一方、西郷の親友であった大久保利通は久光に取り入り、側近(そっきん)として重用(ちょうよう)されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代が西郷を必要とするようになると先を読み、あえて猫(ねこ)をかぶっていたのです。
やがて利通の読みは当たり、文久(ぶんきゅう)2年(=1862年)に起きた久光の行列をイギリス人が馬で横切ったことから殺傷(さっしょう)されたという生麦事件(なまむぎじけん)の悲劇の後、翌文久3(1863)年に薩摩藩がイギリスと衝突(しょうとつ)して薩英戦争(さつえいせんそう)が起きると、このような非常事態(ひじょうじたい)に対応できるのは人望が篤(あつ)い彼しかいないということで、ついに西郷が呼び戻(もど)される日がやってきました。
まさに天命。島流しの苦労に耐(た)えて人間としてより磨(みが)きのかかった西郷に天は歴史の表舞台(おもてぶたい)を用意し、その期待に応(こた)えるかのように以後の西郷は獅子奮迅(ししふんじん)の働きを見せるようになるのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど~!
入水自殺未遂に関しての刑罰が昔の日本には存在していたとは驚きでした!
今の時代も、自殺行為に及んだ人間になんらかの懲罰制度が存在すれば、自殺者の数も減少するかも
知れませんね^_^;
それはさておき、西郷さんはその刑にしっかりと服して罪を償ったことに関しては、良かったと思いました。
大久保利通との性格の違いがこのお話からも
伺えますね!
柔軟的で要領の良い大久保と、真っ直ぐで不器用な西郷さん。
二人の性格が一つに合致した時には、世の中の動きをも変えてしまう大きな偉業を成し遂げるのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 西郷の場合、流されたのは幕府の追及を免れるために別人扱いにしたとおう事情もありましたが二回目は久光との確執が主原因でした。
とはいえ、島流しの苦労が後の西郷の土台となったのは確実ですし、大久保のアシストも大きかったですね。
禁門の変によって面目(めんぼく)を取り戻した江戸幕府は、長州藩に追い打ちをかけるべく諸藩を動員して討伐(とうばつ)の軍を起こしました。これを第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)といいます。
当時の長州藩はイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国が下関(しものせき)を砲撃(ほうげき)して占領(せんりょう)するという四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)が起きるなど、まさに満身創痍(まんしんそうい)でした。
こうした状況(じょうきょう)を考えれば、幕府の征伐によって長州藩に致命的(ちめいてき)な打撃を与えることも十分に可能でしたが、四国艦隊下関砲撃事件も加わっての長州藩の弱体化(じゃくたいか)がいずれは「日本国」への侵略(しんりゃく)につながると判断(はんだん)した西郷にとって、それは好(この)ましいことではありませんでした。
西郷は自(みずか)ら敵地(てきち)の岩国(いわくに)に出向いて説得し、一戦も交(まじ)えることなく長州征伐を片付(かたづ)けることに成功しましたが、幕府が長州征伐にこだわり続ける姿勢(しせい)を見せると、やがて西郷は幕府を見限り、敵対していた長州藩と手を結ぶ道を模索(もさく)し始めたのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
長州を味方につけると付けないとでは、
戦いの勝利が大きく幕府に傾いてしまうという
判断をいち早くつけた西郷さんの先見の明が
功を奏したお話ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、幕府の態度に問題がある以上は西郷さんの好判断が我が国を救ったことになりますね。
大局を見ることができなければ国政を任せるわけにはいきません。
そんな薩長の動きを知らない幕府は同年6月に第二次長州征伐を実行しましたが、薩摩藩が出兵を拒否(きょひ)するなど諸藩の集まりは悪く、幕府の士気もふるわなかたことから不利な戦況となり、大坂城(おおさかじょう)へ出陣(しゅつじん)していた14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が7月に21歳の若さで急死すると、それを口実(こうじつ)に戦闘(せんとう)を中止しました。
第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成り立っていた幕藩体制(ばくはんたいせい)の崩壊(ほうかい)を意味しており、幕府の威信(いしん)は文字どおり地に堕(お)ちてしまいましたが、そんな幕府に追い打ちをかけるように年末に大きな不幸が起きてしまいました。
孝明天皇(こうめいてんのう)が37歳の若さで崩御(ほうぎょ)されてしまわれたのです。孝明天皇は攘夷のお考えが強かったものの、討幕を好まれずに公武合体(こうぶがったい)のお立場であっただけに、幕府にとっては大きな痛手(いたで)となってしまったのでした。
なお、孝明天皇の皇子(おうじ)でまだお若かった明治天皇(めいじてんのう)が122代天皇として即位(そくい)されたほか、幕府の15代将軍として一橋家(ひとつばしけ)で水戸藩出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が就任(しゅうにん)しました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
今日のお話を伺っていると
改めて、血を絶えさせない努力は重要なことであったのだなと思いました。
現代の様に、食料も豊かではなく、医療の発達もなかった時代には、今なら軽く扱われる病でも、昔なら死に直結する事態に陥ったことでしょう。
そんな中、思いもよらずに若死にしてしまうケースも多く、そういう意味では、いざと言う時の為に
子孫をより多く残しておかなければいけないという
人間の苦肉の策というか、工夫というか(・_・;)
文化の発展や、国の豊かさの有無で、子供の数は決まるものだと、今更ながら思いました^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、医学の発達した現代とは違って当時は重い病で若くして世を去ることが多かったですからね。
「子孫を残すこと」がいかに重要であったかが、今回の事例を見てもよく分かります。
皮肉な巡り合わせ
