倍以上の兵力を有する薩摩軍と激しい白兵戦(はくへいせん)を繰(く)り広げながらも良く持ちこたえた乃木は、頃合(ころあ)いを見て一時退却(たいきゃく)を決断しましたが、その際にあろうことか明治天皇(めいじてんのう)から下賜(かし)された連隊旗(れんたいき)を敵に奪(うば)われてしまいました。
連隊長としてあるまじき大失態(だいしったい)に絶望した乃木は、死をもってその大罪を償(つぐな)う他(ほか)はないと言わんばかりに敵の砲煙弾雨(ほうえんだんう)をものともしない奮闘(ふんとう)ぶりを見せ、同年4月に官軍が薩摩軍の熊本城に対する包囲網(ほういもう)を打ち砕(くだ)くと、同月22日に乃木はその功績を称(たた)えられて中佐に昇進し、熊本鎮台参謀(さんぼう)に任じられました。
連隊旗喪失(そうしつ)の件も西南戦争の功績が評価されて無罪となった乃木でしたが、彼の心は暗く沈(しず)んでいました。そんなある日、彼はついに人知(ひとし)れず割腹自決(かっぷくじけつ)を遂げようとしたのですが、同じ熊本鎮台参謀で、長州藩出身者として普段(ふだん)から親しかった児玉源太郎(こだまげんたろう)少佐が気付き、すんでのところで食い止めることに成功しました。





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- 黒田先生
青田です。
この乃木の連隊旗を奪われた話は、非常に有名ですが、
私は、この話を聞いた時、
『連隊旗を奪われる』ことは、失態には、違いありませんが、割腹自決するほどの失態かと思ってしまいました。
もちろん、現代と当時との価値観の違いはあるとは思います。
ただ、西南戦争は、明治10年ということは、
明治の軍隊が出来て、わずか10年しか経っていません。
私は、乃木は、異常なまでの純粋な責任感からの行為(割腹自決)だと思います。
ぴーち こんばんは!
無罪を言い渡され、許されたにも関わらず
連隊旗を奪われたということは、乃木希典にとっては、命よりも大切なものを失うに等しいものであったのでしょうね。
個人的には人命以上に尊く価値のある物は
この世にあってはならないとは思いますが
それほどまでに忠誠心に長けた人物だったことが
伺えますね。
青田さんへ
黒田裕樹 陛下から下賜された連隊旗の紛失ということは、赤穂義士の忠義の精神を幼い頃から学んでいた乃木にとっては、やはり「万死に値する行為」であったと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、忠義心に長けた人物であったと思います。
幼年期から青年期にかけての様々な体験が乃木を突き動かしたのでしょうね。
「死ぬなら立派に死ね。しかし、貴様が腹を切ったら失った軍旗(ぐんき)が出てくるとでもいうのか。もし仮に軍旗が出てきたとしても、その責任はそれで済むのか。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除(かいじょ)されるというのが、俺たちが学んだ武士道なのか」。
「どうせ死ぬと決めたのならば、過失を償うだけの働きをしてからでも遅(おそ)くはあるまい。ただ死ぬのは犬死(いぬじに)だ」。
児玉の決死の説得を涙ながらに受けいれた乃木はその場での自決を思い止まりましたが、自己の責任を痛感(つうかん)した彼は後年(こうねん)に連隊旗喪失への謝罪(しゃざい)を遺言(ゆいごん)の第一に挙げ、明治天皇の後を追って殉死(じゅんし)を遂げることになるのです。





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ぴーち こんにちは!
児玉氏の言葉は、心に沁みますね・・。
仰るとおり、自らの命と引き換えに
死を選択すると言う事は、
全ての責任を放棄してしまう意味にもなりかねませんし、
自決をする事は、自分はそれらの事態以上の価値のあるものだと世間に知らしめる行為であるとすると、大層な傲慢であると感じます。
乃木将軍に対しての批判になってしまい申しわけありません。
死生観
- 黒田先生
青田です。
この逸話は、かなり、深いですね。
乃木には、武士道が根本にあり、
死生観を持っていたのですね。(赤穂浪士の忠義と吉田松陰の影響)
武士道とは、『死ぬことと見つけたり。』と
乃木は、考えて自決しようと考えたのですが
児玉源太郎は
『武士道とは、国家のため、人のために死ぬことと見つけたり、その時までは、死んではいけない。』ことを乃木に諭した気がします。
何も考えず、自分勝手主義になっている自分が情けないです。
反省しなければ。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 児玉将軍も乃木将軍も、それぞれの立場で死生観を持っていましたからね。
結果として乃木将軍はその後の我が国に大きく貢献したのですから、児玉将軍の説得は効果があったと思いますし、ぴーちさんのお考えも決して批判にはならないと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 乃木将軍も児玉将軍もそれぞれの考えをしっかりと持ったお方でしたね。
現代人への大きな教訓だと思います。
そして明治27(1894)年に日清戦争(にっしんせんそう)が勃発(ぼっぱつ)すると、乃木は歩兵第一旅団長(りょだんちょう)として出陣して遼東半島(りょうとうはんとう)に上陸し、清国(しんこく)にとって最重要の拠点(きょてん)であった旅順の要塞を、一万数千人の兵力によってわずか一日で陥落(かんらく)させました。
乃木は日清戦争終結直前の明治28(1895)年4月に軍功(ぐんこう)を称えられて陸軍中将(ちゅうじょう)に昇進しましたが、このときに旅順の要塞を一日で落としたことが、後の日露戦争で彼に塗炭(とたん)の苦しみを味あわせることになるとは、当時の誰(だれ)しもが予測もつかないことでした。
なお、乃木は戦争後に我が国の領土となったばかりの台湾総督(たいわんそうとく)を務(つと)めましたが後に帰国し、休職を挟(はさ)んで新設された第十一師団長に任じられました。大臣級の要職たる総督を歴任した後に再び師団長に据(す)えるというのは格下げ感が否(いな)めませんでしたが、乃木はそんなことは全く気にせず、喜んで任地先の香川へと向かいました。





