しかし、17世紀に入ってある人物が政治の実権を握った後は世の中が安定して、その人物の子孫による政府が約260年にわたって存続しました。その人物とはもちろん徳川家康(とくがわいえやす)のことであり、子孫による政府とは江戸幕府(えどばくふ)のことです。実は、江戸時代の間に我が国の人口は約3倍、耕地面積は約2倍に増えており、家康によって人々の平和で安全な生活が保障(ほしょう)されたことを間接的に証明しています。
これらのことから考えれば、家康には「平和主義者」の一面があったことは紛(まぎ)れもない事実なのですが、私たちは徳川家康という人物に対して、決して良い印象(いんしょう)を持っていないことが多いようです。
その大きな理由としては、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から政治の実権を無理やり奪(うば)ったことで、家康は「狸爺」(たぬきじじい)という印象が強いというのがありますし、特に私の住む大阪では「太閤(たいこう)さん(=秀吉)の子孫を滅ぼしたとんでもないやつ」というイメージが完全に定着しております。




いつも有難うございます。
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アースガイド いつもご訪問ありがとうございます。
家康は大阪ではそういう言われ方なんですね~。
秀吉は朝鮮半島では悪人だし、
地域によって変わるんですね~。
ちなみに僕は教科書に載ってない歴史の面白うんちくとかが好きです。
最近は「龍馬伝」で「やっと」幕末がどんな感じだったか分かってきました、笑。
幕末・明治期はホントに苦手なんです。今度教えて下さい、笑。
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > いつもご訪問ありがとうございます。
> 家康は大阪ではそういう言われ方なんですね~。
> 秀吉は朝鮮半島では悪人だし、
> 地域によって変わるんですね~。
地域によって人物の評価が変わるのは世界共通ですからね。
ということは、全人が共通の歴史認識を持つことも不可能ということになりますが…。
> ちなみに僕は教科書に載ってない歴史の面白うんちくとかが好きです。
> 最近は「龍馬伝」で「やっと」幕末がどんな感じだったか分かってきました、笑。
> 幕末・明治期はホントに苦手なんです。今度教えて下さい、笑。
幕末は面白いのですが、なかなか機会がないですからね。
いずれは講座として紹介したいものです。
.
紗那 僕も大阪人なので、ご多分にもれず家康にあまり良い印象は持ってないですね・・・・・・
もちろん、良い面も理解してるのですが、これはもう性分としか言いようが無いです。なんか、言いようの無い嫌悪感がorz
.
そうめん 歴史講座、御疲れ様です。
江戸時代ですか~
江戸時代といえば徳川家康ですね。
無理やり奪ったんですか・・
確かにそれじゃ悪い印象を持つのも可笑しくないですね。
クリックです!
.黒田裕樹先生
風早 りら 家康は 確かに
豊臣家を滅びしました
ただ 千姫の口添えで豊臣秀頼の娘を助けて
鎌倉の東慶寺の尼にさせました
天秀尼となった秀頼の娘は ある事を機会に
東慶寺を縁切り寺として
日本全国に その名前を知らしめますよね
その辺りの事もいつか講座で
ご紹介下さいね
楽しいと思います
紗那さんへ
黒田裕樹 > 僕も大阪人なので、ご多分にもれず家康にあまり良い印象は持ってないですね・・・・・・
> もちろん、良い面も理解してるのですが、これはもう性分としか言いようが無いです。なんか、言いようの無い嫌悪感がorz
それが普通(?)の大阪人の感情だと思いますよ。
その理由も、その感情がもたらす様々な問題も、当講座で明らかにできればと思います。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > 歴史講座、御疲れ様です。
有難うございます(^^♪
> 江戸時代ですか~
> 江戸時代といえば徳川家康ですね。
> 無理やり奪ったんですか・・
> 確かにそれじゃ悪い印象を持つのも可笑しくないですね。
確かにその手法は無理やりでした。それが家康に対する印象を悪くさせているのです(私も含めて)。
ただ、家康による天下取りが本当に悪過ぎるものなのかどうかを、今回の講座で明らかにできればと思います。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康は 確かに
> 豊臣家を滅びしました
> ただ 千姫の口添えで豊臣秀頼の娘を助けて
> 鎌倉の東慶寺の尼にさせました
> 天秀尼となった秀頼の娘は ある事を機会に
> 東慶寺を縁切り寺として
> 日本全国に その名前を知らしめますよね
> その辺りの事もいつか講座で
> ご紹介下さいね
> 楽しいと思います
千姫の伝説は有名ですからね。
今回の講座では時間の都合で紹介できていませんが、いつかは取り上げたいものです。
.
ぴーち こんばんは!
いよいよ講座の内容についての記事ですね^^
黒田さんの家康嫌いという本音の部分は、後から登場するとしても、大阪では家康は嫌われ者として、広く知られていると言うのは、今回恥ずかしながら、初めて知りました。
そういう意味でも、今回の講座は私にとっては、大変勉強になる内容でした^^
私の様に、歴史の「れ」の字から勉強しなければならない身にとっても、黒田さんの懇切丁寧な解説は、本当にありがたいです^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いよいよ講座の内容についての記事ですね^^
> 黒田さんの家康嫌いという本音の部分は、後から登場するとしても、大阪では家康は嫌われ者として、広く知られていると言うのは、今回恥ずかしながら、初めて知りました。
> そういう意味でも、今回の講座は私にとっては、大変勉強になる内容でした^^
> 私の様に、歴史の「れ」の字から勉強しなければならない身にとっても、黒田さんの懇切丁寧な解説は、本当にありがたいです^^
お言葉有難うございます(^^♪
家康嫌いの理由をまず皆様にご覧いただくことで、彼の業績が分かりやすくなるようにと思っての配慮でしたが、お役にたてれば嬉しいですし、今後の励みになります。
一度ご覧になられた講座ですが、今回も最後までお付き合いいただければ幸いです。
また、家康には大変な勉強家という側面があり、それゆえに「歴史に学んだ」と思われる実績も数多く残しています。歴史には成功した事例だけとは限らず、失敗も数多くありますが、家康はそんな歴史における失敗から我が国の平和を保つにはどうすればよいのかということを学び、江戸幕府を創設する際の参考にしているのです。
では、家康に平和主義者の一面が見られるのはなぜでしょうか。また、彼は歴史からどのようなことを学んで我が国に平和をもたらしたのでしょうか?
今回の講座では、家康による我が国の平和の実現の過程について探(さぐ)っていくとともに、家康に対して私たちが抱(いだ)いている誤解(ごかい)や偏見(へんけん)についても紹介できればと思っております。




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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
私達はどうしても、「成功」の事例などをついお手本として、その真似事をすれば、自分も成功するのではないかという考えが先行してしまいがちですが、(事実、その手のタイトルの著書って多いですよね)
失敗は成功の元。。失敗こそ、教訓にしてそこから学ぼうという家康の観点は、さすがと言った所ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですよね。
> 私達はどうしても、「成功」の事例などをついお手本として、その真似事をすれば、自分も成功するのではないかという考えが先行してしまいがちですが、(事実、その手のタイトルの著書って多いですよね)
> 失敗は成功の元。。失敗こそ、教訓にしてそこから学ぼうという家康の観点は、さすがと言った所ですね。
そうなんですよね。
失敗は誰にでもあること。自身の失敗を教訓に地獄の底からはい上がるのもまた人生ですし、他人の失敗を他山の石として参考にするのもまた勉強ですから。
家康は、その両方とを見事に実行しているところが凄いですね。
.黒田裕樹先生
風早 りら 家康には 様々なご意見の
ある方がいられるでしょう
でも 日本をまとめて
戦国の時代を終わらせた
功績は大きいですよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康には 様々なご意見の
> ある方がいられるでしょう
> でも 日本をまとめて
> 戦国の時代を終わらせた
> 功績は大きいですよね
仰るとおり、家康の功績は高く評価すべきですね。
私の今回の講座のテーマでもあります。
詳しくはこれからの内容にご期待ください!
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そうめん 確かに家康の功績は高く評価すべきですよね。
家康は勉強家だったんですか~
知りませんでした。
参考になりました(^^;)
応援ですよ!
そうめんさんへ
黒田裕樹 > 確かに家康の功績は高く評価すべきですよね。
仰るとおりです。
家康に対する個人的な感情とは別にして考えるべきですね。
> 家康は勉強家だったんですか~
> 知りませんでした。
> 参考になりました(^^;)
勉強家ですし、努力家ですね。
なぜなら、彼が天下を取ってからの政策を見ればよく分かりますよ(^^♪
.
智里 ぜひ知りたいです!!
家康が何を歴史から学び、どうやってこの国を作ったのか知りたいですね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
戦乱の世を終わらした人間に興味深々。
智里さんへ
黒田裕樹 > ぜひ知りたいです!!
> 家康が何を歴史から学び、どうやってこの国を作ったのか知りたいですね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
> 戦乱の世を終わらした人間に興味深々。
有難うございますm(_ _)m
合計で22回の長丁場ですが、家康がどうやって戦乱の世を終わらせたのかを是非ご覧下さい!(^_^)v
進退窮(きわ)まった広忠は、生まれたばかりの竹千代(たけちよ、家康の幼名)を今川家の人質(ひとじち)として送ることにしましたが、その途中(とちゅう)で竹千代を織田家に奪われてしまい、織田家への服従(ふくじゅう)を迫(せま)られました。
広忠がこれを拒否(きょひ)したことで竹千代は殺されかかったのですが、織田家の当主である織田信秀(おだのぶひで)の判断により、竹千代は織田家の人質として暮(く)らすようになりました。なお、この頃に竹千代は信秀の嫡男である若き日の織田信長(おだのぶなが)に会っていた可能性が高いとされています。
その後、今川家が信秀の子を生け捕(ど)ったことで、人質交換のかたちで竹千代は今川家の人質として生活するようになったのですが、この頃までには広忠が若くして亡くなっており、竹千代や松平家、あるいは家臣らにとって地獄の日々が始まろうとしていました。




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オバrev まさに人生は紙一重というか、首の皮一枚で繋がりながら進んでいく時期があるというのは感じます。
それにしても、昔山岡荘八の徳川家康を途中まで(^^ゞ読んだことがありますが、家康の幼少時代は本当に波瀾万丈ですね。
でも先生の歴史講座は山岡荘八の小説以上に臨場感があり、説得力があります。まだまだ波瀾万丈は続く?
.
紗那 おぉ、このあたりの話はよく知ってるところで♪
一歩間違えれば、家康の天下統一はありえなかった……!
まさにドラマですね!
黒田先生.
風早 りら 今川家の人質だった竹千代
時代が徳川家康の辛抱強い
性格を形成していったのでしょね
三河武士の彼に対する愛着
強かったようですね
大河ドラマのようですね
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさに人生は紙一重というか、首の皮一枚で繋がりながら進んでいく時期があるというのは感じます。
竹千代の場合はまさに生命の危機でしたからね。織田信秀の判断が、その後の我が国の運命を大きく変えたかと思うと、歴史の流れの凄まじさを感じます。
> それにしても、昔山岡荘八の徳川家康を途中まで(^^ゞ読んだことがありますが、家康の幼少時代は本当に波瀾万丈ですね。
> でも先生の歴史講座は山岡荘八の小説以上に臨場感があり、説得力があります。まだまだ波瀾万丈は続く?
