西郷隆盛は様々(さまざま)な苦難(くなん)の末(すえ)に討幕(とうばく)を果(は)たして、明治新政府の重鎮(じゅうちん)としても多くの業績(ぎょうせき)を残しましたが、やがて征韓論争(せいかんろんそう)に敗れて下野(げや)し、西南戦争(せいなんせんそう)を起こして城山(しろやま)の露(つゆ)と消えるという非業(ひごう)の最期(さいご)を遂(と)げました。
我が国の長い歴史の流れの中で、彼は私たちに何を残したのでしょうか。また、私たちは彼から何を学ぶべきなのでしょうか。
今回の講座では、西郷隆盛の「ラストサムライ」としての生真面目(きまじめ)な生涯(しょうがい)をたどりながら、幕末(ばくまつ)から明治にかけての数々のエピソードなどについて分かりやすく紹介(しょうかい)していきたいと思います。





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ぴーち こんにちは!
今回から西郷さんのお話が始まるのですね!
歴史に疎い私でも、西郷さんのお人柄は尊敬に値する人物であるという漠然とした思いがありますが、詳細はいつもながら存じませんので、今回も興味深く読ませていただきたいと思います^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回から西郷さんのお話が始まるのですね!
> 歴史に疎い私でも、西郷さんのお人柄は尊敬に値する人物であるという漠然とした思いがありますが、詳細はいつもながら存じませんので、今回も興味深く読ませていただきたいと思います^^
有難うございます。
今回から30回に分かれての長丁場となりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
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生真面目…
鹿児島のタク 一般に、西郷隆盛と言えば“豪傑”と言うイメージを持つ方も多いと思いますが、黒田先生が書かれているように「生真面目」な人だったと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 > 一般に、西郷隆盛と言えば“豪傑”と言うイメージを持つ方も多いと思いますが、黒田先生が書かれているように「生真面目」な人だったと思います。
私もそう考えて副題を選びました。
彼の生真面目な生涯をじっくりとたどっていきたいと思います。
西郷家は御小姓組(おこしょうぐみ)として勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)を務(つと)めていましたが、当時はすっかり零落(れいらく)しており、幼年期の西郷も貧(まず)しい中で過ごしましたが、そんな彼を育(はぐく)んだのが郷中教育(ごじゅうきょういく)でした。
郷中教育は先輩(せんぱい)が後輩(こうはい)を直接指導(ちょくせつしどう)するという「自主教育」が大きな特徴(とくちょう)であり、藩士たちは6~7歳からの小稚児(こちご)、11歳~14歳くらいまでの長稚児(おさちご)、さらに14~15歳から24~25歳の二才(にせ)に分けられ、小稚児の指導を二才と長稚児が、長稚児の指導を二才が行っていました。
郷中教育の目的は武道の修練(しゅうれん)や忠孝(ちゅうこう)の実践(じっせん)などであり、「ウソを言うな」「負けるな」「弱い者いじめをするな」といった精神を徹底的(てっていてき)に鍛(きた)えられましたが、西郷は20歳の頃(ころ)には郷中で二才頭(にせがしら)に選ばれるなど優秀(ゆうしゅう)であり、年少者の模範(もはん)となるように厳(きび)しく自分を律(りっ)しながら誠意(せいい)をもって後輩を指導したそうです。
なお、郷中とは数十戸(すうじゅっこ)を単位とした武士の居住地区である方限(ほうぎり)内に設(もう)けられた青少年の自治組織(じちそしき)のことですが、下加治屋町からは西郷のほかに弟の西郷従道(さいごうつぐみち)や大久保利通、村田新八(むらたしんぱち)や大山巌(おおやまいわお)、あるいは東郷平八郎(とうごうへいはちろう)など幕末や明治に活躍(かつやく)する人材が多く世(よ)に出ました。こうした事実から、薩摩藩独自(どくじ)の郷中教育の影響(えいきょう)の大きさをうかがい知ることができます。





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- 黒田先生
青田です。
この郷中教育は、今の教育で、取り入れたいですね。
現代の日本は、少子化で、子供に親がかまい過ぎることが問題になっています。
(PTA、教育委員会など大人の管理組織はありますが)
薩摩のこの郷中教育で、社会のおける上下関係を
子供の時から、学ぶことができ、
しかも、『薩摩いろは歌』という一貫した道徳教育なので、日本を支える優秀な人材の育成にもなりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 郷中教育の精神hボーイスカウトにも受け継がれているという話ですし、仰るとおり現代の教育にもどんどん取り入れるべきではないかと思います。
ぴーち こんばんは!
