ナチスから逃れようとドイツを脱出(だっしゅつ)したユダヤ人難民はポーランドを目指(めざ)しましたが、ポーランド政府は受けいれに難色(なんしょく)を示したので、彼らは次にソ連へと向かいました。
ソ連政府はシベリア開拓(かいたく)のための労働力として彼らを利用しようと考えたために当初は難民の受けいれを認めましたが、後に彼らが役に立たないことを知ったソ連は、結局は難民の受けいれを拒否(きょひ)してしまいました。
次に彼らが目指したのは満州国(まんしゅうこく)でした。無蓋(むがい)列車に揺(ゆ)られて遠路(えんろ)はるばるシベリア鉄道でオトポールまでやって来た難民らでしたが、ドイツと友好関係にある日本に気を遣(つか)った満州国外交部が彼らの入国を拒否してしまったのです。





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ぴーち こんばんは!
なまじ日本はドイツと友好を築いていた為に
政府の立場とは真逆な行動をとらなければいけなくなってしまった所になにやら樋口氏の活躍が有耶無耶にされてしまっている大きな要因に
思えて参りましたが。。
いかがでしょうか(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、ぴーちさんのようにお考えになられるのも無理はないと思われますね。
樋口将軍の活躍についてはこの章でじっくりと紹介したいと思いますので、今しばらくお待ちください。
藁(わら)にも縋(すが)る思いでオトポールまでやって来たユダヤ人難民でしたが、満州国から足止めを食らって立ち往生(おうじょう)してしまいました。3月の当地は最低気温が氷点下20℃を下回るという厳(きび)しい寒さであり、難民たちは極寒(ごっかん)の原野(げんや)にテントを張って助けを求め続けましたが、中には凍死(とうし)する者まで現れ始めていました。
難民の困難(こんなん)な様子を耳にした樋口は、事態(じたい)の深刻(しんこく)さを直(ただ)ちに理解したものの、日本の一軍人が友好を深めつつあったドイツの国策に反する決定を下(くだ)すことは容易(ようい)ではありませんでした。
しかし、先述(せんじゅつ)したカウフマンからも難民の救出を懇願(こんがん)された樋口は、熟慮(じゅくりょ)を重ねた末(すえ)に難民を受けいれることを決断したのです。なお、これら一連の流れを今日では「オトポール事件」と呼(よ)んでいます。
「難民の存在を無視することはできない」。「人道上の問題」を重視した樋口の「誇りある決断」でした。





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ぴーち おはようございます!
考えてみれば、樋口氏の生き方は人間が人間らしく生きる為に必要である基本的な考え方に沿って
いるように思います。
自分の気持ちに正直に生きる事は難しい事ですが、(周りの人間関係や、社会情勢にどうしても流されてしまいがち)樋口氏はその信念を曲げずに常に自分自身の正義とすり合わせながら、道を外す事のないように懸命に生きようとした人だった様に思えました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口氏のまっすぐな生き方が周囲に大きな影響を与えたと思います。
これから紹介しますが、その後の対応においても将軍は完璧に処置を行っておられますからね。
難民受けいれを決断した樋口でしたが、オトポールからハルビンまでの長い道のりを安全に護送(ごそう)するには特別な列車を出す必要があったことから、樋口は南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ、別名を満鉄=まんてつ)に掛(か)け合い、最終的に運賃無料で輸送できることになりました。なお、当時の満鉄の総裁(そうさい)は後に外務大臣を務めた松岡洋右(まつおかようすけ)です。
昭和13年3月12日、ハルビン駅に難民たちを乗せた特別列車が到着(とうちゃく)すると、プラットホームには多くの涙と笑みがこぼれました。難民たちには5日間のビザが発行されたほか、地元の商工クラブや学校へと収容(しゅうよう)され、そこで炊(た)き出しを受けました。
樋口の決断によってこの後も多くのユダヤ人難民がいわゆる「ヒグチ・ルート」を利用してハルビンまでやって来ました。その総数はおよそ2万人とも、あるいは数百人から数千人とも伝えられています。





