明治元(1868)年1月3日、慶喜率(ひき)いる旧幕府軍は、薩長を中心とする官軍(かんぐん)となった討幕軍と京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激突(げきとつ)しました。これを鳥羽・伏見の戦いといいます。戦いは結果として官軍の圧勝(あっしょう)に終わり、朝敵(ちょうてき)となった慶喜は江戸城に入りましたが、勢(いきお)いに乗る官軍は慶喜への征討軍(せいとうぐん)を編成(へんせい)して江戸へ向かわせました。
征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫(せま)ってくると、旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)は早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉(こうしょう)を委任(いにん)されました。
江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)となっていた西郷と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼(いらい)しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突(つ)き付けました。
西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除(ぶそうかいじょ)などであり、山岡はそれらの要求を大筋(おおすじ)で受けいれたものの、一つだけは断固(だんこ)として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩(びぜんはん)に預(あず)けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。





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ぴーち こんにちは!
お誕生日、おめでとうございます♪
これからも健康に留意いただき、益々のご活躍を期待致しております♪
さて、本文の内容に関してですが
テーマの主役は
西郷さんですが、今回はなにやら山岡氏の
気持ちもよく分かる様な気もしますね^_^;
主君の危機を回避させる為には
何が何でも
ここで絶対に頷いてはいけないでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございますm(_ _)m
今後とも宜しくお願いいたします。
旧幕臣全員の思いを一身に受けた山岡氏はまさに必死でした。
彼の行動と発言がやがて歴史を大きく動かすことになります。
キーパーソンたち
鹿児島のタク 「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。」これは、後で取り消す条件になるのですが、これは旧幕府側としては、どうしても飲めない条件でしょうから…?
ある種の“落としどころ”…(こう言っては歴史に失礼かもしれませんが・・・)を探っていたのでしょうか。お互いに…?
それにしても、今回は西郷ドンが主役ですが、旧幕府側に勝海舟・山岡鉄舟という人物がいたことは日本史においてラッキーといっては変ですが、キーパーソンたちだと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大参謀の西郷さんと旧幕臣の山岡氏とでは全く立場が異なりますからね。落としどころがあったとしても、山岡氏は相当な巻き返しが必要だったと思われます。彼はいかにして逆転したのか?
そう考えれば、仰るとおりキーパーソンですね。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の決死の意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰(つ)まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断(よだん)を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。





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ぴーち こんにちは!
なるほど。。
非情な人間ならば、相手がどんなに正論をぶつけてきても、また、情けを乞う様な泣き言を訴えたとしても、聞く耳を持たずに一蹴してしまうのでしょうけれど、やはり西郷さんの人柄が現代の後世までも尊敬に値する人物だと認識されている所以と言うのは、こういう場面で相手の訴えに対して、ちゃんと聞く耳を持つことが出来た所にもあったのかしら・・と思うのですが、いかがでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにあると思われます。
筋が通る話には耳を傾け、それで問題ないと思えば自分がすべての責任を負う。
リーダーとしてこれだけ素晴らしい人物は存在しないでしょうね。
西郷ドンの度量!?
鹿児島のタク 本来ながら、いくら大参謀としての西郷ドンと言えども「慶喜の件を自分に一任するする」“権限”までは、持たなかったのではと思います。
何と言っても「慶喜の備前藩お預け」については「朝命」ですから…。
それを一身に受けたところが(自分の責任で)、西郷ドンらしいなと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、朝命をひっくり返すという荒業を一身に引き受け、しかもそれを実現してしまうという途方もない度量は西郷さんならではだと思います。
このあたりも国史の奇跡と言えるでしょう。
この後4月に江戸城は無血開城(むけつかいじょう)となり、戦いで多くの血が流されることを回避(かいひ)できたほか、江戸を焼け野原から防(ふせ)いだことは後の首都移転など大きな効果をもたらすことになりました。
江戸城の無血開城の立役者(たてやくしゃ)は西郷や勝海舟と一般的には言われていますが、その西郷と事前に命がけで交渉を行った山岡鉄舟の功績(こうせき)も見逃(みのが)せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞(さんじ、ほめたたえる言葉)を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末(しまつ)に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、脚光を浴びる人物の裏には
またもう一人の立役者が存在するものですね!
たまたま世間に名を轟かせることが出来た人物は
いつまでも記憶に残るものですが、
影になってしまった人物の名前は
なかなか日の目を見る事は出来ないですが、
それでも、無理に主張せずに、謙虚な思いを持ち続ける人物こそ、真の立役者として相応しい人物なのかも知れません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、真の立役者というものは文字どおり縁の下の力持ちであり、影の存在として別の意味で輝いているのかもしれませんね。
いつの日か山岡鉄舟の講座もやってみたいものです。
金もいらぬ…
鹿児島のタク 「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」
上の言葉は、山岡鉄舟に対する賛辞だったのですね。初めて知りました。
山岡鉄舟については、確か高等学校の日本史の教科書にも出てこないのではないかと思いますが、このような人物が、きっとほかにも多くいたから日本の植民地化も避けられたと思います。
有難いことです。
また、徳川慶喜を殺さなかったことについては、何か日本人として、ほっとするところがあるのですが…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、山岡鉄舟の存在は西郷さんの賛辞とともにもっともっと知られるべきだと思います。
慶喜を生きながらえさせたのは、やはり日本人だからなのでしょう。
かつて幕府のもとで京都守護職(きょうとしゅごしょく)を務めた会津藩(あいづはん)に対して、長州藩が当時の恨(うら)みを晴らすべく攻め込(こ)んだのです。後に会津戦争と呼ばれた戦いにおいて会津藩は徹底的に攻撃を受け、多くの血を流した末に降伏しました。
一方、江戸市中の警備を担当(たんとう)した際に薩摩藩邸を焼討ちした庄内藩も果敢(かかん)に戦い続けましたが、会津藩の降伏を知ると抵抗(ていこう)をあきらめました。厳しい処分が下ることを見越(みこ)した庄内藩は藩主や重臣が白装束(しろしょうぞく)に身を包んで切腹(せっぷく)を覚悟していましたが、降伏式に臨(のぞ)んだ西郷はその様子を見て真っ先に叫(さけ)びました。
「切腹して詫(わ)びるなどとんでもないことだ!」