有難うございます(^^♪
長編小説と違い、紙数に限りがある当講座ですから、分かりやすくするために事実のみを書いているのですが、それが効果をもたらしたようですね。恐縮です(^^ゞ
波瀾万丈ですが、実はまだこれからなんですよね…。
紗那さんへ
黒田裕樹 > おぉ、このあたりの話はよく知ってるところで♪
> 一歩間違えれば、家康の天下統一はありえなかった……!
> まさにドラマですね!
そうですね。幼少期から修羅場をくぐった竹千代ですが、本当の地獄はこれからだったんですよね…(´・ω・`)
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今川家の人質だった竹千代
> 時代が徳川家康の辛抱強い
> 性格を形成していったのでしょね
> 三河武士の彼に対する愛着
> 強かったようですね
> 大河ドラマのようですね
仰るとおりです。
私の講座でも近日中に詳しくお話ししますので、よろしくお願いします。
.
智里 へ~φ(・ω・ )メモメモ
これは全然知らなかったです。
子供の頃、、竹千代って名前だったのは知ってましたが・・・
織田家の人質なってとは・・・!!
しかも信長と会ってた可能性が高いとは驚きです。
これも家康が天下人になるための運命の1つだったんでしょうね。
智里さんへ
黒田裕樹 > へ~φ(・ω・ )メモメモ
> これは全然知らなかったです。
> 子供の頃、、竹千代って名前だったのは知ってましたが・・・
> 織田家の人質なってとは・・・!!
> しかも信長と会ってた可能性が高いとは驚きです。
> これも家康が天下人になるための運命の1つだったんでしょうね。
そうなんですよね。
今川家の人質となるはずが、なぜか織田家の人質となってしまう…。
よく生命が助かったものだと思います。
竹千代が信長と会っていた確証はないのですが、その後の二人の関係を考えれば、会っていたと考える方が自然だと思うんですよね。
竹千代が今川家の人質となって以降の岡崎城には今川家の代官(だいかん)が入り、三河でとれた年貢(ねんぐ)は松平家やその家臣には入らず、そのまま本国の駿府へ送られたことで、松平家の家臣、いわゆる三河衆(みかわしゅう)の生活は困難(こんなん)を窮めました。その一方で今川家が他国と戦争をする場合は、三河衆は一番危険な最前線に置かれ、多くの家臣が亡くなったのです。
いわば「今川家の奴隷」(どれい)のような状態となった三河衆たちは、自分たちの置かれた環境を呪(のろ)いましたが、主君である竹千代が今川家に人質にとられている以上はどうしようもありませんでした。
実はこの状態こそが、松平家が今川家に「全面降伏」(ぜんめんこうふく)した姿なのです。我が国には「もし他国に侵略(しんりゃく)されれば、憲法(けんぽう)にも書いてあるように日本は戦ってはいけないのだから、あっさり降伏すればよい。そうすることで血を流さずに平和を保つことができる」という思想がありますが、日本を松平家に、他国を今川家に置き換えれば、我が国のその後の運命がどうなるかがよく分かるのではないでしょうか。
これも「歴史に学ぶ」ことの一つなのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 日本を松平家に、他国を今川家に置き換えれば、我が国のその後の運命がどうなるかがよく分かるのではないでしょうか。
私も常日頃からそれを心配しています
勇気あるアップ 尊敬します
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 日本を松平家に、他国を今川家に置き換えれば、我が国のその後の運命がどうなるかがよく分かるのではないでしょうか。
> 私も常日頃からそれを心配しています
> 勇気あるアップ 尊敬します
りらさん同様、私も常に心配しております。
ここは私のブログですから、自分の考えを率直に述べることを基本にしております。
それに加えて「本当の歴史を伝える」とう大きな目標がありますし。
わたしこそ、りらさんのお言葉に勇気を頂戴しております。
.
紗那 我が国が侵略されたとしてすべての国が今川家のような思想を持ってるとは限らないのでは?と思った時点で、この考え方が危ないという事実に気づきました。
全ての国がこのような思想を持っていると考えるのは行き過ぎかもしれませんが、どのような思想を持っているかは侵略されてからでないとわからないですしね。。。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 我が国が侵略されたとしてすべての国が今川家のような思想を持ってるとは限らないのでは?と思った時点で、この考え方が危ないという事実に気づきました。
> 全ての国がこのような思想を持っていると考えるのは行き過ぎかもしれませんが、どのような思想を持っているかは侵略されてからでないとわからないですしね。。。
そのとおりです。
確かに良心的(?)な支配にとどめる国も存在するかもしれませんが、植民地化されるということは、相手の国にどのような支配をされても文句が言えないということですからね。
松平家のような屈辱的な侵略を受けてから「しまった!」「話が違う!」といくら叫んでも遅いのです。
オバrev 歴史は前後の流れがあって起こっているわけですから、そこから何処に焦点をあて、その史実の持つ意味を考えるかは、その人がどこまで情報を把握しているかとか、信念や理念によって大きく変わってくるでしょうね。
歴史の一面しか捉えずに話を進めようとする人が権力のトップに立つと非常に危険な気がします。
しかしよくぞ三河衆は耐えられましたね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 歴史は前後の流れがあって起こっているわけですから、そこから何処に焦点をあて、その史実の持つ意味を考えるかは、その人がどこまで情報を把握しているかとか、信念や理念によって大きく変わってくるでしょうね。
> 歴史の一面しか捉えずに話を進めようとする人が権力のトップに立つと非常に危険な気がします。
「なぜ侵略されたのか?」「なぜ併合したのか?」「併合を防ぐ道はなかったのか?」なだお、前後の流れをしっかりとらえていれば、軽々しく判断を下すことができないはずです。
「真の歴史を理解していない」権力者に政治をゆだねることの危険性が見出せますね。
> しかしよくぞ三河衆は耐えられましたね。
人質にとられているとはいえ、竹千代という「希望の星」が残っていましたからね。もし竹千代を失っていればどうなっていたことか…。
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智里 松平家ってエライことになってたんですね( ̄口 ̄;
今川家の奴隷的な役割になっても、当主の帰りを待つ・・・
なんて素晴らしい家臣たちなんでしょう(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
平和主義のこの憲法は素晴らしい憲法だと思います。
ただ・・・侵略された際の無条件降伏はね・・・
松平家みたいになるのは嫌だ!!
智里さんへ
黒田裕樹 > 松平家ってエライことになってたんですね( ̄口 ̄;
> 今川家の奴隷的な役割になっても、当主の帰りを待つ・・・
> なんて素晴らしい家臣たちなんでしょう(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
今川家から「虫けら以下」の扱いを受けた三河衆にとって、竹千代だけが希望の星でしたからね。
その苦労は並大抵ではなかったことでしょう。
> 平和主義のこの憲法は素晴らしい憲法だと思います。
> ただ・・・侵略された際の無条件降伏はね・・・
> 松平家みたいになるのは嫌だ!!
詳しくは後日に紹介しますが、平和主義の理念に対する思いは私も同じです。
ただ、理想と現実が必ずしも一致しないところがもどかしいですね…。
私も奴隷は真っ平御免です!
「竹千代様がおられる限り、松平家はきっと復興(ふっこう)できる」。そう信じた三河衆は食うや食わずの生活を耐(た)え忍(しの)び、また戦(いくさ)の最前線に送られても、生き延(の)びるために懸命(けんめい)に戦いました。こうした境遇(きょうぐう)が、やがて三河兵を最強の軍団へと成長させたのです。その強さは、後に「三河兵1人は尾張(おわり、現在の愛知県西部)兵の3人に匹敵(ひってき、肩を並べること)する」と言われたほどでした。
今川家の人質となって、周囲から陰湿(いんしつ)なイジメを受けながらもじっと我慢(がまん)を続けた竹千代にとっても、人質の暮らしは悪いことばかりではありませんでした。当時の駿府は戦乱を逃(のが)れた公家(くげ)たちが集まったこともあって、さながら「東の都」と呼ばれるような発展を見せていました。
竹千代は幼少期をそんな都市で過ごしたことで、三河で暮らしていれば絶対に身に着けられなかったと思われる高い教養を自分のものにすることができたのです。後の家康の愛読書に鎌倉幕府(かまくらばくふ)の誕生やその後を記(しる)した歴史書である「吾妻鏡」(あずまかがみ)がありますが、これらの教養が、江戸幕府の成立に深くかかわっていくことになります。
また、竹千代は周囲からのイジメを耐え抜く中で、いつかは松平家を復興してみせるという芯(しん)の強さを持つ一方で、そのためには何があっても辛抱(しんぼう)するという我慢強さや、周囲との協調を目指す中で腰の低さを身に着けました。やがて家康は、その義理堅(ぎりがた)さや実直(じっちょく)さから「律義者」(りちぎもの)として信頼される武将となり、後年(こうねん)の天下取りにも役立つことになったのです。




いつも有難うございます。
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紗那 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
.黒田裕樹先生
風早 りら 人質の暮らしは やはり
家康の辛抱強い性格の
源ですね
三河衆の家康を想う気持
今回の講座で よく 現われていて
感動しました
紗那さんへ
黒田裕樹 > 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
> ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
そうですね。
三河の人々の芯の強さが、この後の活躍につながったと考えられます。
そして、この芯の強さは家康にも引き継がれているといえるでしょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 人質の暮らしは やはり
> 家康の辛抱強い性格の
> 源ですね
> 三河衆の家康を想う気持
> 今回の講座で よく 現われていて
> 感動しました
悪い条件は、悪いなりの人間を強くするという見本ですね。
あきらめずに辛抱強く頑張った家康の底力と、彼を慕うと同時に希望の星と信じた三河衆との絆も感動ものです。
.
ぴーち こんばんは!
三河衆の竹千代をカリスマの様に
慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
金八先生の話じゃないですが、
人という字の意味をふと思い出しました(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 三河衆の竹千代をカリスマの様に
> 慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
> 「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
> 竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
> 金八先生の話じゃないですが、
> 人という字の意味をふと思い出しました(笑)
確かに金八先生の印象がありますね(笑)。
つくられたドラマと同じくらい、いやそれ以上に歴史のエピソードからは様々な教訓が残されているということなのでしょう。
.
智里 なるほど・・・
これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
だけど、多大な犠牲があったの事実。
そのことも家康は分かってたのかな?
それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
智里さんへ
黒田裕樹 > なるほど・・・
> これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
> だけど、多大な犠牲があったの事実。
> そのことも家康は分かってたのかな?
> それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」ですね。
仰るとおり、自分に多大な犠牲が払われているということを知っていたからこそ、家康は「律義者」として評価れるような武将になったと思われますね。
信長が桶狭間(おけはざま)で休息中の義元を急襲(きゅうしゅう)して、その首を落とすことに成功したのです。世にいう「桶狭間の戦い」によって、元康の運命は大きく変わることになりました。
元康は戦後の混乱で無主(むしゅ)となっていた岡崎城に入ると、その後の今川家とのいさかいを切り抜けて、やがて三河一国の大名となったのです。この間に信長と同盟(どうめい)を結ぶことにも成功し、自分の名前も「徳川家康」と改めました。このうち、名前については「元康」の「元」が今川義元からもらったものだったのでこれを捨てたのですが、「徳川」への改姓の理由は後に紹介します。
三河一国を支配し、また信長と結んだことで大名として大きく成長した家康でしたが、その後の人生にはまだまだ数多くの苦難が待ち受けていました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「徳川」への改姓の理由
かなり 興味があります
信長と家康は一時
かなり 仲が良かったようですね
織田家に 家康がいたころ
交流があったからでしょうか
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「徳川」への改姓の理由
> かなり 興味があります
講座の後半で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいね。
> 信長と家康は一時
> かなり 仲が良かったようですね
> 織田家に 家康がいたころ
> 交流があったからでしょうか
同盟が長く続いたことで、一般にはそういうイメージがありますね。
幼少期の竹千代とうつけ者の信長に交流があった可能性も高いですし。
ただ、同盟は必ずしも一枚岩ではなかったようです。詳しくは明日(17日)以降の更新で紹介します。
.
