乃木将軍が日露戦争(にちろせんそう)における旅順(りょじゅん)での戦いで数多くの死傷者(ししょうしゃ)を出してしまったことは確かに事実ですが、その一方で「永久要塞(えいきゅうようさい)」と呼(よ)ばれた難攻不落(なんこうふらく)の旅順の要塞をわずか半年足らずで落としたという大偉業(だいいぎょう)を彼が成し遂(と)げた事実を皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
戦いにおいて様々な悪条件が重なっても、一切弱音(よわね)を吐(は)かずに「腹を括(くく)った」乃木将軍であったからこそ、彼が率(ひき)いた第三軍は勇敢(ゆうかん)に戦い抜き、また旅順攻略(こうりゃく)後に敵将の名誉(めいよ)を重んじた乃木将軍の気高(けだか)い精神が世界各国から称賛(しょうさん)されたという真実もあったのです。
今回の歴史講座では、日露戦争における乃木将軍の活躍(かつやく)ぶりを中心として、彼が後世(こうせい)に遺(のこ)した様々なエピソードやそれにまつわる教訓について詳(くわ)しく探(さぐ)ってみたいと思います。





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ぴーち こんばんは!
いくら世間から名相だと称えられた人物であろうと
全ての面において、非の打ち所のない人物とは限らないのがまた人間であるが故でしょうけれど。
対象となる人物のどの部分をクローズアップして
みるかによって、人の意見が色々と変わってくるかと思いますので、そういう点にも注目してみたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いくら世間から名相だと称えられた人物であろうと
> 全ての面において、非の打ち所のない人物とは限らないのがまた人間であるが故でしょうけれど。
> 対象となる人物のどの部分をクローズアップして
> みるかによって、人の意見が色々と変わってくるかと思いますので、そういう点にも注目してみたいものです。
仰るとおりですし、乃木将軍の場合はなおさら顕著ですからね。
今回は約一ヵ月という長丁場ですが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
しかし、幼年期の無人は依然(いぜん)として虚弱体質(きょじゃくたいしつ)であり、かつ臆病(おくびょう)でした。朝から晩まで泣くばかりだった無人の様子を見た人々は、彼は「無人」ではなく「泣人」だと陰口(かげぐち)をたたきました。
我が子の将来(しょうらい)を憂(うれ)えた希次は、無人に対して敢(あ)えて厳(きび)しく養育しました。ある寒い冬の日、無人が家の中で寒さを口にした際、希次は「暖かくしてやろう」と言って無人を褌(ふんどし)一つの裸(はだか)にして井戸端(いどばた)に連れて行き、冷水を頭から何度もかぶせた後、乾布(かんぷ)で全身をぬぐいました。
こうした父の荒療治(あらりょうじ)を受けながらも、持ち前の心根(こころね)の優しい素直(すなお)な同情心の深い少年だった無人は、長府藩上屋敷(かみやしき)がかつて赤穂浪士(あこうろうし)の預かり場所であったこともあり、泉岳寺(せんがくじ)に何度も詣(もう)でるうちに、赤穂義士の忠義の精神を知らず知らずのうちに理解するようになりました。





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ぴーち こんにちは!
名前に反対の意味を込めるとは^^
普通の親は、子供の名前に
こう育ってほしいという願いを込める
意味で命名する場合が多いのに
やはり世に名を残す人物の親御さんは
考え方も人とは違うものですね^_^;
それとも、それが
その時代の慣例だった・・?訳では
ないですよね??
ぴーちさんへ
黒田裕樹 どうやら当時の慣例だったようですね。
何しろ乳幼児の死亡率が極めて高かった時代です。あえて不吉な名前を付けることで逆に強くなってほしいという親心が痛いほどわかりますね。
玉木は父の許しを得ずして出奔した源三を当初は許さなかったものの、やがては玉木家に住むことを許され、畑仕事に明け暮(く)れる毎日を過ごしました。
農作業で鍛(きた)えられた源三の身体はそれまでの虚弱体質が嘘(うそ)のように別人のごとくたくましく成長し、後に玉木に入門が許された源三は約4年間真剣に学問に励(はげ)み、剣術も一流となりました。
かくして父の希次と吉田松陰を育てた玉木の薫陶(くんとう)を受けた源三は心身共(とも)に立派(りっぱ)な男子として成長を遂げ、慶応(けいおう)2年(=1866年)の第二次長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)の際には長府藩報国隊(ほうこくたい)の一員として小倉口で戦果を挙(あ)げました。
なお、この時わずか18歳の源三の人物を見込(みこ)んで、彼を一指揮官(いちしきかん)として抜擢(ばってき)した人物こそが吉田松陰の愛弟子(まなでし)の一人である高杉晋作(たかすぎしんさく)だったのです。