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ぴーち こんにちは!
西郷さん、嘗てご自分が入水自殺を図ったことに対して、相当な反省があったのでしょうか・・。
仰るとおり、切腹して事なきを得ようとする
考え方は浅はかだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷さんご自身の貴重な体験が今回の大きな流れにつながっていると思われますが、彼の人生経験が更なる「武士道精神」をもたらせたとも考えられますね。
詳しくは今後の更新をご覧ください。
幕末最強の庄内藩
- 黒田先生
青田です。
庄内藩は、徳川四天王の一人、酒井忠次を始祖とする藩で、徳川への忠誠心が非常に高い藩です。
さらに
庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしただけではなく、
最後まで、連戦連勝で、勝つ続けた
幕末最強の組織です。
官軍の立場からすると
切腹は、当たり前ですよね。
この西郷の言葉を聞いて、
白装束の藩主以下は、感涙のあまり号涙しました。
西郷隆盛の戦いは、非常でも、処分は寛大な姿勢では、カッコ良さを感じてしまいますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷隆盛の花も実もある裁きぶりはかっこよすぎますよね。
寛大な処分の背景には何があるのでしょうか。
鹿児島県人への恨み…!?
鹿児島のタク 黒田先生へ
私は鹿児島県人ですが、以前会津若松市に旅行した時、ハイヤーの運転手さんが「福島県人は今でも鹿児島県人を恨んでいます。」と、隣の旅行者に説明していました。
それを言うなら、「山口県人」と言ってくれよ。…とも思いましたが、確かに会津攻めには、薩摩藩士も参加しています…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 そうなんですか。鹿児島からすると確かに納得できない話ですよね。
積年の恨みというのは難しいものです。
また城明け渡しの儀式に際しては「敵味方に分かれるのは運命であり、一旦(いったん)帰順(きじゅん)したからには兄弟も同じである」と官軍を丸腰(まるごし)で入場させる一方で、庄内藩士には帯刀(たいとう)を許しました。
庄内藩の処分も藩主酒井忠篤(さかいただずみ)に謹慎を命じただけの軽いものであり、その寛大(かんだい)すぎる処置(しょち)に官軍内部から不満の声が上がりましたが、西郷は以下のように答えてそれらを一蹴(いっしゅう)しました。
「武士が一旦兜(かぶと)を脱(ぬ)いで降伏した以上、武士の一言(いちごん)を信じるのが武士というものである。もし反逆(はんぎゃく)すればまた討(う)てばよい」。
それにしても、長州藩の厳しい処置に比べて、なぜ西郷はここまで寛大であったのでしょうか。その背景には、西郷が自然と身に着けていた武士道精神に基(もと)づく兵法がありました。
その精神をまとめたものを「闘戦経(とうせんきょう)」といいます。





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ぴーち こんばんは!
「闘戦経」の内容は全く存じませんが、
よく武士に二言は無い。などという諺がありますが
その諺も、その経の中に書かれていた教えだったかしら・・とふと思いました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 闘戦経についてご存じでない方は多いのではないかと思います。
「武士に二言はない」と同じような精神とも言えますし、詳細については次回以降の更新をご覧いただければと思います。
そこで、今から約900年前の大江家(おおえけ)があらわした兵法書が日本人本来の精神的な崇高(すうこう)さや美徳を重視した闘戦経であり、武士道精神を守るとともに、孫子ばかりに頼って国を誤(あやま)ることのない様にと伝えられたものとされています。
なお、孫子と闘戦経とを表裏(ひょうり)で学んだ天才的な武人としては、あらゆる戦術(せんじゅつ)を完璧(かんぺき)にこなして類稀(たぐいまれ)なる立派(りっぱ)な戦例を残しながら、最期には君命(くんめい)に従って湊川(みなとがわ)で壮絶(そうぜつ)な戦死を遂げた楠木正成(くすのきまさしげ)の名が挙(あ)げられます。
鑑(かんが)みれば、西郷隆盛のこれまでの姿勢は時として幕府を挑発して戊辰戦争を起こさせるなど「孫子の兵法」が見られる一方で、山岡鉄舟の説得を受けいれたり、自ら降伏した庄内藩に寛大な処置を行ったりと「武士道精神」の神髄(しんずい)が見受けられるのも、西郷自身が闘戦経の体現者(たいげんしゃ)である証拠(しょうこ)だとはいえないでしょうか。
なお、闘戦経に基づく武士道精神は、その後の彼の人生に幾度(いくど)も垣間見(かいまみ)えるようになります。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、外国で説かれたどんなに優れた教えであっても、そっくりそのまま、私達が真似をしていこうとしても、成功できるとは限りませんし、逆に失敗に終わる恐れもあるという事ですね。
外国の憲法をそのまま日本に採用しようとしても、
全部が全部、日本に有利に働かないのと同じように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
我が国では外国の文化を取り入れながらも、それらを日本風に上手にアレンジして独自のものをつくりあげてきたという輝かしい歴史があります。
そう考えれば、アメリカがつくった憲法を後生大事に守っていく必要性は薄いでしょうね。