ぴーち こんばんは!
今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
> 家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
> 通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
この頃の武将は、若い頃の幼名から元服時に改名するのが普通でした。その際には仕えた大名の一字をもらうことが多く、竹千代の場合は今川義元の名前から元信を名乗ったのですが、その後に祖父の元康の名をもらって元康と改名しています。
桶狭間の戦い後には義元の元の字を捨てて家康と名乗り、さらに徳川に改姓していますから、確かに多いですね。ただ、改名や改姓にはそれぞれの事情があり、さながら出世魚のような思いもします(笑)。
この同盟の意味
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この同盟の意味は、織田信長にとって、
非常に重要ですね。
というのも、まだまだ、弱小大名である
徳川家康が
一番、巨族にたいする防波堤になってくれるからです。
武田家、北条家という一番、やっかいな
敵を徳川家が、引き受けてくれるのは、
織田信長にとって、非常に助かります。
逆に、徳川にとっては、織田信長という後ろ盾が
あったとはいえ、相当、重かったと思います。
幸い、武田信玄が信濃攻略を巡り、上杉謙信・北条氏康と戦いあってくれて、西に意識を集中しなかったことが徳川家康が小さくても、対応できたと思います。
そう考えると、武田信玄の川中島での10年間は
あまりにも、エネルギーを使いすぎてしまったように思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この同盟は信長にとっては非常に大きかったと思います。
その一方で家康も東へ目を向けることができたものの、信玄の脅威は相当だったと思います。
信玄の「失われた10年」はあまりにも大きすぎました。
もし信玄が謙信と早目に和睦して西へ目を向けていれば…。
もっとも、仮に信玄が天下を取ったとしても、長続きは絶対できなかったと考えられます。
詳しくはこちらの講座をご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-410.html
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)と呼ばれたこの戦いに敗れ、あわてて浜松城(はままつじょう)に逃げ帰った家康は、恐怖のあまり馬上(ばじょう)で粗相(そそう)をしたと伝えられています。
何とか生きて浜松城へ戻(もど)ることができた家康は、惨(みじ)めな自分の姿を絵師に描(か)かせました。この時の肖像画(しょうぞうが)は現在も残っており、俗(ぞく)に「しかみの像」と呼ばれています。家康はこの絵を残すことで自分の行為を反省するとともに、同じような過(あやま)ちを二度としないと固く誓(ちか)ったといわれており、こんなところにも家康の「歴史に学ぶ」姿勢がうかがえます。
また、家康と信長との同盟は、裏切りが当たり前の戦国の世の中で、信長が死ぬまでずっと続いたという極(きわ)めて珍しいものでしたが、そんな同盟にも危機のときがありました。1579年、家康の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)であった築山殿(つきやまどの)と嫡男の徳川信康(とくがわのぶやす)が武田家に内通(ないつう、味方の中にいながら敵に通じること)しているのではないかと問題になり、信長は家康に両者を殺害するように命じたのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長から家康が信康を殺害
するように 言われた時
家康は どれだけ 苦しんだ事
でしょう それでも 徳川を
守るため信長の命にしたがいます
この御話は何回聴いても
辛いですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長から家康が信康を殺害
> するように 言われた時
> 家康は どれだけ 苦しんだ事
> でしょう それでも 徳川を
> 守るため信長の命にしたがいます
> この御話は何回聴いても
> 辛いですね
そうですね。
詳しくは明日(18日)の更新で紹介しますが、家康の苦渋の決断は、その後の運命の激流をも想像させる様な辛いものだったことでしょう。
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紗那 この戦いのことはさすがに学校ではやらなかったので、自分で本とかで読んで知ったのですが。。
家康でもこういう失敗を犯すのだな、と驚いた記憶があります。
紗那さんへ
黒田裕樹 > この戦いのことはさすがに学校ではやらなかったので、自分で本とかで読んで知ったのですが。。
> 家康でもこういう失敗を犯すのだな、と驚いた記憶があります。
確かに家康らしくない大失敗ですね。
ただ、自分の領地を素通りされて知らんぷりをしていては、家臣に示しがつきません。家康はやむなく立ち上がったとも思われますが、それならそれでもう少し作戦を練ることができたはず。
失敗だということが分かっていたからこそ、家康は自分のみじめな姿を描かせたのでしょうね。
.
ぴーち こんばんは!
しかみの像。。
仰るとおり、「歴史に学ぶ」
「失敗に学ぶ」姿勢こそが、成功に繋がる第一歩なんでしょうね。
なかなか失敗した自分を冷静に、客観的に見る事が出来ずに目を背けてしまいがちですが、そこがまた家康の凄さなのだと改めて思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかみの像。。
> 仰るとおり、「歴史に学ぶ」
> 「失敗に学ぶ」姿勢こそが、成功に繋がる第一歩なんでしょうね。
> なかなか失敗した自分を冷静に、客観的に見る事が出来ずに目を背けてしまいがちですが、そこがまた家康の凄さなのだと改めて思います。
私もそう思います。
人間はどうしても失敗をする動物です。大切なのは、失敗を反省し、二度としないために自分を鍛錬すること。
家康の姿勢は、現代人が忘れてしまった大事なものを思い出させてくれますね。まさに「歴史に学ぶ」です。
是非知りたい!
オバrev 自分の失敗した姿を絵師に描かせて恥を晒すという発想は、通常の武士ならまずありえないことです。それを恥とも思わず実行するところに家康の凄みを感じます。
信長に命じられて我が子を殺害するという決断を下した家康。この心境の詳しいことは山岡荘八の小説にもなかったと思います。
ぜひ知りたい所です!!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 自分の失敗した姿を絵師に描かせて恥を晒すという発想は、通常の武士ならまずありえないことです。それを恥とも思わず実行するところに家康の凄みを感じます。
通常であれば恥と思って振り返ることもしませんからね。
家康の姿勢の違いがよく分かります。
> 信長に命じられて我が子を殺害するという決断を下した家康。この心境の詳しいことは山岡荘八の小説にもなかったと思います。
> ぜひ知りたい所です!!
大河ドラマでは切腹後の家康の断腸の思いがワンシーンに凝縮されていましたが、確かに凄まじいものがあったでしょうね。
私の自分なりに分析して、本日(18日)の更新にまとめてありますので、ぜひご覧下さい。
結局、家康は泣く泣く信康に切腹(せっぷく)を命じて、築山殿を殺害しました。信長との同盟関係を維持(いじ)することで、徳川家の繁栄(はんえい)や、ひいては家臣や領民の平和を守るために、非情(ひじょう)の決断を下(くだ)さざるを得なかったのです。
「平和を保つ」ということは、口で言うのは容易(たやす)いものの、時には身を切られる思いをしなければならないほどの厳(きび)しい決断を迫られることがあるということを私たちに教えてくれるエピソードでもありますね。
その後、1582年に起きた本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長は明智光秀(あけちみつひで)に殺害されましたが、このとき家康はわずかな家臣とともに堺(さかい)にいました。落ち武者狩(が)りによって生命が奪われる危機でしたが、伊賀(いが、現在の三重県)の山々を強引に越えて何とか難を逃れました。
三河に戻った家康は、謀反(むほん)を起こした光秀を討って天下取りに名乗りを挙げようとしましたが、既(すで)に秀吉によって光秀が討たれた後でした。秀吉による常識はずれのスピードに、さしもの家康も勝てなかったのです。それでも家康は来るべき秀吉との戦いに備え、信長の死後の混乱に乗じて甲斐などを治(おさ)めて領土を拡大していきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
平和を願う。平和を保つ。
仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
応援凸
.
そうめん お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
家康は堺に居たんですか・・
生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
P.S
バトン回しました。
出来ればで良いですよ。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 平和を願う。平和を保つ。
> 仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
そうなんです。
家康も人の子ですから、家族を守るために信長と戦う選択肢も頭の中にあったはずですが、徳川家を守るとともに領民の平和と安全の保障のためには、それこそ血を吐くような決断をせざるを得なかったのですから。
> こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
有難うございます。
仰るとおり、家康のように表沙汰になった以外にも、数えきれない人々の犠牲によって、我が国のみならず世界の平和が守られてきていると考えるべきでしょう。私たちはそのことに気付くとともに、犠牲になった人々に感謝すべきだともいえるのです。
.黒田裕樹先生
風早 りら 今回の先生のアップで
思いましたが 家康は
相当 頭が切れる人ですね
先見の眼があるとはこの事
でしょう
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
> 織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
有名な話ですからね。
明智光秀については昨年の今頃に私の講座で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-193.html
> 家康は堺に居たんですか・・
> 生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
信長の招待を受けて、たまたま少人数で旅行中だったんです。
信長の領地内でその信長が殺されたことによって、周囲が一気に敵だらけになってしまったのですから、家康は絶望的な思いになったと思われます。よく生きて自領の岡崎へ戻れましたよね。
> P.S
> バトン回しました。
> 出来ればで良いですよ。
バトンですか(^^ゞ
ブログの性格上、ここで記事にはできませんが何とかしてみましょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の先生のアップで
> 思いましたが 家康は
> 相当 頭が切れる人ですね
> 先見の眼があるとはこの事
> でしょう
確かに現状だけでなく、将来の展望も考えて行動できた武将だったといえます。
だからこそ最終的な天下統一も可能になったのでしょうね。
耐える
ken 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
みてもだめ。
きいてもだめ。
いってもだめ。
昔のひはすごいですよね。
kenさんへ
黒田裕樹 > 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
> みてもだめ。
> きいてもだめ。
> いってもだめ。
> 昔のひはすごいですよね。
お言葉有難うございます。
私も家康個人の好き嫌いは別にして、彼の辛抱強さは見習わなければいけないと実感しております。
先見の明は本当にすばらしいですね。
家康の家族への非情さ
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
織田信長は、何度も裏切る弟の信行を殺した以外
妻にも優しく、子供にも優しいマイホームパパでした。
豊臣秀吉も、晩年に甥の秀次を殺すまでは
妻・実母・妹・弟・そして、秀次を愛するよき
マイホームパパでした。
それにたいして
徳川家康は、身内には、厳しすぎます。
◆ 妻の築山殿を殺害し、旭姫(秀吉の妹)もスグに亡くなり
◆ 子供は、長男信康切腹、次男秀康は、人質に差し出す、六男忠輝は、追放。
家康がイイお父さんになったのは、関ヶ原の戦いの後に生まれた御三家の藩祖となる3人の息子からです。
平和主義者としての徳川家康は、認めますが
信長、秀吉と比べた場合、完全な家庭崩壊者ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 家康の場合、次男は母親の影響で我が子かどうか疑っていたという話が残っていますね。六男はキリシタンだったことで追放されたという俗説もあるようです。
いずれにせよ、尋常の父親のやることではありませんね。平和は非情さがないと達成できないことを如実に物語っています。
さらに付け加えるのであれば、晩年の三人の息子も家康にとっては「万が一のための保険」であり、父親としての愛情だったかどうかが疑われるところでもありますが。
秀吉はその後も家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を迫り、自分の妹を家康の新たな正室として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦(ようしゃ)のない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとりました。
その後、1590年に秀吉が天下を統一した際に、家康は滅亡した北条氏(ほうじょうし)の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられました。しかし、それは石高(こくだか)こそ約100万石(まんごく)の大幅な加増(かぞう)であったものの、先祖伝来の地でもあり、それまでに血のにじむような思いで獲得(かくとく)してきた三河などの領地を秀吉に没収(ぼっしゅう)されることを意味していましたが、家康はここでも屈辱(くつじょく)に耐え、秀吉の命令に従ったのでした。
「やがて巡(めぐ)り来るであろう機会を待って、その日までじっと耐え続ける」。人質時代に培(つちか)った家康の苦労や辛抱が報(むく)われる日がついにやって来ました。1598年に、秀吉が幼い秀頼(ひでより)を遺(のこ)してこの世を去ったのです。秀吉から秀頼と豊臣家の行く末を託(たく)され、笑顔で応(こた)えた家康は、内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。




いつも有難うございます。
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トレビアン・西 黒田裕樹さん、応援コメントいつもありがとうございます。今は語れませんが、月末には笑ってもらうつもりです。
笑えないかもしれませが・・・・。
これからもよろしくお願いします。
.