「うそを言うな」「負けるな」「弱いものをいじめるな」
逆に考えると
「うそをつく」「負ける」「弱いものいじめをする」心というのは、どれも、己の弱さと、弱さゆえに自分を守る為だけの手段に過ぎませんよね。
自分を律し、自分自身の心身を鍛えることが
ひいては、相手との良い関係を結ぶための
鍛錬なのかも知れませんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
郷中教育によって数多くの英傑が誕生したのはむしろ当然ですし、見習うべきところが多くあると思います。
下加治屋町・・・。
鹿児島のタク 鹿児島(薩摩)については、この下加治屋町という「郷中」(今で言うと団地みたいなもの)は、鹿児島城(鶴丸城)からもかなり離れていて、いわゆる貧乏な下級武士たちが生まれ、育った場所です。
郷中教育については、なかなか厳しかったようです。先輩が後輩を育てるというシステム…。
黒田先生が書かれているようにこの“団地”…「郷中」の出身者で、明治維新の立役者&日露戦争までのリーダーたちの多くが生まれ育ったというのは、ある意味すごいことと思います。
西郷さんは、この地域の「二才頭(にせがしら)」として、かなりの年齢まで活躍していたのいました。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰る通りすごいですよね。
地元でも有名はお話ではないかと思います。
そんな西郷を支(ささ)えたのが、上司であった迫田太次右衛門(さこだたじえもん)でした。他の武士と違(ちが)って賄賂を一切受け取らず、農民の暮(く)らしに思いをはせた迫田は、西郷に以下の自作の歌を残しました。
「虫よ 虫よ 五ふし草の根を絶(た)つな 絶たば おのれも共に枯(か)れなん」
「五ふし草」は稲や民のことで、虫は汚職役人を意味しており、根っこまで食べつくせば結局自分たち武士も死んでしまうぞ、という警告(けいこく)の歌であるとともに「農民と武士は運命共同体である」という秘(ひ)められた思いが西郷の心に強く響(ひび)きました。
西郷は迫田の精神を心に深くとどめ、やがて自らの政治理念の一つとしていくのですが、そんな彼に運命の出会いが訪(おとず)れます。薩摩藩主である島津斉彬(しまづなりあきら)による抜擢(ばってき)でした。





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ぴーち こんにちは!
いいお話ですねぇ・・・
この地球上のあらゆる人種にも言えるお話ですね!
自国だけ至福を肥やそうとして、やりたい放題した挙句に、公害問題、自然破壊のツケは
他の国も共に受けなければならなくなるという
事態に、気づいて貰いたいものですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自国だけ私腹を肥やそうとして、やりたい放題した挙句に、公害問題、自然破壊のツケは
> 他の国も共に受けなければならなくなるという
> 事態に、気づいて貰いたいものですが。。
我が国だけが気を付けていてもどうしようもないことですからね。
特にPM2.5をまき散らす某国については…。
素晴らしい上司との出会い!