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ぴーち こんにちは!
ここへ来てまた世に名を馳せる人物の名前が登場するのですね~^^
人間、生まれながらにハンデがあるほうが
一見して不幸であるように見えても、案外幸せだと思うときがあります。
ハンデがあれば、それを何とか克服していきたいと思う目標が生まれ、努力し甲斐が生まれるので
知らず知らずのうちに、健常な人間よりも心身ともに逞しく成長することが出来るのだと思いますので^^
やはり、自然と触れ合いながら体を動かしていく事はいい事ですよね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史に名をはせる人物は、知らず知らずのうちに他の著名な人物との交流が生まれるものなのでしょうね。
乃木将軍の場合はちょうど成長期に身体を動かしたことが奏功したと思われます。
自然との触れ合いが大切なのは仰るとおりですね。
明治8(1875)年12月、熊本鎮台(くまもとちんだい)歩兵(ほへい)第十四連隊長心得(れんたいちょうこころえ)に任じられた乃木は小倉に赴任(ふにん)しました。なお「鎮台」は「師団(しだん、陸軍の部隊の一つで独立した作戦行動のとれる最大の固定編制部隊のこと)」の前身であり、また「心得」が付いたのは、本来は中佐(ちゅうさ)以上の軍職である連隊長に少佐が就任した場合、中佐に昇進するまでそう呼ばれたためです。
当時は明治政府が主導(しゅどう)する急激(きゅうげき)な近代化が従来の日本の伝統を粗末(そまつ)に扱(あつか)うものであると考え、日本精神からの異議申し立てを考えていた不平士族による不穏(ふおん)な動きが見られており、明治9(1876)年には熊本で神風連(しんぷうれん)の乱、福岡で秋月(あきづき)の乱、山口で萩の乱と立て続けに反乱が起きました。
熊本や福岡の秋月、山口の萩を結ぶ要所であった小倉を任(まか)されていた乃木が反乱軍の動きを事前に察知(さっち)するなど適切(てきせつ)な対応を迅速(じんそく)に行ったこともあり、これらの乱はいずれも短期間で鎮圧(ちんあつ)することができました。
しかしその一方で、乃木は萩の乱で反乱軍に属して戦った、実弟で玉木文之進の養子となっていた玉木正諠(たまきまさよし)が戦死し、またその責めを負って養父の玉木文之進が自害(じがい)するという悲しみも背負(せお)っていたのです。





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ぴーち こんにちは!
昔は、何か新しい風が吹き込もうとした時点で
戦いが勃発し、多くの血が流れたのは本当に哀しい事実ですね。
今では
なるべく穏便に、話し合いを極限まで繰り返して
流血を回避しようという考え方が基本となっていますが、こうして歴史の中で
犠牲になった数々の尊い命が土台となっているからなのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 戦いにはどうしても犠牲者が出てしまうとはいえ、確かに悲しい現実ですね。
日本人同士なら話し合いを重視するという流れは決して間違いではありませんが、乃木将軍の場合はどうしようもなかったのが残念です。
乃木将軍の仁徳の源
- 黒田先生
青田です。
乃木将軍の仁徳は、こういった理不尽で、不条理なつらい体験から、創られたと思います。
本当につらい体験(心の痛み)を経験した人間だからこそ、他人の痛みを知ることができるからです。
現代でも、こういう他人の痛みがわかる人間がリーダーがいてくれたら
日本の国は、もっと良くなりますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、他人の痛みを知る人物こそがリーダーにふさわしいですよね。
現代においても一度つらい経験をした人物が返り咲いていますが、さて…。