紗那 このあたりは家康の根性に感心するしかないですね……!
こんな尋常じゃない耐久力、自分にはないです。。。
しっかし、腹黒い!
トレビアン・西さんへ
黒田裕樹 お言葉をいただきまして、お元気そうで安心しました。
月末を心待ちにしております。
紗那さんへ
黒田裕樹 > このあたりは家康の根性に感心するしかないですね……!
> こんな尋常じゃない耐久力、自分にはないです。。。
私もこんな忍耐力は持てません(笑)。
これも家康の凄さですね。
> しっかし、腹黒い!
明日(20日)からいよいよ家康の「黒い部分」が明らかになりますが、家康嫌いの紗那さんにもしっかりとお読みいただきたいと思います(^^ゞ
.
ぴーち こんばんは!
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう
ほととぎす』の由来は、この辺の尋常ではない辛抱強さから
家康の事を揶揄して言った言葉なんですね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「鳴かぬなら、鳴くまで待とう
> ほととぎす』の由来は、この辺の尋常ではない辛抱強さから
> 家康の事を揶揄して言った言葉なんですね^^;
確かに一理ありますね。
「よくここまで耐え抜いたなぁ」という、尊敬よりもむしろあきれ返る思いからきているのかもしれません。
そして、次回(20日)からいよいよ家康による怒涛(?)の逆襲編が始まります!(^^ゞ
そして1600年に関ヶ原(せきがはら)の戦いで豊臣家家臣の石田三成(いしだみつなり)を破ると、1603年には朝廷(ちょうてい)から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開き、徳川家の天下取りに本腰(ほんごし)を入れ始めました。とはいえ、関ヶ原の直後はまだまだ豊臣家に従う大名が多かったので、家康は以後も時間をかけて徳川家の天下へと導(みちび)くことになります。
関ヶ原から10年以上が経過して豊臣家恩顧の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人して将来の徳川家に悪い影響をもたらすと判断した家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪(ろうかい、色々経験を積んでいて悪賢いこと)ぶりで豊臣家を追いつめました。
1614年、秀頼は家康の勧(すす)めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を暗転(あんてん)させることになったのでした。




いつも有難うございます。
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明天会更美好 小牧長久手の戦い前後から、関が原までの流れを見てみると家康も人格者ではなく、1人の戦国大名だったということですね。
それにしても秀吉の生前と死後の変わりようは非常に印象的です。秀頼に対する仕打ちはまるで復讐みたいです。多くの大名と同じで、彼も多分秀吉になみなみならぬ恨みを抱いていたではないでしょうか。
黒田先生
風早 りら 秀頼は家康の陰謀にはまってしまいますよね
このお話は 有名ですが 私が不思議なのは
若い秀頼はともかくとして なぜ 淀君がそれに気付かなかったのかと言うことです
.
ハチ公 最近来てなくてすみません(>_<)
関ヶ原の戦いのあたりは有名ですよね。歴史とかでよく習います。方広寺の文字の事は私も前TVで観たことあります。
明天会更美好さんへ
黒田裕樹 > 小牧長久手の戦い前後から、関が原までの流れを見てみると家康も人格者ではなく、1人の戦国大名だったということですね。
> それにしても秀吉の生前と死後の変わりようは非常に印象的です。秀頼に対する仕打ちはまるで復讐みたいです。多くの大名と同じで、彼も多分秀吉になみなみならぬ恨みを抱いていたではないでしょうか。
律義者といっても裏切りが当たり前の戦国時代の大名ですから、当然徳川家の将来を考えて行動しているわけですし、彼にとっては邪魔者(?)だった秀吉が死んだことで、それまでの数々の恨みを一気に晴らす機会を得たといっても過言ではないでしょう。
そして、その復讐の最たるものが次回(21日)の「言いがかり」であるといえます。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀頼は家康の陰謀にはまってしまいますよね
> このお話は 有名ですが 私が不思議なのは
> 若い秀頼はともかくとして なぜ 淀君がそれに気付かなかったのかと言うことです
淀殿が気づかなかったのは、幼少時に家族との死別や落城を経験しているとはいえ、彼女が「お姫様育ち」であるがゆえの「世間の認識」とのズレが原因ではないでしょうか。
お姫様育ちであるがゆえに豊臣家の現状を理解できず、また後の徳川家との戦いにおいても、優位に戦いを進めながら講和を結び、挙句の果てには騙されて落城の原因を作ってしまうことにもつながってしまったと考えております。
ハチ公さんへ
黒田裕樹 > 最近来てなくてすみません(>_<)
お久しぶりです(^^♪
一連の慶事は素晴らしかったですね(^o^)/
> 関ヶ原の戦いのあたりは有名ですよね。歴史とかでよく習います。方広寺の文字の事は私も前TVで観たことあります。
有名な出来事ですからね。詳しくは明日(21日)の更新で紹介しますよ。
.
ぴーち こんばんは!
>家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪ぶりで豊臣家を追いつめました。
まるで「アンコウの餌待ち」の様な
状態で、いきなりバクッと大口を開けて相手を一飲みするような様子が浮かんで来ました(爆)
しかも、家康の顔も「アンコウ」に
思えて来てしまいました(^^A
応援凸
関東の誠 久しぶりに投稿させて頂きます。
物心ついて初めて歴史に触れた機会が、東宝映画の「大阪城物語」だったためアンチ家康で成長してきました。
ただ最近になって少し様子が変わり…、(歴史の真実に触れることは難しいので、「好みや仮説」の域を出ませんが)家康と北政所の関係から、家康が淀君と秀頼のことを「正統派豊臣家」と認めていなかったとしたら、強ち裏切り者一辺倒ではないかも?という気にはなっています。それでもなお家康贔屓になれないのは、加藤清正の死が“ひっかかる”ためです。(フィクションの影響とは思いますが)清正の死が暗殺だったら、武士の行為ではないと思ってしまいます。
先生の今後の講座を楽しみにしております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > >家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪ぶりで豊臣家を追いつめました。
>
> まるで「アンコウの餌待ち」の様な
> 状態で、いきなりバクッと大口を開けて相手を一飲みするような様子が浮かんで来ました(爆)
> しかも、家康の顔も「アンコウ」に
> 思えて来てしまいました(^^A
言われてみればそんなイメージがありますね(^^ゞ
アンコウに飲み込まれた(?)豊臣家の運命はどうなるのでしょうか…。
関東の誠さんへ
黒田裕樹 > 久しぶりに投稿させて頂きます。
ご無沙汰しております。お言葉有難うございます。
> 物心ついて初めて歴史に触れた機会が、東宝映画の「大阪城物語」だったためアンチ家康で成長してきました。
> ただ最近になって少し様子が変わり…、(歴史の真実に触れることは難しいので、「好みや仮説」の域を出ませんが)家康と北政所の関係から、家康が淀君と秀頼のことを「正統派豊臣家」と認めていなかったとしたら、強ち裏切り者一辺倒ではないかも?という気にはなっています。それでもなお家康贔屓になれないのは、加藤清正の死が“ひっかかる”ためです。(フィクションの影響とは思いますが)清正の死が暗殺だったら、武士の行為ではないと思ってしまいます。
> 先生の今後の講座を楽しみにしております。
歴史にはいろんな見方がありますからね。
秀頼の出自の謎は確かに「?」の部分もありますし、清正の突然死も理由が不明ですから、仰るような見方も十分に考えられると思います。
最後の方で詳しく述べますが、今回の講座では個人の感情を一切排して第三者的な立場で家康の歴史を語り続けているつもりですので、これからもよろしくお願いします。
ところが、家康は「君臣豊楽と書いて豊臣家の繁栄を願う一方で、国家安康と書くことで家康の名を二つに割って呪いをかけている」と言い出して豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈(かいしゃく)はあり得ないのですが、当時の学者や学僧(がくそう)が次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまいました。
豊臣家は弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ送りましたが、家康が且元に会おうとしなかったために、且元はそのまま当時家康が所在していた駿府に留(とど)め置かれました。
且元がいつまで経(た)っても帰ってこないのを不審(ふしん)に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を帰しました。そしてその後に、家臣を通じて且元に自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意(せいい)を示せ」と脅迫(きょうはく)したのです。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで全く違う家康の考えを聞いたことになりました。疑心暗鬼(ぎしんあんき)に陥(おちい)った豊臣家は且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康は、豊臣家に宣戦布告(せんせんふこく)しました。世にいう「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)の始まりです。




いつも有難うございます。
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紗那 この家康の話を、おおくの学者が支持したのは、やはり家康が権力を握っていたからなんでしょうか?
しかし、家康も曲者ですね!すごい情報戦……!
.
ぴーち こんばんは!
よく棋士も名人級になると
相手の十手先まで出方を見通せると言われていますが、家康もそんな能力を幼少の頃から、自然に身につけていたのでしょうかね。
それにしても、かなり理不尽な言いがかりではあるものの、難なく納得させてしまう手腕は、やはり天下人としての才覚に秀でていたのですね。
応援凸
.
オバrev まさにこれは、日本史上最も有名な言いがかりですかね?
忍耐の人家康も年を取っていたから、焦ったのかと思いましたが・・・
.はじめまして
てのりぱんだ いつもおもしろく拝見しています。
時々、私のブログでは「阪神ネタ」をアップしていますが、そのたびに、もしご覧になっていたら、黒田さんにはわるいなあ~と、おもっています。
^^
趣味で「講座」を開くなんて、すごいことです。蔭ながら応援していますね!
紗那さんへ
黒田裕樹 > この家康の話を、おおくの学者が支持したのは、やはり家康が権力を握っていたからなんでしょうか?
そう考えて間違いないでしょうね。
権力者におもねるあたりは学者失格といえそうですが…。
> しかし、家康も曲者ですね!すごい情報戦……!