- 黒田先生
青田です。
徳川慶喜は、島津斉彬が第14代将軍継承者として
推していました。(一橋派)
そして、その時、西郷隆盛は、お庭方として
同じように徳川慶喜を推す水戸藩の藤田東湖などと
人脈を創っていました。
さらに、徳川慶喜を第14代諸軍後見職にしたのは
薩摩藩の島津久光です。
いわば、徳川慶喜を第15代将軍にしたのは
薩摩藩とも言えます。
本当に皮肉な巡り合わせですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり皮肉ですね。
歴史上の出来事はこうした皮肉な展開が数多く存在しているようにも思えます。
しかし、こうした事態を予想していた慶喜が先手を打つ形で同じ10月14日に朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を行い、政権を朝廷に返上(へんじょう)しました。
幕府による大政奉還は、薩長らの討幕の密勅がその根拠(こんきょ)を失(うしな)っただけでなく、徳川家が来るべき新政権の中心的な存在(そんざい)として政治の実権を握り続けるという可能性も秘めていました。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がないと憤(いきどお)った西郷らの薩長両藩や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの討幕派は、同年12月9日に武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)といいます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
幕末の頃のこういうお話を伺っていると、
幕府側と倒幕派のどちらも後には引けない
必死さが伝わって来ますね。
これまで15代も継続された幕府の歴史を自分の代で失ってはいけない慶喜の気持ちも
判りますし、
死に物狂いで挑んできた倒幕という目標を
果たせない屈辱を味わいたくはないという思いの
ぶつかり合い。
このシーソーゲームの様な展開はいつまで
続くのでしょうか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、幕府と討幕派とのまさに丁々発止のやり取りが続いていました。
この争いは王政復古の大号令当日の夜にも続くことになります…。
徳川慶喜という人物
鹿児島のタク 15代将軍となった徳川慶喜という人物は、なかなかの人物みたいですね。「大政奉還」なんて…じゃあ、朝廷が実際の政治をやることなんてできないと判断していたのでしょうか。
土佐の藩主!?…山内容堂公などの進言があったような本を読んだことがあります。
それにしても、討幕の密勅は本物の写真を何度も見たことがあります。薩摩藩に対しては、最高実力者の島津久光と藩主:島津忠義宛てになっていますが、本文と差出人の書体が一緒ですし、2人の差出人の書体が全く同じですので…正規のルートで奉られた“密勅(勅命)”ではないという話もよく出てきますが、どんなものでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大政奉還によって幕府は存在しなくなりますから、討幕の密勅はその意味を失います。こういう理屈を慶喜自身が分かっていたでしょうし、徳川家の立場を残す意味でも大政奉還に踏み切ったのでしょう。
山内容堂の助言という説もありますが、慶喜の優秀さあってこそだと思います。
討幕の密勅に関しては、どのような背景があったかは分かりませんね。仰るような裏事情があったのかもしれません。
休憩時、岩倉は外で警備(けいび)をしていた西郷に意見を求めると、西郷は「短刀(たんとう)一本あれば用は足(た)りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟(かくご)をもてば道は開けると岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届(とど)くと、土佐藩に傷(きず)をつけてまで幕府に肩入(かたい)れすることはないと判断した山内はその後沈黙(ちんもく)し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。結局慶喜は将軍のみならず内大臣(ないだいじん)の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。
しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた幕府が巻(ま)き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜(ほねぬ)きにされ、慶喜の実権が温存(おんぞん)されようとしたため、西郷は最後の手段として江戸の商家(しょうか)を薩摩藩という身分を隠(かく)さずに片(かた)っ端(ぱし)から襲(おそ)い、幕府を挑発(ちょうはつ)して慶喜の名誉(めいよ)が回復する前に戊辰戦争(ぼしんせんそう)を起こさせることに成功しました。
西郷によるなりふり構(かま)わぬ策士(さくし)ぶりが大きな歴史の流れを動かしたことになります。なお、この当時江戸市内の警備をしており、江戸の薩摩藩邸(さつまはんてい)を焼討(やきう)ちして戊辰戦争のきっかけをつくったのが酒井家(さかいけ)の庄内藩(しょうないはん)だったことが、後の西郷自身と庄内藩との運命を大きく変えることにつながりました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
幕府も己の力を過信し過ぎた事が結果的に
自分の首を絞める結果となったのでしょうか。
驕れるもの久しからず。
幕府も思い上がった途端に、足を掬われたとでも
言いましょうか。
「短刀一本・・・」
鹿児島のタク 「短刀一本あれば、済むこっじゃごわはんか!」(鹿児島弁)…この言葉は、歴史を大きく動かしたものだと私も思います。
江戸の街に火付けをし、薩摩藩邸に火をつけさせるとは、西郷ドン(らしからぬ?)策士ぶりですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに幕府は最後の詰めが甘かったですね。西郷の何でもありの精神が、長年政権を担当し続けた徳川家には及びもつかなかったのかもしれません。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷の並外れた胆力が歴史を大きく動かしたと言えそうです。
西郷の策士ぶりは孫子の兵法を彷彿とさせますが、それだけではないところも西郷さんの魅力ですからね。この件に関しては後日改めて紹介します。