鹿児島のタク 迫田太次右衛門(さこだたじえもん)は、素晴らしい人格者ですね。この詩がまた素晴らしい。確か、迫田太次右衛門は、この後、自らこのお役目を辞めています。生活も経済的に苦しくなったことでしょう。
西郷ドンは、このような上司の存在が彼の人格形成にも大きな影響があったと思います。
また、最初についたお役目が“農政”にかかわることだったことも、西郷ドンのその後の姿勢に表れているように思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、迫田太次右衛門との出会いが西郷の人生を変えましたね。
人間は一生のうちに自分の人生を変える人物にどれだけ出会えるのでしょうか。
欧米列強(おうべいれっきょう)の諸国(しょこく)に対抗(たいこう)するためには鉄製の様々な武器などを必要としましたが、当時の我が国の製鉄技術は、西欧のそれと比べて遅(おく)れていました。このため、西欧風の製鉄を行うために反射炉(はんしゃろ)の建設が急がれたのですが、斉彬はいち早く本拠地(ほんきょち)の鹿児島に反射炉を築造(ちくぞう)しました。
斉彬は他にも造船所やガラス製造所を次々と建設し、また砲術(ほうじゅつ)などの洋式の軍事訓練を行って軍事力の強化にも努(つと)めました。ちなみに我が国の国旗(こっき)である「日の丸」は、幕末に諸外国との条約を結んだことで、外国船と区別するための標識(ひょうしき)として考案されたものでもありますが、その際(さい)に日の丸を提案した者のひとりとして斉彬の名が伝えられています。
斉彬は身分に関係なく有能な人材を登用(とうよう)しましたが、その中のひとりに西郷がいました。西郷の優秀さを愛した斉彬は、彼を江戸屋敷(えどやしき)の庭方役(にわかたやく)に任命し、秘書役(ひしょやく)として諸藩(しょはん)への使いとし、水戸藩(みとはん)の藤田東湖(ふじたとうこ)や福井藩(ふくいはん)の橋本左内(はしもとさない)などに面会することで、尊王攘夷(そんのうじょうい)など彼らの思想に大いに共鳴(きょうめい)するようになりました。
しかし、そんな西郷に悲劇(ひげき)が訪れました。安政(あんせい)5年(=1858年)7月に藩主の斉彬が急死してしまったのです。





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ぴーち こんばんは!
幕末に現在の日の丸が考案されたというのは、
恥ずかしながら、初めて知りました!
現代でも時々外国などでは、国旗のデザインや色を変更する動きのあるところもあるようですが、
日本はいつまでも、白地に赤い日の丸であり続けて貰いたいですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 他国との区別が国旗の目的のひとつと考えれば自然ではありますが、こういった歴史も教えて当然のはずですよね。
仰るとおり、シンプルかつ素晴らしいデザインである日章旗をいつまでも大切にしなければなりません。
島津斉彬の影響力
- 黒田先生
青田です。
島津斉彬の思想が明治の国家観に影響を与えたのは、間違いないですね。
まず、島津斉彬が富国強兵に力を注いだのは
倒幕の目的ではなく、ロシアの南下政策にたいする危機感であったこと。
さらに、
島津斉彬は、江戸育ちで、非常に合理主義者であると同時に、熱心な日蓮宗に帰依していたので、慈愛の心も持っていたこと。
これは、西郷隆盛の思想に影響を与えたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、斉彬公が我が国に与えた影響は極めて大きいと思います。
それだけに急死が悔やまれますが、西郷の今後の成長を考えると何とも言えないところではありますね。
「このまま殉死しても斉彬公は決してお喜びにはなるまい。生き抜(ぬ)いて斉彬公の志(こころざし)を継(つ)いで働くことこそが真の供養(くよう)になるのではないか」。
月照の説得を受けいれた西郷でしたが、当時の江戸幕府(えどばくふ)は井伊直弼(いいなおすけ)が大老(たいろう)となって、自分の方針に反対する大名や公家(くげ)の多くを謹慎処分(きんしんしょぶん)にしたほか、幕府に批判的(ひはんてき)な意見を持つ一般の志士(しし)たちを一斉(いっせい)に捕縛(ほばく)し始めていました。世にいう「安政の大獄(たいごく)」です。
安政の大獄によって、薩摩藩と朝廷(ちょうてい)との橋渡(はしわた)し役を務めていた月照の身にも危険(きけん)が及(およ)ぶようになりました。西郷は薩摩に帰国して月照を何とか庇護(ひご)しようとしましたが、当時の薩摩藩は藩主の地位を継いだ島津忠義(しまづただよし)の父であり、斉彬の異母弟(いぼてい)でもあった島津久光(しまづひさみつ)が藩政の実権を握(にぎ)ったことで、保守的な行動をとるようになっていました。
月照を匿(かくま)うことによって幕府に睨(にら)まれることを恐(おそ)れた薩摩藩は、西郷に対して月照を国外に追放するように命じました。万策尽(ばんさくつ)きた西郷は安政5(1858)年11月16日に、月照と二人して鹿児島の冷たい錦江湾(きんこうわん)の海に二人して入水自殺(じゅすいじさつ)を図(はか)ったのです。





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ぴーち こんにちは!