確かにそうですね(^^ゞ
情報戦を制する者が天下を制するというのは、いつの時代も変わらないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > よく棋士も名人級になると
> 相手の十手先まで出方を見通せると言われていますが、家康もそんな能力を幼少の頃から、自然に身につけていたのでしょうかね。
そうですね。幼少期から人質という命がけの毎日を過ごしていましたから、仰るとおり自然と身に着けた可能性もあると思います。
> それにしても、かなり理不尽な言いがかりではあるものの、難なく納得させてしまう手腕は、やはり天下人としての才覚に秀でていたのですね。
学者といっても権力者にすがらないといけないこともあるということでしょうか。有無を言わせず納得させる家康の貫録はさすがというべきでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさにこれは、日本史上最も有名な言いがかりですかね?
そのとおりです。まさに言いがかり以外の何物でもありませんが、これが通ってしまうところが何とも…(´・ω・`)
> 忍耐の人家康も年を取っていたから、焦ったのかと思いましたが・・・
確かに焦りはあったでしょうね。相手のミスを絶対に見逃さないところはさすがです。
てのりぱんださんへ
黒田裕樹 > いつもおもしろく拝見しています。
はじめまして。いつもご覧下さって感謝しております。
> 時々、私のブログでは「阪神ネタ」をアップしていますが、そのたびに、もしご覧になっていたら、黒田さんにはわるいなあ~と、おもっています。
> ^^
いえいえ、どのチームを好きになるかは個人の自由ですから(^^♪
優勝争いをしているチームがひいきでうらやましいです(´;ω;`)
> 趣味で「講座」を開くなんて、すごいことです。蔭ながら応援していますね!
有難うございます(^o^)/
今後ともよろしくお願いします。
この作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)です。この戦いの後、秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡しました。
豊臣家を滅ぼすためには手段を選ばず、またわずか8歳の子であっても容赦なく首をはねたことで、家康に対する悪いイメージは完全に定着してしまったのですが、家康には家康なりの筋の通った考えがありました。なぜなら、これらの手法(しゅほう)は勉強家の家康が「歴史に学んだ」結果でもあったからです。




いつも有難うございます。
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紗那 そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
次の記事、気になります
紗那さんへ
黒田裕樹 > そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
> 悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
本当にそうですよね。
「ずる賢い」「汚い」という家康の一面的なイメージが完全に定着してしまってます。
> 次の記事、気になります
次回(23日)からは家康の見方が180度変わりますよ。ご期待下さい!
.
ぴーち こんばんは!
ああ・・
この場面は黒田さんが殊更
力が入った場面でしたよね^^
こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この場面は黒田さんが殊更
> 力が入った場面でしたよね^^
そうでした(^^ゞ
前半の言わばヤマ場でもありましたからね。
> こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
> 家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
見た目はどう取り繕っても極悪非道ですからね。致し方ない面があると思います。
ただ、個人の評価としてはどうなるのか、ということなんですよね。
> 特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
言われてみればそのとおりですね。
豊臣家を滅ぼした憎いやつだけでなく、そんな要素まで加わったら…。
.
アースガイド ジェット・リーの映画「英雄」
の始皇帝のように、
悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > ジェット・リーの映画「英雄」
> の始皇帝のように、
> 悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
> 今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
確かに家康に限らず、天下統一に関しては多くの血が流れることもあって、悪のイメージが定着していますね。
今の世の中は…現状では確かに平和ですよね(^^ゞ
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、豊臣方の油断は、自然と
思えてきました。
というのも、徳川家康の年齢は、豊臣秀吉の4つ下です。
関ヶ原の戦いの時、徳川家康は、すでに57歳でした。
そう考えると、淀の方が、家康の言葉を最初は、
信じたのも、家康の年齢もあったと思います。
まさか、家康が57歳から、74歳まで、生きるとは、大阪方も考えていなかったでしょうね。
ということは、もし、徳川家康が、関ヶ原から、
大阪の陣までの間に寿命で、亡くなっていたとしたら、
歴史は、どうなっていたでしょうか。
可能性としては
① 豊臣家は、60万石の大名として残る。
・・秀忠の娘の嫁ぎ先であり、お江は、淀の方の
妹なので。。
② 江戸幕府が、長期化するが、いずれは、豊臣家を取り潰す。
黒田先生は、どういうifが有り得ると思いますか。
青田さんへ
黒田裕樹 以前の講座で紹介しました「関ヶ原の戦いで家康が負けて生き残った場合」に近いと思われます。
恐らくは西日本を豊臣家、東日本を徳川家が支配する「二重政府」の状態が長く続いたでしょう。そして、両者の間には当然のように戦いがずっと繰り広げられます。
大阪の人間としては考えるに忍びないですが、豊臣家が中途半端に残っている以上、我が国の平和の達成は非常に遅くなったでしょう。その隙を外国につけ狙われれば…。
豊臣家の存続方法
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
NHKの大河ドラマ『江』を観ているのですが
大阪の陣の時の徳川家康の観ていると、
どうしても凄まじい怒りを感じます。
たしかに、平清盛は、源頼朝、源義経を許して
その後、平氏は、滅ぼされましたが、
私は、豊臣家が大名として、生き残る道は
あった気がします。もちろん、そのためには
淀の方、秀頼の態度も軟化させる必要がありますが。。(秀頼が徳川家に臣従するカタチ)
というのも、
豊臣秀吉が天下を取っても、織田家は、大名としては、江戸時代も残りました。
黒田先生は、豊臣家が、大阪からの国替えに応じて、徳川家に臣従を違うと豊臣家は、残ったと
思いますか。それとも、それでも、家康は、豊臣家を滅ぼしたと思いますか。
ただ、織田家と豊臣家との大きな違いは、
関ヶ原浪人の存在があるか、ないかも大きな
要因なのかもしれませんね。
結果は、わかっているのですが、心情的に豊臣家には、残って欲しい気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 あくまで推論の域を出ませんが、私は豊臣家の存在を家康は許さなかったと思います。
史実の豊臣家の滅亡まで関ヶ原から15年近く経過していますが、家康は将軍就任やその継承、幕府体制の基礎をつくるなど着実に手を打っています。
恐らくは自己の寿命を計算に入れたうえで豊臣家をはめる形で方広寺の梵鐘への言いがかりを考えたと思われます。
また、家康が豊臣家を許さなかったもう一つの理由として、史実の淀殿の高い自尊心が豊臣家による徳川家への臣従を許さなかったことを見抜いていたからではないでしょうか。
ここで二人をあっさりと殺すこともできたのですが、継母(ままはは)による懇願(こんがん)や、義経の母親の色香(いろか)に負けて結局二人を生かしてしまい、それから約25年後、成長した頼朝や義経らによって、清盛亡き後の平家(へいけ)はあっさりと滅亡してしまったのです。
自分に刃向(はむか)ったり、あるいは自分が滅ぼそうとしたりした勢力の残党を生かしておいては、いつ自分が平家の二の舞(にのまい)を演じてしまうか分かりません。そんな厳しい現実を歴史から学んだ家康だったからこそ、自分の生命があるうちに大坂城を落として、豊臣家を子供の首すらはねることで完全に叩(たた)き潰(つぶ)す必要があると判断したのでした。
そんな家康の「歴史に学んだ姿勢」が、実は幕府の組織のあちらこちらに見受けられるのですが、皆さんはご存知でしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人に情けを掛けたばかりに、滅亡してしまった平氏。清盛。
己の出世の為なら、情け容赦なく
立ち向かわなければいけないと悟った家康。
平清盛の行いは「墓穴を掘る」事だったとはいえ、人としての
良心を断ち切れなかった清盛を
バカな武将だと本当に一笑する事が出来るでしょうか。。
(まあ、単なる女好きだったのかも?という疑惑も断ち切れませんがww)
男性の方々は、女性とは違い出世欲が旺盛でいらっしゃると思うので、男性のご意見とは異なるかもしれませんが、歴史に名を残すか・・或いは、人としての情けを重んじるかと問われたら、私は後者を選んでしまうかも知れません・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、難しい問題ですね。
男子と生まれたからには「歴史に名を残したい」と誰しもが思うもの。
そのためには人間としての情を捨てることもいとわない…かといえばやはり躊躇してしまうでしょう。
迷った末に、清盛のような生き方を選択してしまうかもしれません。
歴史に学んだ家康にはそれが分かっていた。
だからこそ非情な「鬼」になり得たのでしょう。
今更ながら、凄まじい生涯だと思います。
.いつもありがとうございます。
アースガイド なるほど~勉強になるな~。
「おごれる徳川ひさしからずや」を
防いだという事なんですね~。
でもやはり非情ですね~。
黒田裕樹先生
風早 りら 敵の子供を殺害する
確かに 得策かもしれません
でも あまりにも 残酷です
悲し過ぎますね
数日ブログアップしていない時
励ましのコメント頂き
ありがとうございました
励みになりました
25日12時00分セットアップしました
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > なるほど~勉強になるな~。
> 「おごれる徳川ひさしからずや」を
> 防いだという事なんですね~。
> でもやはり非情ですね~。
歴史に学ぶ姿勢を持っていただけに、仰るとおり徳川家を平家の二の舞にすることはできなかったのでしょうね。例え非情であると分かっていても…。
風早りらさんへ
黒田裕樹 得策だけど残酷。普通の人間にはできませんよね。
家康はすごい精神力を持った人物なのかもしれません。
お元気そうで何よりです。
完全復活を焦らずにお待ちしております。
徳川家康はスーパーマン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川家康は、『歴史から、学んだ。』と
あっさりと考えていましたが、
冷静に考えると、徳川家康の年齢を考えると
その学んだことを活かす土台が、しっかりしていると思いました。
というのも、徳川家康は、73才で、死ぬ間際まで
頭脳・肉体が鋭かったです。
◆ 関東への転封が47歳(人間50年と言われた時代)この年齢から
未開の地への開拓をするのは、驚きです。
ちなみに、織田信長49歳で死去、上杉謙信49歳で死去、武田信玄53歳
◆ 58歳で、徳川義直(尾張)、60歳で、徳川頼宣(紀州)、62歳で、徳川頼房(水戸)
をもうける。
◆水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露しています。
◆ 剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。また、力も強く、
70歳の時に総長4尺7寸(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としています。
◆よく、考えると、大阪の陣の時の謀略の老獪さは72歳の時です。
日本は、超高齢化社会と言いますが
年齢で、考えた場合、やはり、徳川家康は、
スーパーマンだと思えてきました。
恐るべし、徳川家康。
青田さんへ
黒田裕樹 徳川家康は頑強な肉体と強じんな精神力を持っていたようですね。
それに加えて「薬オタク」といわれたほどの健康管理の素晴らしさ。
歴史に名を残す人は、やはり一般人とは明らかに異なるようです。
真田親子
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
秀頼の遺児の7歳の国松を市中引き廻しの上
殺した理由としては、源頼朝、義経の歴史から学んだことだけではなく、真田親子のこともあったように思います。
真田親子は、上田合戦、関ヶ原の戦いで、秀忠38000との戦いで、散々、徳川軍を苦しめました。
当然、徳川家康は、真田親子は、切腹させたかったのですが、真田信之、本田忠勝の必死の説得で
紀州の九度山に配流にしました。
その結果、大阪の陣で、真田幸村に散々、徳川家康は、苦しめられました。
もし、関ヶ原の戦いで、真田親子を切腹させていれば、という思いも国松を殺した遠因になっているというのは、私の論理の飛躍でしょうか。
青田さんへ その2
黒田裕樹 家康の恨みが込められているということでしょうか。
国松と真田家に直接の関係があるかどうか、という点が考慮の対象になると思われます。
初めての武家政権を誕生させた源氏や北条氏と違い、足利氏はカリスマ性や実力面で劣(おと)るところがあったことや、足利氏と同じだけの勢力をもつ守護大名(しゅごだいみょう)が数多く存在し、彼らが幕府の言うことをなかなか聞かなかったことで、幕府の指導力(しどうりょく)が設立当初から疑問視されていたのです。
守護大名の多くは足利氏に匹敵する広大な領地を持っていたのと同時に、管領(かんれい)などの幕府の重要な役職を歴任(れきにん)していました。いわば財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、幕府の言うことを聞かなくなったのでした。
そんな守護大名らに対抗すべく、第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が独裁的(どくさいてき)な政治を行ったのですが、最期には暗殺されるという悲劇をもたらし、その後遺症(こういしょう)は後の幕政に深刻な影響を与えたうえに、1467年の応仁の乱(おうにんのらん)によって、室町幕府は事実上崩壊(ほうかい)してしまいました。
家康はこうした室町幕府の失敗から二つのことを学びました。それは「大名の権力と財力との分散」と「独裁者を出さないシステム」です。




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ぴーち こんばんは!