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ぴーち こんばんは!
乃木将軍にとって、自分に与えられた階級や
肩書きなどはあまり眼中に無い事だったのかもしれませんね^^;
一番重要視したのは、やはり天皇陛下に対する忠誠心だったのでしょうか・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに陛下への忠誠心が乃木将軍の原動力になったかもしれませんね。
あるいは「根っからの武人」である彼にとって、格式高い地位よりも現場の方が喜びを感じていたのかもしれません。
訓練に従事(じゅうじ)していた兵士たちは、やがて乃木が副官(ふくかん)も連れずに一人で対岸の河原に立ち、こちらを見つめているのに気が付きました。やがて正午となって兵士らが弁当を食べると、乃木も携帯(けいたい)していた握(にぎ)り飯(めし)を食べ、兵士が河原に寝転(ねころ)んで休めば、乃木も同様に河原に横たわりました。
昼休み後に作業が再開されると乃木は再び午前と同じ河原に立ち、夕方の作業が終わるまでその場を立ち去りませんでした。兵士らは乃木の行動を始めのうちは「監視(かんし)しに来たのではないか」といぶかっていましたが、やがて「師団長は我々と困苦(こんく)を共にしておられる」ことに気付き、感激(かんげき)せずにはいられなかったそうです。
こうした乃木の鍛錬(たんれん)が実り、第十一師団は全国の模範(もはん)師団とうたわれるまでになると共に、所属していた将兵たちは日露戦争の際に第三軍に属(ぞく)して乃木の指揮下に入り、旅順攻略戦で奮闘を重ねることになるのです。
ただし、乃木自身は部下にある嫌疑(けんぎ)がかけられたことをきっかけに師団長を辞任し、以後は休職の日々を送ることになりましたが、そんな乃木を優しく見守り続けられたのが明治天皇でいらっしゃいました。





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ぴーち こんばんは!
そうですか。。
上に立つものは常に部下の身になって考える事は
絶大なる信頼を得るものですしね。
会社などでも、社長が率先して手本を示したり、
社員と同じ目線に立ち、行動を共に出来る会社に
倒産などという言葉は皆無だと思われますしね^^
乃木将軍の何事に対しても真摯に向き合おうとする態度は
賞賛すべき性格だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、部下に対する乃木将軍の気配りは大いに称賛されるべきだと思います。
そして、そんな上官であるからこそ、将兵たちは思う存分実力を発揮できて、苦難が続く戦いを勝利に導いたといえるでしょう。
その後も明治天皇はことのほか乃木を親愛され、明治35(1902)年11月に熊本で明治天皇が統監(とうかん、全体をまとめて監督すること)されて陸軍大演習が行われた際にも乃木をお召(め)し列車に陪乗(ばいじょう、身分の高い人のお供をして同じ車に乗ること)させ、西南戦争の激戦地であった田原坂(たばるざか)を列車が通過すると、陛下は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を詠(よ)まれて「乃木に与(あた)えよ」と仰(おっしゃ)られました。
「もののふの 攻めたたかひし 田原坂 松も老木(おいき)に なりにけるかな」
当時は西南戦争から四半世紀の時が流れていましたが、それだけの長い間乃木と人生を共にしてきたというご感慨(かんがい)と同時に、老いてもなお忠義の臣として陛下に仕える乃木に対する愛情を込めて詠まれた御製でした。
その後、明治37(1904)年に日露戦争が勃発すると、乃木は天皇ご自身が選ばれた親任官(しんにんかん)として第三軍司令官に任じられ、戦地に赴(おもむ)くことになったのです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。明治天皇から
救っていただいた命という訳でしたか。
そういう意味では明治天皇と乃木将軍は
異体同心の様な関係であったのでしょうね。
自身を一度死んだ身だと置き換えれば、確かにどんな
困難な目に遭おうと死に物狂いで戦う事が出来ましょう。
乃木将軍の中に息づく武士道精神をも感じさせるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
明治天皇の乃木将軍に対するご信任の深さが、乃木将軍の忠義と賢明な働きを呼び、結果として我が国を救うことになります。
我が国の歴史に欠かすことのできない大きな事実ですよね。
オバrev 結果はどうであれ、こういうお互いに信頼できる人間関係って、実はお互いにこの上ない幸せだと思います。
まさに人間関係に企業業績が左右される零細企業という立場にあると、こういう信頼出来る人間関係がいかに重要かということを痛感してます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
私も教師の端くれですので、生徒や保護者などとの信頼関係には特に注意を払っています。