薩摩兵がまともに戦っただけですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりの側面は確かにあったと思われます。
ただ、西郷さんは身内同士としての戦いよりもさらに大きなところで行動されていたのではないかとも考えられます。
ぴーち こんばんは!
本当に何故に熊本城に拘ったのでしょうか?
明日の記事にそのお応えが用意されているのでしょうか?楽しみです。^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 本当に何故に熊本城に拘ったのでしょうか?
> 明日の記事にそのお応えが用意されているのでしょうか?楽しみです。^^
次回と次々回でその理由を明らかにする予定です。
ご期待いただければと思います。
「死を説(と)き生を説いて、死と生とを弁(べん)ぜず。而(しこう)して死と生とを忘れて死と生との地を説け」。
直訳すれば「死とは何かを説き、生とは何かを説こうとしても、死と生とはわかるものではない。むしろ、死と生とを忘れ、死すべき地と生きるべき地とを説け」となるこの言葉に託(たく)された真意はどこにあるのでしょうか。
人間は「死とは何か」「生とは何か」を抽象的(ちゅうしょうてき)あるいは思弁的(しべんてき、経験によらず思考や論理にのみ基づいていること)に考えても、なかなか真理に到達(とうたつ)できるものではないが、生死の抽象的な思考を一旦脇(わき)に置いて、生死の問題から来る不安を去り、現実的に、あるいは具体的に自分がどこに活路を見出(みいだ)し、どこで死を決すべきかを常に平常心で考え、覚悟できている境地を磨くべきである。
西郷はそのような境地(きょうち)を得ていたのではないでしょうか。ただしこれも現在の私の理解でしかなく、西郷の偉大(いだい)さにもっと触(ふ)れようと試(こころ)みるのであれば、さらなる深い理解が必要であると考えています。
ところで、西郷は決起した際に「おはんらにこの命預けもんそ」と言っていますね。この言葉、普通は逆ではないでしょうか?





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ぴーち こんばんは!
「おはんらにこの命預けもんそ」とは「お前たちに
自分の命を預けるぞ」と言う意味で解釈して
良いのでしょうか?
方言の意味が判らずにすみませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「おはんらにこの命預けもんそ」とは「お前たちに
> 自分の命を預けるぞ」と言う意味で解釈して
> 良いのでしょうか?
そのとおりです。
しかし、これから戦いに挑もうとする指揮官の言葉としては逆なんですよね。
その真意はどこにあるのでしょうか。
これを裏付(うらづ)ける話として、熊本城を結果として落とすことができなかった際、西郷は「熊本の鎮台兵(ちんだいへい)は立派に戦った。これならば、日本全国を挙げて兵にしても決して不可はない」とむしろ喜んだことが伝えられています。
要するに、西郷が激しく戦ったのは、出来たばかりの明治政府を自らの手で潰(つぶ)すためではなく、先述のように急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした明治政府への「日本精神からの異議申し立て」とともに、武士が築(きず)いた明治維新でありながら、その武士を葬(ほうむ)り去らねばならなかった矛盾(むじゅん)を一身に引き受けての壮絶な「死出(しで)の旅路(たびじ)」だったのです。
これらの目的を達成するために生きながらえてきたと悟(さと)った西郷だからこそ果敢に戦い、そして最期の時を迎(むか)えようとしていました。





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ぴーち こんばんは!
人間、どうしても
新しいものに興味が移りがちですし、
それと同時に古いものは忘れ去られる運命であるものだとは思いますが、それまで生かされてきた
日本人の心を簡単に失う訳にはいきませんよね。
新しい潮流が激しい程、それを食い止めようとする思いの強さもまた、相当な力が必要であった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
特に日本に生まれた私たちは、先人の思いや伝統を捨て去ることはできませんし、そうしてもないがしろにしなければならないときは、まわりまわって必ず帳尻が合うような人生を歩むのではと思います。
一度死んで生き返った西郷さんにとって、ある意味これ以上ない死に場所が西南の役だったのではないでしょうか。