しかし、二〇三高地を占領したとしても旅順要塞の攻略には直結しないことから、満州軍総司令部の大山巌総司令官は要請を拒否(きょひ)しました。これに対し、参謀総長の山県有朋は御前会議における決議まで行って総司令部に翻意(ほんい)させようとしましたが、結果は同じでした。
現場の状況を理解していたゆえに乃木の苦衷(くちゅう)を察した総司令部は、あくまで正攻法による旅順要塞の攻略を目指(めざ)していたのです。
そんな乃木に対して、明治天皇は11月22日に勅語(ちょくご、天皇が直接に国民に下賜するという形で発した意思表示のこと)を下されました。勅語を賜(たまわ)るという栄誉(えいよ)に感激した乃木は覚悟を決め、今度こその思いを秘(ひ)めて11月26日に第三次総攻撃を開始しましたが、永久要塞とうたわれた旅順の攻略は今回も困難(こんなん)を極めました。
各師団の攻撃がことごとく失敗に終わったことを知った乃木は、切り札であった「特別部隊」を投入する決断を迫(せま)られたのです。





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ぴーち こんばんは!
その人が乗り越えられない程の苦難を天は与えはしないと言われていますが、乃木将軍は、明治天皇という最大にして、最強な存在を味方になってくれたのだから、これほどに心強いものはありませんし、怖気づく理由は全くありませんね!
明治天皇の存在が、乃木将軍にとって大きなバックボーンだったのでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
明治天皇の乃木将軍に対するご親愛が将軍とともに我が国を救うことになる。
まさに歴史のロマンです。
白襷隊の任務は夜陰(やいん)に乗じて刀や銃剣(じゅうけん)をもって敵陣(てきじん)に攻め込む奇襲であり、まさに命がけでした。乃木は白襷隊に訓示をした際、一人ひとりに「死んでくれ、死んでくれ」と滂沱(ぼうだ)の涙を流しなから声をかけました。
白襷隊は26日の夜間に敵陣を奇襲し、攻撃は激烈(げきれつ)を極めましたが約2,000人の死傷者を出した末(すえ)に敗れてしまいました。しかし、いかにも無謀(むぼう)と思われたこの奇襲は、ロシア軍に大きな恐怖(きょうふ)と精神的な衝撃(しょうげき)を与え、軍の士気に少なからぬ影響を与えたのです。
必勝を期したにもかかわらず三度目の東北正面からの攻撃に失敗した乃木は、翌27日に攻撃を中止すると、攻撃目標を西正面の二〇三高地に切り替えました。なお、この時の乃木の決断が「遅すぎる」という意見がありますが、それは結果論しか見ていない早計(そうけい)であると言わざるを得ません。
そもそも東北正面への攻撃は乃木の独断ではなく、満州軍総司令部の総意でもありました。また失敗したとはいえ三度にわたる総攻撃は白襷隊の奮闘を含めてロシア軍に尋常(じんじょう)ならざる衝撃を与えると共に、陸海軍による矢のような催促、加えて勅語を下されたほどの明治天皇のお苦しみを察しての、まさにギリギリのタイミングでの方針転換だったのです。





