しかし、その杉原より2年も前に、彼と同じようにユダヤ人難民の危機(きき)を救った軍人がいたことを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。その名を樋口季一郎(ひぐちきいちろう)といいます。
樋口将軍は人道主義(じんどうしゅぎ)の観点(かんてん)から批判(ひはん)を恐(おそ)れずに多くのユダヤ人難民を救ったのみならず、絶望視(ぜつぼうし)されていたキスカ島の約5,000人もの将兵(しょうへい)を生還(せいかん)させることに成功しました。また、我が国が終戦を迎(むか)えた後も攻撃(こうげき)を続けたソ連軍を占守島(しゅむしゅとう)にて撃退(げきたい)し、ソ連が目論(もくろ)んでいた北海道占領(せんりょう)の野望(やぼう)を打ち砕(くだ)いたのです。
今回の歴史講座では、誇(ほこ)りある決断を重ねた結果として我が国存亡(そんぼう)の危機を救った英雄たる樋口将軍の生涯(しょうがい)をたどりながら、現代に生きる私たちが活(い)かすべき教訓などについて探(さぐ)ってみたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
今日の記事だけを伺っていても、これだけの偉業を成し遂げられた人物がどうしてこれまで影の様な存在として追い遣られていたのか、逆に不思議に思いました。その辺の事情もあわせて勉強させていただきたいと思います。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口将軍の実績は他の英雄と比類なきものであるにも関わらず、一般的に知られていません。
その謎を探るとともに、まずは彼の実績を振り返ってみたいと思います。
幼い頃から成績優秀(ゆうしゅう)だった季一郎は、明治35(1902)年にエリート将校(しょうこう)の早期養成のために創設された大阪陸軍地方幼年学校に入学し、優秀な成績で卒業すると明治38(1905)年には東京の陸軍中央幼年学校に入学し、明治40(1907)年5月に卒業すると東京の第一師団(だいいちしだん)の歩兵第一連隊(ほへいだいいちれんたい)に配属(はいぞく)の後に、同年12月には陸軍士官学校に入学しました。
明治42(1909)年に第21期で陸軍士官学校を卒業した季一郎は見習い士官としての歩兵第一連隊第二大隊での勤務(きんむ)を経(へ)て少尉(しょうい)から中尉(ちゅうい)に昇進(しょうしん)し、第一次世界大戦中の大正4(1915)年に後の陸軍大将(りくぐんたいしょう)の阿南惟幾(あなみこれちか)らと共(とも)に陸軍大学校に入学するなど、陸軍将校としての道を着実に歩みました。
なお、陸軍中央幼年学校時代からの同期生には後に陸軍中将(ちゅうじょう)となった石原莞爾(いしわらかんじ)がいました。また、季一郎は18歳の時に叔父(おじ)にあたる樋口家の養子に迎えられ、樋口季一郎と名乗りました(当講座では季一郎のことを今後は「樋口」と表記します)。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、樋口という苗字は、後の養子として迎えられた家の名前だったのですね。
それにしても、多感な年頃に両親の離婚や、親戚に養子に入るなどを経験されて、何かと波乱万丈な少年期を過ごされたようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり波乱万丈な年少期でした。
しかし、そんなハンデを感じさせないほどのエリートとして出世していくのが樋口将軍のすごさですね。
ポーランドに赴任(ふにん)した樋口はダンスを学んだり、オペラ鑑賞(かんしょう)に足しげく通ったりすることで社交界の人気者となり、大いに人脈(じんみゃく)を広げました。また、ソ連とドイツに挟(はさ)まれていたことからインテリジェンス活動に力を入れていたポーランド陸軍の暗号解読能力の高さを研究し、日本陸軍の暗号技術の格上げに大きく貢献(こうけん)しました。
我が国が後に大東亜戦争(だいとうあせんそう)となった際、日本海軍の暗号が連合国にほぼ筒抜(つつぬ)けとなっていたのに対して日本陸軍の暗号が最後まで解読されなかっただけでなく、ソ連の軍事暗号を陸軍がかなり解読出来ていたのは、ポーランド時代の樋口の活動と決して無関係ではないでしょう。
昭和3(1928)年に帰国した樋口は、各地を勤務しながら中佐(ちゅうさ)から大佐(たいさ)へと着実に昇進しましたが、昭和10(1935)年に部下だった相沢三郎(あいざわさぶろう)陸軍中佐が永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長(ぐんむきょくちょう)を殺害(さつがい)するという相沢事件が起きた際には、責任を取って進退伺(しんたいうかがい)を出したものの慰留(いりゅう)されるということもありました。





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ぴーち おはようございます!
前回のお返事をいただいたお言葉通り
少々の波風などにはびくともしない逞しさを
感じる生き方ですね!
むしろ、苦労をそのまま、生きるための原動力として貪欲に吸収しながら突き進んでいるかの様です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 少々の波風などにはびくともしない逞しさを
> 感じる生き方ですね!
> むしろ、苦労をそのまま、生きるための原動力として貪欲に吸収しながら突き進んでいるかの様です。
仰るとおりですね。
樋口将軍のこうしたバイタリティーが我が国を救うことになるのです。
当時の我が国はドイツと防共協定(ぼうきょうきょうてい)を結んでおり、ドイツの国策(こくさく)に反することになる大会を認めない方が良いのではないかという意見もありましたが、樋口は全く意に介(かい)さず、来賓(らいひん)として自(みずか)ら大会にも出席しました。
大会当日、樋口は「一日本国民として出席する」という意思を示したのか、軍服ではなく平服で会場に現れると、ユダヤ人擁護(ようご)の演説を行って会場が万雷(ばんらい)の拍手(はくしゅ)に包まれたと伝えられています。
これらの姿勢(しせい)から見られるように、樋口自身は当時のユダヤ人が抱(かか)えていた苦難(くなん)に対して同情的でした。そんな中、大会からわずか3ヵ月後に樋口は大きな決断を迫(せま)られることになるのです。





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ぴーち おはようございます!
一個人の宗教的弾圧意識から、ただユダヤ人であるという理由だけで、迫害を受けなければいけないという状態に樋口氏は耐えられなかったのでしょうね。
過去の出来事にとらわれ過ぎて、怨恨を募らせていると、自分自身の首も最終的には絞めることになってしまう。。
「人を呪わば、穴二つ」とは、よく言ったものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 過去の出来事にとらわれ過ぎて、怨恨を募らせていると、自分自身の首も最終的には絞めることになってしまう。。
人間にとって永遠の課題でしょうね。樋口将軍の場合も様々な困難を乗り越えて我が国に貢献することになるのですが、そこには「人種差別を許さない」という我が国の国是もありました。