今、ちょうど雷雨に襲われていまして、ようやく治まりました(^^A
それでも、昼間の気温が高いせいか、余り涼しくはなりません・・(><)
大阪はいかがですか?
足利義教が独裁政治を行った理由は、そういう経緯からなんですね。
(すみません、一度お聞きしていながら、この部分を忘れていました^^;)独裁と言う政治も「両刃の剣」。自分で自分の首を絞める結果になると言う愚かな結末が待っているのですね。何でもそうですが、極端になり過ぎてもいけないと言う事ですかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今、ちょうど雷雨に襲われていまして、ようやく治まりました(^^A
> それでも、昼間の気温が高いせいか、余り涼しくはなりません・・(><)
> 大阪はいかがですか?
そちらは雷雨ですか。大阪はきれいな満月を見ることができますが、暑いです…(´・ω・`)
> 足利義教が独裁政治を行った理由は、そういう経緯からなんですね。
> (すみません、一度お聞きしていながら、この部分を忘れていました^^;)独裁と言う政治も「両刃の剣」。自分で自分の首を絞める結果になると言う愚かな結末が待っているのですね。何でもそうですが、極端になり過ぎてもいけないと言う事ですかね^^;
仰るとおりだと思います。
過ぎたるは及ばざるがごとし。さりとてどうしようもないときもありますから、世の中は難しいものです。
江戸時代の大名は、徳川家の縁戚(えんせき)に当たる親藩(しんぱん)、関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)、関ヶ原以後に徳川家に従った外様(とざま)に大きく分かれますが、これらのうち江戸幕府の政治の中心となって活躍した多くの大名は譜代であり、また彼らの領地は多くても10万石前後に留まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです。室町幕府の失敗の教訓を生かした 「大名の権力と財力との分散」によって、家康は大名の統治に成功したのでした。
ところで、家康は自身の持つカリスマ性によって、いわゆるトップダウン型の独裁政治が可能でしたが、自分の死後の江戸幕府には、それだけの資質を持つ将軍が常に誕生するとは限りません。だとすれば政治のシステムをどのように調整すればよいのでしょうか?




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風早 りら 「政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです」
この考え 家康以前にはなかった事ですよね
凄い頭脳ですね
今さらながら感心しました
ありがとうございます
.
紗那 なるほど!長年の謎が解けました!
なぜ、譜代大名の領地が少ないのか、小学生の頃から疑問だったんです!
なるほど、そういう理由だったのですか……!
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです」
> この考え 家康以前にはなかった事ですよね
> 凄い頭脳ですね
> 今さらながら感心しました
> ありがとうございます
言われてみれば当たり前のことでも、考案する才能は並大抵ではありません。
「歴史に学ぶ」ことは素晴らしいですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど!長年の謎が解けました!
> なぜ、譜代大名の領地が少ないのか、小学生の頃から疑問だったんです!
> なるほど、そういう理由だったのですか……!
そういうことです(^^♪
財力と権力を実にうまく使い分けていますよね。
.
ぴーち こんばんは!
先人の失敗を教訓にしながら、
家康没後の徳川家安泰の為の模索まで考えを巡らす幅の広さは、さすがですよね。
目先の事ばかりに囚われない生き方を少しばかり教えていただいた気がします^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先人の失敗を教訓にしながら、
> 家康没後の徳川家安泰の為の模索まで考えを巡らす幅の広さは、さすがですよね。
> 目先の事ばかりに囚われない生き方を少しばかり教えていただいた気がします^^;
全くその通りだと思います。
家康の生き方から学ぶことは多いですね。
そこで、家康は将軍の下に数人の老中(ろうじゅう)を置いて、彼らの合議制(ごうぎせい)によって政治を動かすことができるシステムを作り上げました。こうしておけば、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになります。
また、この手法による政治が仮に失敗したとしても、その責任は決断した老中が持つことになり、将軍の名前には傷がつかないというメリットもありました。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図(はか)られることになったのです。
ところで、幕政の安定を願っていた家康は、さらに他の手も打っていました。その際に彼が参考にして、また利用したのが皇室あるいは朝廷の権威(けんい)だったのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら またもや 朝廷が利用されますね
秀忠の娘を朝廷に
差し出して 外戚に
なろうとしたんですよね
益々 楽しみになってきました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > またもや 朝廷が利用されますね
> 秀忠の娘を朝廷に
> 差し出して 外戚に
> なろうとしたんですよね
> 益々 楽しみになってきました
天皇の外戚になったんですよね。徳川家だけが皇室の権威を利用する。
天下を取った特権とはいえ、確かにズルいですね(笑)。
.
ぴーち こんばんは!
少々的外れなコメントで失礼しますが、昔「渡世人」などと呼ばれたものの中には、子分を沢山従えていて、その子分は親分の為なら命さえも捧げて、一家を存続させて来たという経緯があるそうですね。
そんな親分の中にも代議士になる人も居たりして。
そう考えると、家康の考えは、現代社会にも色々な世界に影響を与えている考えでもあるのかしらと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 少々的外れなコメントで失礼しますが、昔「渡世人」などと呼ばれたものの中には、子分を沢山従えていて、その子分は親分の為なら命さえも捧げて、一家を存続させて来たという経緯があるそうですね。
>
> そんな親分の中にも代議士になる人も居たりして。
> そう考えると、家康の考えは、現代社会にも色々な世界に影響を与えている考えでもあるのかしらと思います。
なるほど、そういう考えもありますね。
現代社会のシステムには基本形が昔のままというのがよくありますが、今回の件も家康がからんでいるという可能性は十分にあると思います。
また、皇室や摂関家(せっかんけ)などの公家と大名家との通婚(つうこん)を禁じて倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白(かんぱく)の地位を天皇の男子である親王(しんのう)より上位として、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試(こころ)みました。
こうして皇室に対して色々と細かく規定する一方で、家康は皇室や朝廷の権威はしっかりと利用し、また参考にしました。それは「征夷大将軍の地位」や「宮家(みやけ)の制度」です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
今でこそ、開かれた皇室などと言われていますが、この当時はもっと封建的であったでしょうから、家康のちょっとした助言は、そのまま妄信されていたのかも知れませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でこそ、開かれた皇室などと言われていますが、この当時はもっと封建的であったでしょうから、家康のちょっとした助言は、そのまま妄信されていたのかも知れませんね。
そうですね。
妄信されていたと同時に、家康の権力や武力に嫌々ながら従わざるを得なかった悔しさがあったかもしれません。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が江戸幕府の傲岸(ごうがん)ぶりに立腹なさったというエピソードも残っておりますし。
.
紗那 なるほどなるほど。。。
しかし、他の大名家は公家と通じてはならないのに、徳川家はしているというのは、ダブルスタンダードに見えなくもないですね……
僕なら、あまり幕府にいい気はしないかもです。。。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほどなるほど。。。
> しかし、他の大名家は公家と通じてはならないのに、徳川家はしているというのは、ダブルスタンダードに見えなくもないですね……
> 僕なら、あまり幕府にいい気はしないかもです。。。
「他人はダメで、自分ならOK」という姿勢は、実際にダブルスタンダードだと思いますよ。
権力者のエゴですが、それでも平和のためになるというのが何とも…。
黒田先生.
風早 りら 家康がした事は
ともかくとして
この人は相当
IQの高い人である事は
間違いありませんよね
先生のコメント頂き
とても励みです
ありがとうございます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康がした事は
> ともかくとして
> この人は相当
> IQの高い人である事は
> 間違いありませんよね
私もそう思います。こういう柔軟かつ慎重な発想は、通常の人間にできませんからね。
なおかつ不断の努力あってこそだとは思いますが。
> 先生のコメント頂き
> とても励みです
> ありがとうございます
こちらもりらさんのお言葉に元気をいただいておりますよ♪
.全てを網羅
オバrev まさに、歴史に学びに学んで、考えて考えて考え抜いて、練りに練って練って、全てを矛盾なく網羅した、恐るべき家康の戦略であり、システムですね。
なあ~んも考えずに、思いつきで物事を進めようとして、次から次へと矛盾の山を作り上げて立ち往生している、今の日本の政治家や官僚に、是非参考にしてもらいたいですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさに、歴史に学びに学んで、考えて考えて考え抜いて、練りに練って練って、全てを矛盾なく網羅した、恐るべき家康の戦略であり、システムですね。
> なあ~んも考えずに、思いつきで物事を進めようとして、次から次へと矛盾の山を作り上げて立ち往生している、今の日本の政治家や官僚に、是非参考にしてもらいたいですよ。
まさしくその通りだと思います。
現代の政治家や官僚はいったい何を学んできたんでしょうね…(´・ω・`)
御台所を迎える別の理由
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
摂関家から、御台所を迎える別の理由としては
摂関家が
権威はあるのに、権力・経済力が全くないことがあるのではないでしょうか。
というのも、徳川家康は、歴史に学ぶ能力があるので
◆ 藤原氏、平家は、天皇家の外祖父として、絶大な勢力をふるった。
◆ 源頼朝の源氏が創った鎌倉幕府は、力のある
妻の北条政子の北条家に乗っ取られた。
◆ 室町幕府は、日野富子が介入して、大混乱になった。
これらの事実を徳川家康は、知っていたので
どこから、将軍の正室を迎えるかが、大きなリスクを抱えることを知っていた気がします。
事実、この後、10代将軍の御台所、13代将軍の御台所を島津家から、迎えて、幕府にとって
弱みになりました。
青田さんへ
黒田裕樹 家康と江戸幕府の正室の関係については第26回歴史講座「藤原家の栄枯盛衰」で、島津藩の血筋が将軍の正室に迎えられた事情は第20回歴史講座の「幕末百景」でそれぞれ詳しく紹介しておりますが、仰るとおりだと思います。
しかし、征夷大将軍になるといっても、かつての源頼朝や足利尊氏がそうであったように、源氏の血を引いていなければ将軍になれないという不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない規定のこと)があったのですが、家康はこの規定をあっさりとクリアしていました。そのカギを握ったのが「松平」から「徳川」への改姓です。
松平家はそもそも賀茂氏(かもし)の出身とされていましたが、源氏の血を引く新田氏(にったし)の末裔(まつえい、子孫のこと)である得川氏(とくがわし)が松平家に婿養子(むこようし)として入ったのがルーツであると朝廷に認められ、得川を「徳川」と名乗ることで改姓に成功しました。
手法自体は強引であったものの、朝廷によって「源氏の末裔」であることが公的に認められた家康は、関ヶ原の戦いの後に征夷大将軍に就任することに成功して、江戸幕府の開設に大きく前進することになりました。
ですが、せっかく創設された徳川家も子孫が絶えてしまっては元も子もありません。思案した家康が注目したのは、1000年をはるかに超える長い年月の間ずっと血統を保ち続けている皇室に隠(かく)された宮家という名のシステムでした。




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風早 りら 松平家はそもそも賀茂氏(かもし)の出身とされていましたが、源氏の血を引く新田氏(にったし)の末裔(まつえい、子孫のこと)である得川氏(とくがわし)が松平家に婿養子(むこようし)として入ったのがルーツであると朝廷に認められ、得川を「徳川」と名乗ることで改姓に成功しました。
あの手この手作戦で
家康はすさまじい人ですね
ここまで知恵がよく働くと思います
でも 現代何故か人気はあまりありません
.