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ぴーち こんにちは!
白袴隊ですか・・
これは後の太平洋戦争時の特攻部隊のルーツの様なお話ですねぇ・・。
乃木将軍のお考えを否定する訳ではありませんし、乃木将軍のこの時の
断腸の思いは
よく分かりましたが、日本人の捨て身の攻撃というのは、人命尊厳を無視した攻撃ではないかと思ったりします。
日本人は今でこそ、人命第一と一にも二にも
人の命をいかにも大事にしているかのように叫ぶけれど、戦争中のこういった一連の考え方を鑑みた時に、例えば、アメリカならば、兵士には戦いの後は休息を与え、次の戦闘に万全の体制で送り込むといいます。勿論、それは物資、経済ともに豊かであることが大前提なのだと思いますが、基本的にアメリカ人の考えの方が、日本人が声を大にして叫んでいるよりも、よほど人命を大切に考えているのではないかと思います。
それが日本の体質なのか
分かりませんが、戦争こそしなくても、大企業はお構いなしに人材切りを断行したりますが、考え方は同じであるように思います。
人間一人切り捨てる事など痛くもかゆくも無い
という考え方。
戦争という切羽詰まった特殊な環境だからこそ、生まれた作戦ならまだしも、どうも基本的な考え方は解せない気がします。
それと確かに後から論評はいくらでも書けますし、物事はメリット、デメリットどちらも存在するものですので、悪いほうへ考えたら切がありませんものね。
何でもそうですが、最初にそのアイディアを思いついた人。行動を起こした人には、敵いませんし、その場の酷な環境下で実際に同じように考えられるかというと、出来ないものだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちも理解できないことはありませんが、戦争などの非常時の行動はその場での判断が大きく影響しますからね。
白襷隊の行動は傍目には無謀としか思えませんが、この後の戦いにおいてロシア側の甚大な影響を与えることになりますし、こういった物事は総合的に判断することがベターであると思われます。
ぴーち 確かに仰るとおり、
人間にとって何が一番恐ろしいものであると言えば、
死をも恐れない堂々たる態度であり、その気迫ある態度を見て、相手は怯み恐れ戦くことだと思います。
切り札とありましたが、まさに
最後の切り札がこの方法だったのでしょうし、
それだけ、乃木将軍はこの時は、四面楚歌な状態で、相当追い詰められていたと言う証拠なのでしょうね。
まさに「勝利」に固執する姿は軍人としては
天晴れであったのかも知れません。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 当時の我が国には「ロシアとの戦いで負ければ終わり」という並々ならぬ危機感がありました。
その危機感が鬼神ともいえる働きをひとりひとりにさせるとともに、指揮官たる乃木将軍の覚悟にもつながったと考えられますね。
一部の小説などでは「無能な乃木に代わった名将児玉の指導によって初めて二〇三高地は占領できた」と記されているようですが、史実は全く異なります。
児玉が旅順に来た本当の理由は、旅順を軽視し入念な準備を怠り、わずかな戦力しか乃木に与えなかった参謀本部の責任を深く痛感していたからであり、もし自分の旅順行きが成功しなければ生きて帰らぬ覚悟をもって、遺書(いしょ)まで書いて出てきたのです。また、児玉は第三軍の作戦や指揮について大きな指導をしておらず、二〇三高地の陥落と児玉の旅順来訪とは全く無関係であることも忘れてはいけません。
さて、その後の戦いは12月5日に第三軍が最後の攻撃を仕掛(しか)けると、困難の末に山頂の西南部と東北部一帯を占領し、翌6日にはついに二〇三高地の完全占領に成功しました。第三軍は直(ただ)ちに観測所を設けて旅順港内に向かって砲撃を行い、太平洋艦隊を全滅(ぜんめつ)させました。
かくして第三軍はバルチック艦隊と太平洋艦隊との合流を阻止(そし)して海軍の要請に応(こた)えるかたちとなりましたが、まだ旅順要塞の攻略を成し遂げたわけではなく、さらなる苦難が第三軍を待ち受けると同時に、乃木が最愛の息子を失うという悲劇(ひげき)が訪れていたのです。





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ぴーち こんにちは!
誰かの捏造だとしても、どうして
乃木将軍ばかり悪者扱いされなければいけなかったのでしょうね?
やはりそこには、人間関係において
乃木将軍を良く思っていなかった人物が
居たと言う事ですよね?
勿論、これだけの偉業を成し遂げた軍人ですので、その功績を妬むものも多く居たことでしょうが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 乃木将軍が悪者扱いされたのは旅順攻略戦に時間がかかったことが悪影響しているのかもしれませんが、有名になった小説においてここまで叩かれる理由が私にも解せません。
小説の作者の意図はどこにあったのでしょうか…。
現代とは異なり、明治の頃は「家」の感覚が濃厚(のうこう)にあったことから、家系(かけい)の断絶(だんぜつ)は当時の大問題でした。しかし、どうしようもなかったとはいえ多くの兵士を死なせてしまった乃木は、次男の死に対して「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と言い切るのみでした。
また、妻の静子も自分が産んだ二人の息子の死を知って「よく死んでくれました。これで世間の母親の方々に申し訳が立ちます」と言ったとされています。愛する子の戦死に対してこう言わざるを得なかった乃木夫妻の心情を、私たちはどう思うべきでしょうか。
なお、乃木の二人の息子が戦死したことは、当時の多くの日本国民が大きな衝撃を受けると共に乃木に同情するようになり、日露戦争後には「一人息子と泣いてはすまぬ 二人なくした方もある」という歌が流行しました。





