昭和17(1942)年6月、日本軍はハワイ攻略の足掛(あしが)かりとして北部太平洋アリューシャン列島の西端(せいたん)に位置するアッツ島とキスカ島を占領しましたが、最大の目的であったミッドウェー海戦に敗北したこともあって、相対的な戦況は徐々(じょじょ)に悪化していきました。
翌7月に北部軍(後に北方軍と改称)司令官として札幌に赴任した樋口は、昭和18(1943)年4月に「アッツ島に事有(ことあ)らば万策(ばんさく)を尽(つ)くして増援(ぞうえん)する」と約束して山崎保代(やまさきやすよ)大佐を新たな守備隊長として送り出しましたが、その直後の翌5月にアメリカ軍がアッツ島へと押し寄せてきました。
緊急(きんきゅう)事態となったアッツ島に対して、樋口は武器弾薬(だんやく)や食糧資材などを輸送する準備を進め、増援部隊を送るために懸命(けんめい)の努力を重ねました。
しかし、そんな樋口に対して大本営(だいほんえい)は5月20日に「アッツ島への増援を都合により放棄(ほうき)する」と通告してきたのです。





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ぴーち こんばんは!
ここへ来て、樋口氏にとって最大のピンチが訪れてしまったのですね^_^;
この先、どうなってしまうのでしょうか。。
明日へ期待します。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最大のピンチの一つですね。
その後の苦悩と決断にご注目いただければと思います。
しかし、前線で死力を尽くして戦っている山崎守備隊長以下に「増援部隊を送る」との約束を果たせなくなったという非情な現実に対して、深い懊悩(おうのう、悩みもだえること)と慙愧(ざんき、自分の見苦しさや過ちを反省して心に深く恥じること)の念を抱(いだ)いた樋口は、自己の無力さを嘆(なげ)きつつも、大本営の命令を涙ながらに受けいれる以外に手段がありませんでした。
翌21日、樋口は断腸(だんちょう)の思いでアッツ島に向けて増援が出来ない旨(むね)の以下の電信を送りました。
「中央統帥部(とうすいぶ)の決定にて、本官(=樋口)の切望救援(きゅうえん)作戦は現下(げんか)の情勢では、実行不可能なりとの結論に達せり。本官の力及(およ)ばざること甚(はなは)だ遺憾(いかん)にたえず、深く謝意を表すものなり」。
これに対し、翌22日に山崎大佐からの返電が北方軍司令官に届きました。





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ぴーち こんばんは!
まさに樋口氏にとっては断腸の思いであった事でしょうね。
時にどんなに強靭で鋼の様な思いを持ち合わせていても、世の中の流れや、どうしても超えられない大きな存在に従わなければいけない場合がありますね。
一度は跳ね返されて、打ちのめされても
樋口氏なら必ずまた何か行動を起こしてくれそうな予感がしますが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり断腸の思いだったことでしょうね。
> 樋口氏なら必ずまた何か行動を起こしてくれそうな予感がしますが^^
この件については次々回(17日)の更新で紹介することになりますが、まずは山崎隊長以下の決死の思いをご覧いただければと思います。
「今後、戦闘方針を持久(じきゅう)より決戦に転換(てんかん)し、なし得る限りの損害を敵に与え、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)ながら、戦争遂行(すいこう)に寄与せんとす。なお爾後(じご、以後と同じ意味)、報告は、戦況より敵の戦法、及びこれが対策に重点をおく」。
「もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸(さち)である。その期至らば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂(れいこん)は永く祖国を守ることを信ず」。
アッツ島の守備隊は圧倒的な兵力を誇るアメリカ軍相手に健闘を重ねたものの、5月29日までに山崎守備隊長以下ほぼすべての将兵が壮絶(そうぜつ)な戦死を遂(と)げ、我が国初の玉砕戦(ぎょくさいせん)となってしまいました。
なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は、「最後までよく戦った」という惜別(せきべつ)の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。





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ぴーち おはようございます!
良い結果ならまだしも、悪い結果を聞かされた
昭和天皇も本当にお辛いお気持ちであった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 良い結果ならまだしも、悪い結果を聞かされた
> 昭和天皇も本当にお辛いお気持ちであった事でしょうね。
仰るとおり、大切な民の一人一人を失われた陛下のご心痛はいかばかりであったかと存じます。
そしてそれはもちろん樋口将軍も…。
樋口が迫ったのは、アッツ島のそばのキスカ島に残っていた将兵を撤退させることでした。 「アッツ島の二の舞(まい)は踏(ふ)ませない」。樋口の必死の思いはやがて実り、潜水艦(せんすいかん)を使って将兵を少しずつ撤退させ始めました。
しかし、アッツ島の玉砕もあってアメリカ軍に制空権も制海権も奪(うば)われた状態では、5,000人以上にのぼる将兵すべてを無事に撤退させることは容易ではありません。そこで、速度の早い軽巡洋艦(けいじゅんようかん)や駆逐艦(くちくかん)を投入して一気にキスカ島に突入(とつにゅう)し、残りの将兵すべてを一挙に撤収(てっしゅう)させる作戦が考案されました。
撤退作戦は現地特有の濃霧(のうむ)も味方して、各種兵器こそ遺棄(いき)せざるを得なかったものの、7月29日には全員が乗船し、無事撤退することに成功しました。





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ぴーち こんばんは!
確かに精神的なダメージで体重が激減する事って現実に起こりますよね。私も遠い昔、10日間で10キロも体重が減少するという痛手を負った経験がありますのでなんとなく、思いつめた気持ちが分かるような気がします^_^;
それにしても人の思いの強さとは、自然をも味方にしてしまう力を秘めているものなのだと改めて感じるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんも大変な思いをなさっておられたんですね。
仰るとおり、人間の思いが自然を味方にして実現してしまうという人智を超えた現実は本当にあるものなんですよね。
散々(さんざん)な目にあったアメリカ軍は、我が国の撤退作戦を「パーフェクト・ゲーム」と呼びましたが、世界史上でも珍(めずら)しい完全な撤退を成功させた背景には、現地における海軍の指揮官(しきかん)の好判断と共に、将兵を一人残らず生還させるという樋口の強い意志がありました。
作戦成功の要因として、樋口は現地の濃霧や将兵を命がけで救った海軍の友軍愛、そしてアッツ島に散った英霊(えいれい)の加護(かご)を挙(あ)げると共に、後年(こうねん)にはこのように語っています。
「アッツ部隊があまりに見事な散華(さんげ)全滅を遂げたので、アメリカ軍はキスカ部隊も必ずやアッツと同じ戦術をとるものと考え、撤収など考慮(こうりょ)しなかったのではないか。この意味において日本軍の意図(いと)を秘(ひ)せしめたるは、アッツ島の英霊といえるのである」。
キスカ島の将兵全員の生還は、アッツ島の将兵を犠牲(ぎせい)にせざるを得なかったとしてもキスカ島の将兵は必ず守るという、樋口の「誇りある決断」がもたらした奇跡(きせき)でもあったのです。





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ぴーち こんばんは!
樋口将軍の様な戦術をあの太平洋戦争でも
発揮出来ていたら、もっと日本の戦い方にも
変化が見られたのではないかと思いました。
それにしても、相手の思う事の裏をかいた
見事な戦術ですね!
棋士が10手先を読んで攻めるかの様に
樋口将軍の頭の中では、相手の考えが
手に取るように分かっていたのかも知れませんね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口将軍の主導による見事な撤退作戦でした。
将軍の決断力の凄味を感じさせられますね。