西郷さんは「完全無欠」な方だという印象が強かったのですが、こういうお話を伺っていると、その強靭な体つきとは裏腹に精神面は案外、デリケートで脆い一面も備えた方だったんですね。
別な言い方をすれば、それだけ情に厚い人物だったのでしょうけれどね。
西郷隆盛の人柄
- 黒田先生
青田です。
通常なら、月照を見捨てるのが、君命なのですが、
それを破っても、己の信念に生きた西郷隆盛
には、惚れてしまいます。
ドラマでは、西郷隆盛は、大木のような
太くて、強いイメージですが
実際は、非常に繊細で、
誰に対しても非常に丁寧な言い方をしました。
ドラマの西郷は、かなり、歪んでますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 かけがえのない主君であった斉彬公を失ったショックはやはり相当大きかったと思われますね。
それに加えての情の深さが、彼を入水自殺に追い込んだのかもしれません。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、史実の西郷さんは素晴らしい人ですね。
それだけにドラマでも慎重に演じ切って欲しいものですが、近頃の業界では…。
蘇生した家
鹿児島のタク 黒田先生へ
西郷ドンは、月照上人だけ死なせたことに対して強い責任感を感じて、しばらくの間ノイローゼ気味で、自宅で療養したようです。
今でも、錦江湾(鹿児島湾)沿いのJR日豊本線のそばに、西郷ドンが蘇生した家が残っています。
この時(入水した時)、西郷を助けた人物に一人に幕末の志士~平野国臣さん~がいらっしゃるようです。
わが胸の もゆる思いにくらぶれば 煙はうすし
桜島山 (平野国臣)…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 地元ならではの貴重な情報を有難うございます。
西郷さんが如何に慕われているかがよく分かりますね。
つまり「自分はもう死んだ人間である」とし、人間が持つ利己心(りこしん)の一切を捨て去ってしまったのです。そして彼は、自己の葛藤(かっとう)と苦しみ抜いた後にもう一つの考えを持つに至(いた)りました。
「自分一人だけが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命があるからではないか。いずれ自分の使命が終われば、天は自分の命を奪(うば)い去るであろうが、天が自分を生かしてくれる間は、自分にはまだやらなければならないことがあるということなのだ」。
こうした西郷の心境が、やがて「天を敬(うやま)い、人を愛する」という「敬天愛人(けいてんあいじん)」の精神へとつながり、この後いかなる艱難辛苦(かんなんしんく)や恥辱(ちじょく)を彼が味わおうとも、自ら生命を絶つこともなく黙(だま)って「天命を受けいれ、それに従(したが)う」という精神の境地(きょうち)に達(たっ)したと考えられています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
個人的には、入水自殺行為も、また一人ならずも
道ずれを伴ってのそれには、共感出来る事はございませんが、その後、ポジティヴな発想の転換には
共感させていただきました。
欲を言えば、天命を知る切欠がもう少し
賢明な方法であれば、尚、宜しかったかも知れませんが^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現在の倫理観でも自殺は好ましくはありませんからね。
人間は一度死ぬ気になると性格が変わるとも聞きますが、西郷の場合はより大きく進化したのかもしれません。