ぴーち こんばんは!
「得川」から「徳川」ですか。
確かに漢字の意味合いからしても、
「得」は、利益などという露骨な意味合いがありますが、
「徳」のほうですと、品格、品性と言う良いイメージがありますので、
同じ呼び名でも、改名したくなりますよね。
まさに、家康の下心を隠そうとする改名ですかね^^;
応援凸
PS・鯉さん、凄い勢いですね!!
2連勝おめでとうございます☆
明日は頑張ります(^^A
風早りらさんへ
黒田裕樹 > あの手この手作戦で
> 家康はすさまじい人ですね
> ここまで知恵がよく働くと思います
> でも 現代何故か人気はあまりありません
確かに頭がよく働きますよね。
でも人気がない。それには理由があるのですが…。
いずれこの講座で紹介させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「得川」から「徳川」ですか。
> 確かに漢字の意味合いからしても、
> 「得」は、利益などという露骨な意味合いがありますが、
> 「徳」のほうですと、品格、品性と言う良いイメージがありますので、
> 同じ呼び名でも、改名したくなりますよね。
> まさに、家康の下心を隠そうとする改名ですかね^^;
確かにそういうイメージがありますよね。
日本人が重要視する「徳」にこだわったのかもしれません。
カープは残された試合を全部勝つつもりで頑張ってほしいものです。
.
そうめん 徳川氏は元は「得川」だったんですか・・
参考になりました(^^;)
・・良く頭が働きますね。。。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > 徳川氏は元は「得川」だったんですか・・
> 参考になりました(^^;)
> ・・良く頭が働きますね。。。
確かに良く頭が回りますね…。
徳川家のためにあらゆる手段を尽くす。これも一つの生きざまですね。
旧宮家
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
天皇が、なぜ、1000年を越える血統を保ってきたのかは、不思議だったのですが
それは、宮家にあったのですね。
そこで、黒田先生にお尋ねしたいことがあります。
戦後、GHQによって、廃止された宮家があると
聞きましたが
もし、今後、未来において、直系の男系の皇位継承権者がいなくなった場合、旧宮家の復活は
必要だとお考えですか?
それと、1000年の間、宮家は、どのくらいまで
遡って、皇位継承者を選んできたのでしょうか。
というのも、
徳川幕府でも、
将軍家の直系が7代で途絶え、
徳川吉宗の直系が9代~14代で途絶え
最後の将軍の15代は、水戸家からでした。
1000年を越える血統を保とうと思うと
かなりの宮家の存在が必要になると思います。
青田さんへ
黒田裕樹 皇室の未来のことを思えば、確かに旧宮家の復活は考えるべきかもしれませんね。
かつて江戸時代に閑院宮家があったお蔭で皇統を維持できたということもありましたから。
幕府
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この幕府について、いつも疑問に思うことがあります。
それは、徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉のように天下取りのレースで、当初、西に向かわなかったのに結果的に幕府を開き、天下を取りました。
鎌倉時代の源頼朝、その後の北条氏も京に上らず、鎌倉幕府を開きました。
そう考えると、
京に上る= 天下を取る
とは、一概には、言えないようですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 天下を取るといっても、武士の本拠地は伝統的に東国ですからね。
戦国大名も大部分は自己の領地拡大が最大の目的であり、上洛を目指したのはむしろ少数でした。
その目的も、当時の幕府が京都にあって、幕府に対して何らかの利益を得ようとするのが主な目的でした(もちろん朝廷とのパイプをつくることもありましたが)。
そう考えれば、天下を取ることは必ずしも上洛することとは言えないかもしれません。
ただし、上記のカッコ書きのように、朝廷とのつながりを保つために一度は上洛する必要はあったと思われますが。
このシステムに着目した家康は、第2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)の血統とは別に、晩年になってつくった3人の男子をそれぞれ大名として、将軍本家にもしものことがあった場合の「血のセーフティネット」としました。これが後に尾張、紀州(きしゅう)、水戸(みと)の御三家(ごさんけ)となり、家康が死んでから約100年後に将軍本家の血が絶えた際に、紀州家から徳川吉宗(とくがわよしむね)が第8代将軍に迎えられています。
また家康は、戦国時代に散々苦しめられた一向一揆(いっこういっき)などの宗教勢力が江戸幕府に逆らわないように本願寺(ほんがんじ)を東西に分けて統治したり、家康の死後には檀家制度(だんかせいど)の導入によって宗教が政治にかかわる理由をなくしてしまったりするなど、政教分離(せいきょうぶんり)を目指した宗教への対策もしっかりと行っています。
家康が行った対策の中には、朱子学(しゅしがく)の導入のように長い目で見れば幕府にとって悪影響を及ぼしたものもありましたが、江戸幕府が約260年もの長い間存続したことで、我が国に平和がもたらされ、その結果人口や耕地面積が飛躍的に増加したことは疑いようのない事実です。
私たちは家康が行った様々な努力をどう評価すべきなのでしょうか?




いつも有難うございます。
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風早 りら 家康が檀家制度導入
政教分離の最初だとは
知りませんでした
「 私たちは家康が行った様々な努力をどう評価すべきなのでしょうか? 」
難しいですね
これからの講座を楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康が檀家制度導入
> 政教分離の最初だとは
> 知りませんでした
檀家制度の導入によって、宗教勢力は「黙っていても収入を得る」システムになってしまいましたからね。
私の過去の講座(第12回)でも詳しく紹介しております。
> 「 私たちは家康が行った様々な努力をどう評価すべきなのでしょうか? 」
> 難しいですね
> これからの講座を楽しみにしています
明日(30日)からのまとめでいよいよ核心に触れていきますので、よろしくお願いします。
.
紗那 なるほど、御三家や御三卿という発想は、天皇家からとっているわけですか。
初めて知りました。
んー、一部は知ってても、思わぬ事実が分かったりして楽しい講座です、今回も♪
.
ぴーち こんばんは!
どんなに良い考えでも
一長一短がある様に、
ある面では、家康のとった政策は
平和を齎し、国を安定させる効果は
あったものの、やはり先日の記事にもありました様に、平和を勝ち得る為には、その犠牲も伴わなければならない点を考えると、複雑な思いが残りますね。
政教分離がしっかり成されていた点は賞賛されるべき所だと思います。
現代の政治・政党は、裏側でしっかりと宗教と癒着されている部分が多いですものね(^^Aだから、余計にまとまらないのかしら・・・?
応援凸
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど、御三家や御三卿という発想は、天皇家からとっているわけですか。
> 初めて知りました。
> んー、一部は知ってても、思わぬ事実が分かったりして楽しい講座です、今回も♪
有難うございます。
暗記は言うなれば点だけの存在で、いずれは消えてしまうものです。
点と点を「歴史の流れ」という名の線でつなぐことで、初めて本当の知識が得られる、というわけです(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どんなに良い考えでも
> 一長一短がある様に、
> ある面では、家康のとった政策は
> 平和を齎し、国を安定させる効果は
> あったものの、やはり先日の記事にもありました様に、平和を勝ち得る為には、その犠牲も伴わなければならない点を考えると、複雑な思いが残りますね。
仰るとおりですね。
私たちが抱く「複雑な思い」については、明日(30日)以降のまとめで明らかにしていきます。
> 政教分離がしっかり成されていた点は賞賛されるべき所だと思います。
> 現代の政治・政党は、裏側でしっかりと宗教と癒着されている部分が多いですものね(^^Aだから、余計にまとまらないのかしら・・・?
現代においては政教分離といえるのか?
他国に比べれば進んでいる方だとは思いますが、判断が難しいところではありますね…。
.
アースガイド 更新もしなかったのに毎日応援していただいて申し訳ないです。
お気づかいに感謝して
今日も全ポチして帰ります!!!
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > 更新もしなかったのに毎日応援していただいて申し訳ないです。
> お気づかいに感謝して
> 今日も全ポチして帰ります!!!
いえいえ、お互いにブログを盛り上げていければと思っておりますので。
こちらこそ、応援ありがとうございます!
.
オバrev 100%完璧な政策はありませんから、家康のとった政策は日本人の出来うる最善と言っていいんじゃないでしょうか?
ただそれが270年という年月に渡って存続するとなると当然矛盾がでてきます。
その辺も含めて検討すると現在においても随分参考になる点が多いと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 100%完璧な政策はありませんから、家康のとった政策は日本人の出来うる最善と言っていいんじゃないでしょうか?
> ただそれが270年という年月に渡って存続するとなると当然矛盾がでてきます。
> その辺も含めて検討すると現在においても随分参考になる点が多いと思います。
そうですね。我々は結果だけを見ていますから気づかないことが多いのですが、270年も同じ組織が続くのは至難の業であり、その間には当然矛盾も出てきます。
長続きさせるには同じことの繰り返しでない、良い意味での変革が必要なのでしょうね。
だとすれば、家康は平和の実現のために力を尽くしたことになり、そんな彼に対して最もふさわしい言葉は「家康は平和主義者だった」ではないでしょうか。
しかしながら、豊臣家に対する陰湿な滅ぼし方や、大名に対する巧妙(こうみょう)な統治、天皇に政治をさせないために手の込んだ対策を講(こう)じる一方で皇室の権威やシステムをちゃっかりと利用するという浅ましさ、さらには政教分離の実現のための手法など、家康の政策には「ずる賢(がしこ)い」「汚(きたな)い」という言葉がよく似合うことで、我が国に平和をもたらしたというイメージとはかけ離れた印象があります。
実は、この矛盾(むじゅん)こそが、私たち日本人が知らず知らずのうちに抱いている平和に対する誤解なのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 今回の先生の講座で
家康の様々な面が浮かび
あがりました
やはりかなりどちらにしても
頭はよさそうです
.
ぴーち こんばんは!
こうして家康の半生を振り返ってみると、幼少期に受けた心の傷や、耐え忍んだ抑圧された日々と言うのが、いかに彼の性格の歪みの部分を形成してしまったのかと考えると、哀れにも感じます。
しかし、そういう時期があってこそ家康という人物がここまでにのし上がることが出来、結果として「江戸時代」は平和な260年間と言う時を刻むことが出来た訳ですよね。
もしも、家康の幼少期が「蝶よ花よ」で育てられたとしたら、また、歴史は変わっていたのかも知れませんね^^;
応援凸
.