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ぴーち おはようございます!
よく耳にする事ですが、
日本人の初動体制の甘さ(と言うか、鈍さ)がその後の進展に
悪影響を与えている事例が多い中、こうした
決断力の速さ、的確な判断力を備えた日本人が
存在したことに私たちはもっと誇りを持つべきだなと改めて感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今後の講座の内容でさらに実感されるとは思いますが、樋口将軍の場合はエリートの良い面が突出しているといえます。
関東軍内においても樋口に対する処分を求める声が強まるなか、樋口は当時の関東軍司令官である植田謙吉(うえだけんきち)大将に自らの所信を表明した文書を郵送しましたが、その内容は以下のとおりでした。
「小官(しょうかん、ここでは樋口のこと)は小官のとった行為を、けっして間違(まちが)ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国(ぞっこく)でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。 法治国家(ほうちこっか)として、当然とるべきことをしたにすぎない」。
「たとえドイツが日本の盟邦(めいほう)であり、ユダヤ民族抹殺(まっさつ)がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈(くっ)するわけにはいかない」。





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ぴーち こんばんは!
樋口氏はあくまでも客観的な立場、人道的措置に拘った考え方を貫こうとした訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 樋口氏はあくまでも客観的な立場、人道的措置に拘った考え方を貫こうとした訳ですね。
その通りですね。だからこそ説得力があるとは思いますが、一方で批判も強くなってしまう一面もあったのは仕方がなかったのでしょうか。
「参謀長はヒットラーのお先棒(さきぼう)を担(かつ)いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか?」
東条参謀長は樋口の主張が尤(もっと)もであると認め、軍司令部内での樋口に対する批判は下火(したび)となり、ドイツの抗議は不問(ふもん)に付されて事件は鎮静化(ちんせいか)しましたが、その背景には「ユダヤ人を排斥(はいせき)することは我が国が長年国是(こくぜ)としてきた人種平等の精神と合致(がっち)しない」という一面もありました。
かくして、昭和15(1940)年に約6,000人の「命のビザ」を発行し続けた杉原千畝より2年も前に自己の地位をかけて「誇りある決断」を下し、結果として多くのユダヤ人難民を救った樋口の名前が歴史に刻(きざ)まれることになったのです。
なお、ユダヤのために貢献した人々を顕彰(けんしょう)するゴールデン・ブックに樋口の名が記されていますが、ゴールデン・ブックの本来の役割は「ユダヤ民族基金に対する献金記録簿(けんきんきろくぼ)」であり、先述した極東ユダヤ人協会が樋口に感謝を示す意味で、後日に彼の名前で献金を施(ほどこ)したということです。





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ぴーち こんばんは!
確かに日本人の心には人種平等の精神は、少なくとも外国の人種差別の度合いから比べれば、相当高いと思いますね。
それにしても、樋口氏のこうした功績が日本人に広く知られていない事が残念に思えてなりませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに日本人の心には人種平等の精神は、少なくとも外国の人種差別の度合いから比べれば、相当高いと思いますね。
> それにしても、樋口氏のこうした功績が日本人に広く知られていない事が残念に思えてなりませんね。
黄色人種が基本の日本人が人種差別に否定的なのはある意味当然かもしれません。
それだけに、仰るとおり樋口将軍の功績が知られていないことは残念です。
松岡は「反ユダヤ主義を支持するつもりはない」と常々(つねづね)主張していましたが、外務大臣に就任した当時は我が国とドイツとが同盟締結(ていけつ)の交渉中(こうしょうちゅう)であったことから、難民の受けいれを拒否したとされています。
ちなみに松岡は杉原に受けいれ拒否の電報を送る際に、周囲に内容が漏(も)れないようにする暗号電報ではなく、敢(あ)えて普通電報を使用しています。この姿勢にこそ、反ユダヤ主義を不支持としながらもドイツとの同盟を優先しなければならなかった松岡の苦衷(くちゅう)がうかがえるのではないでしょうか。
また、樋口が主張した「ユダヤ人難民の受けいれの正当性」を認めた関東軍参謀長(当時)の東条英機の存在も大きかったと思いますが、もしオトポール事件における樋口の決断を東条が支持したことが当時の世界に知れ渡っていれば、東条自身のその後の運命も変わったかもしれません。





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ぴーち こんばんは!
本当ですね。
東条英機といえば、やはりあの戦争のA級戦犯として
汚名を着せられながら、処刑させられてしまいましたから、こういう陰の功労もしっかりと果たしていた事を名誉挽回の為にも、もっと公にして差し上げたいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東条元首相の名誉回復を私たち日本国民の手で何としても実現させなければなりませんね。