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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、子供が親よりも先に亡くなるという
いわゆる「逆さ仏」と言うのは、親御さんにとっては、人生最大の悲しみであり、また子供の立場からすればまた、人生最大の親不孝をすることだと言わざるを得ないですよね。
それだけ乃木将軍が背負った罪の重さが、子供を二人も亡くすという結果を齎してしまったのでしょうけれど、国の威信を掛けた戦いであった事を私達国民は忘れてはいけないと思います。
国の為に已む無く命を落とした者への感謝や、尊敬の念を持っても、恨む気持ちは持ちたくはありませんよね。
承認待ちコメント
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従来の作戦どおり正攻法での戦いで臨(のぞ)んだ第三軍は、ロシア軍の頑強(がんきょう)な抵抗(ていこう)に多数の犠牲者を出しながらも進撃(しんげき)を重ね、翌明治38(1905)年1月1日には東北正面の最後の砦(とりで)にあたり、旅順市街地を見下(みお)ろせる望台(ぼうだい)を占領しました。
望台が敵の手に落ちたのを見極(みきわ)めたロシアのステッセル中将は抵抗をあきらめ、第三軍に対して降伏(こうふく)を申し入れました。かくして永久要塞と称えられ、攻略に3年はかかると言われていた難攻不落の旅順要塞を、乃木率いる第三軍はわずか半年で陥落させるという大偉業を成し遂げたのです。
旅順攻略に際して、参謀本部の旅順軽視や近代要塞戦についての認識および準備の欠如(けつじょ)、海軍からの催促を始めとする時間的制約、二〇三高地を先に攻めよという作戦への干渉(かんしょう)、さらには兵数と砲弾の不足など、これ以上はないと思われた最悪の条件をはね返した乃木は果たして愚将なのでしょうか。もし彼が名将でないというのであれば、他の誰が名将たり得るというのでしょうか。





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ぴーち おはようございます!
確かに、急いてはことを仕損じるものですからね。
味方である周りが、まずはその人物が大将であることをしっかりと認識し、一度認めたらその大将の方針に従って行動する事が一番望ましい状態ですね。
どんなに弱小な一団だとしても、結束力が高ければそれだけで鬼に金棒なのだと思います。
乃木将軍は、その要役をご自分の力量で勝ち取った事でようやく認められたと言う事でしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、結束力の高さは優れたものがありましたからね。
理想的な采配であったからこそ、わずか半年で永久要塞を攻略できたのだと思います。
会見に先立って、旅順攻略を深く喜ばれた明治天皇は、ステッセルが祖国のために力を尽くしたことを讃(たた)えると共に武人としての名誉の確保を望まれるという聖旨(せいし、天皇のお考えのこと)を乃木に発せられました。
これを受けて乃木はステッセル以下の将官(しょうかん)に帯刀(たいとう)を許すなど名誉を重んじると共に、各国の従軍記者には敵味方の優劣(ゆうれつ)がつかない構図(こうず)での撮影(さつえい)を許可しました。
こうした乃木の姿勢は敗戦の将たるステッセルを感激させると共に、武人としての乃木の高潔(こうけつ)な精神が世界各国から絶賛(ぜっさん)されたのです。
なお、乃木とステッセルとの会見の様子は後に文部省唱歌(もんぶしょうしょうか)「水師営の会見」として歌い継(つ)がれ、その後も長く国民に愛されました。





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ぴーち おはようございます!
「水師営の会見」とは、初めて伺いましたし
歌の方も存じませんでした。
今度機会があれば聞かせていただきたいと思います。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「水師営の会見」は名曲ですからね。
こういった唱歌の歴史が風化しつつあるのが残念でたまりません。