およよのよ 徳川家康は江戸の地で幕府二世紀半の平和の基盤を築いた立派な人です。
「狸じじい」のイメージはあまりにひどいのでは。
まあずる賢い事は否定しない、むしろ肯定したいですが。
世界史でも中々無いくらいの平和らしいですからねー。
お久しぶりですがこちらのブログのおかげで一学期中間、期末、良い点を取ることが出来ました。
しかし順位表だとそれほど高くない。やっぱり日本史好き多いですね、負けてられぬ。
世界史は一位を取ることが出来ました。黒田先生は元教師との事ですが世界史は講座出来るんですか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の先生の講座で
> 家康の様々な面が浮かび
> あがりました
> やはりかなりどちらにしても
> 頭はよさそうです
そうですね。頭がよくなければ、あるいは他人に考えさせるとしてもそれを認める度量と頭脳がなければここまでは至らなかったでしょう。
様々な面については、次回以降にも紹介できると思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして家康の半生を振り返ってみると、幼少期に受けた心の傷や、耐え忍んだ抑圧された日々と言うのが、いかに彼の性格の歪みの部分を形成してしまったのかと考えると、哀れにも感じます。
> しかし、そういう時期があってこそ家康という人物がここまでにのし上がることが出来、結果として「江戸時代」は平和な260年間と言う時を刻むことが出来た訳ですよね。
> もしも、家康の幼少期が「蝶よ花よ」で育てられたとしたら、また、歴史は変わっていたのかも知れませんね^^;
確かに普通でない生活は、尋常ではない性分を生み出すといえますね。
ただ、それをバネに260年の平和な時代を築き上げたという現実はやはり高く評価すべきでしょう。
ただ、仰るとおり「三河の殿様」で一生を終わっていれば、世の中はどう動いたか分からないですね(^^ゞ
およよのよさんへ
黒田裕樹 > 徳川家康は江戸の地で幕府二世紀半の平和の基盤を築いた立派な人です。
> 「狸じじい」のイメージはあまりにひどいのでは。
> まあずる賢い事は否定しない、むしろ肯定したいですが。
> 世界史でも中々無いくらいの平和らしいですからねー。
これはこれはお久しぶりです(^o^)/
確かに、江戸時代は世界史レベルでも自慢(?)できる平和な時代ですからね。
それを「狸爺」ではあまりにも可哀そうです。
> お久しぶりですがこちらのブログのおかげで一学期中間、期末、良い点を取ることが出来ました。
> しかし順位表だとそれほど高くない。やっぱり日本史好き多いですね、負けてられぬ。
> 世界史は一位を取ることが出来ました。黒田先生は元教師との事ですが世界史は講座出来るんですか?
私のブログがお役に立ったようで、こちらとしてもうれしい限りです(^_^)v
世界史ですか…。できないことはないですが、もともとは公民が専門ですから(本当)。
「黒田裕樹の世界史講座」。いつの日かやってはみたいですけれどもね。
徳川家康の人生経験
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えてみたら、徳川家康の『ダーティー』な能力は、自分自身の幼少時代の経験だけではなく、長生きしたことによって、いろいろ観てきたことも財産になったこともあるような気がします。
① 今川氏、武田氏、北条氏という巨族も判断を誤ると一瞬で、滅んでしまうことを知る。
(北条氏は、250万石の大大名、武田氏も最強と言われた。)
② 『天下統一の一歩手前まで行っていた織田信長も家臣の明智光秀に本能寺の変で殺される。』ことを同盟者という立場から、実感する。
→ どんなに優勢であっても、少しでも危険要因を残していると一瞬で、コチラが滅ぼされる。
③ 『徳川家康は、五大老の筆頭なのに石田三成のような優秀な官僚が出現すると反徳川軍が8万人も出来ること』を関ヶ原の戦いで知る。
やはり、徳川家康自身の人生で、①②③を経験していると
豊臣家を滅ぼしていないと怖くて、不安で、仕方ないのも納得できます。
正直、石田三成、淀殿、真田幸村
がいくら有能でも、戦国時代とは、どういう社会かを実際に観て、経験していた徳川家康には
勝てない気がします。
それと
今の日本=豊臣家
徳川家康= 外国
にたとえると、
外国の要求に従って、ジリジリと国益を損なっているのが今の日本だと感じるのは、気のせいでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る一面はありますね。
長すぎる安定は、身を滅ぼす元なのかもしれません。
平和主義の理念は素晴らしいものであり、それ自体に対して反論するつもりは全くありません。しかし、一方的に平和を念じるだけで、本当に世の中の平和が実現するのでしょうか。もし家康が生きていれば、彼はこう言うことでしょう。
「冗談(じょうだん)じゃない。松平家が滅亡を避(さ)けて今川家に従った際に、俺たちがどんな目にあったのか忘れたのか」。
先述のとおり、今川家の圧力に屈して松平家が全面降伏し、幼い頃の竹千代が人質になった際、松平家の家臣は食うや食わずの生活を強(し)いられたうえに、戦の際には常に最前線に立たされて死と隣(とな)り合わせを余儀(よぎ)なくされるなど、およそ同じ人間とは思えない奴隷のような扱(あつか)いを受けました。
そんな苦労を経験したからこそ、家康は二度と同じ目に合わないために、非情な手段を用いてまでして徳川家の平和のために尽力(じんりょく)しました。平和というものは、汚いと思える手段であろうが何であろうが、あらゆる手練手管(てれんてくだ、人をだましてあやつる方法のこと)を用いることで初めて可能になる。これこそが平和の実現に隠された真実であり、家康の姿勢がそれを如実(にょじつ)に示しています。要するに「平和は綺麗事(きれいごと)だけでは達成できない」のです。
それなのに、私たちは家康のやり方を「汚い」として認めようとしません。なぜなら、平和への誤解の他に、家康に対する偏見に満ちた歪(ゆが)んだ先入観(せんにゅうかん)が私たちの目を曇(くも)らせているからです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 憲法第9条における平和主義
戦争放棄
平和主義
でも 今 北朝鮮にミサイルを
国内に打ち込まれたら
どうするのでしょう
みくびられている気がします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 憲法第9条における平和主義
> 戦争放棄
> 平和主義
> でも 今 北朝鮮にミサイルを
> 国内に打ち込まれたら
> どうするのでしょう
> みくびられている気がします
平和主義の理念や理想は素晴らしいと思います。
でも、現実には北朝鮮のように、我が国に対して決して良い感情を持っていない国家が存在することも事実です。
友情だけでなく、ファイティングポーズも必要でしょう。
.
ぴーち こんばんは!
「平和」とは尊いものである。と言う事は、誰しもが心に思う事であります。その尊さを感じる為には、やはり手練手管を尽くして得られた喜びの方が、よりその思いは強くなると思われますし、平和が簡単に得られるものであったら、誰も大切には思わないものでしょう。家康の場合は、自己犠牲であり、平和を得る為に已む無く葬ってしまった命の上に成り立った「尊い」ものと言う思いが人一倍あったのかもしれません。
憲法9条についてですが、
これまで何度かこの9条改正の動きはありましたが、未だに9条は原文のまま、守られています。
独裁政治がいけないとは言うものの、いざ、その独裁者が居なくなった世の中は散々たるもので経済状況も一気に悪化し、仕事は失業し・・と国民の生活は一変し、混乱を招いている例がありますが、独裁と言いながら、実の所、国民は独裁政治を心の拠り所にして生活している部分があります。
わが国の9条も、これまで日本国民の心の拠り所として存在するもので、この法案をもしも、取り去ってしまったら、軍備体勢にまっしぐら
となって刃をむき出しにした日本は一体・・・。
そう考えると、やはり9条の存在とは今の日本にはまだまだ必要なものである大切な法案だと思います。。
たとえそれが、「絵に描いた餅」的な存在でも。
それでは、今日は長々とコメントしてしまい、申し訳ありません^^;
ミルミルが好調なもので、調子付いてますw
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、多くの犠牲を出したうえにつかみ取った平和だからこそ、存在価値が高くなるというのも一つの堂々たる考え方だと思います。
憲法9条につきましては、本文中にも書かせていただきましたように私自身は平和主義を決して否定するものではありません。ただ、自国民が肝に銘じて相手方への一方的な武力行使への歯止めとしての役割と同時に、万が一攻めて来られた場合に、国民の命を守るために戦う際の法整備がしっかりしていればと個人的には考えております。
平和とは
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この『平和』というテーマは、重いですね。
私も、『優しさ』と『誠意』があれば、相手に通じるという考えを持っていました。
でも、冷静に考えて、世の中には、いろんな人間がいます。
もし、『優しさ』と『誠意』だけで、世の中が平和になるなら、犯罪は、ゼロになりますよね。
警察が存在するから、犯罪の抑止力になっています。
これは、国レベルでも同じですよね。
その証拠に、永世中立国のスイスも軍隊を持っています。
おそらく、ヨーロッパや中国のほうが日本よりも
恐怖政治の歴史があるからかもしれませんね。
なぜか、徳川家康と毛利元就が、似ている気がします。この二人は、きれいごとだけで、世の中を生きれないことを幼い時の苦労から、知ったのかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 全く仰るとおりです。
理想とは裏腹に、徹頭徹尾リアリストでなければ平和は達成できません。
本当の恐怖政治の悲惨さを我が国は知りません。
治安維持法にしても、死刑になった人間は一人もいないのですから可愛いものです。
平和について
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
本当にそうですね。
ヨーロッパの歴史は、常に侵略の歴史です。
だから、ヨーロッパの王族は親戚同士になるようにして、何とか、平和を保とうしてきました。
中国の歴史は、史記を読むと
自分の欲望のために、徹底的に汚い手段で、大量虐殺をいとも簡単にしています。
中国の史記の登場人物からすると、
徳川家康のしたことは、可愛いものに思えます。
これは、他国から、侵略される心配がない島国(天然の要塞)の歴史が長かったことから、生まれた風土かもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、我が国が島国であったことが運命を変えたといえるでしょう。
記念すべき第一回の歴史講座に詳しく紹介しています。
今そこにある危機
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川vs豊臣が今の
日本の周辺諸国vs 日本の構図に似ている気がします。
徳川家康= 周辺の大きな国
日本=豊臣家とすると
◆ 豊臣方は、徳川家康の言葉を信じて、どんどん、追いつめられる。
(微笑み外交の徳川家康の言うことを聞いて、安心していて、気がついたら、豊臣家の領土が削られている。
→(今)(竹島問題、北方領土)
◆ 豊臣秀頼、淀殿の豊臣方は、徳川家康の言うようにお金をどんどん使う。
でも、軍事力はない。(最後は、浪人頼み)
しかも、 いざとなれば、豊臣恩顧の大名が馳せ参じてくれると勝手に思い込んでいる。
(今) → 日本も経済力はあるが、正式な軍隊は、ない。
最後は、アメリカ頼み
いざとなれば、アメリカが、馳せ参じてくれると思っている。
◆ 豊臣方は、最後は、外堀、内堀を埋められて、終わる。
(今) → 平和主義、憲法18条で、外国から、攻められやすい。
◆ 徳川家康は、勝つためには、脅し、騙し、何でもする。
のに、豊臣方は、それを汚いと考える。
(今) → 徳川家康が、世界の常識。
こう考えると
徳川家康が汚いというよりも、大阪方が、世の中を知らなさすぎたとも言えますね。
日本が、そうならないことを祈ります。
青田さんへ その3
黒田裕樹 鋭いご洞察ですね。仰るとおりだと思います。
ネット社会を中心とする国民の覚醒が起きつつありますが、この風を味方に付けて、一日も早く全国民の目が覚めてほしいですね。手遅れになる前に。