1268年1月、高麗の使者がフビライの国書(こくしょ)をもたらし、我が国に対して武力を背景(はいけい)に服属を要求してきました。つまり「日本よ、自分の家来(けらい)になれ!」と命令したわけです。
当時の我が国を政治的に支配していた鎌倉幕府の対応(たいおう)としては、黙(だま)って元の服属国となることを受けいれるか、あるいは元との戦いを覚悟(かくご)してでも服属を拒否(きょひ)するかの選択を迫(せま)られたわけですが、幕府には初めから元には服属しないという決断しか有り得(え)ませんでした。なぜそういえるのでしょうか。
鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立しました。そんな幕府が、いかに強敵(きょうてき)だからといって元に服属してその軍門に下(くだ)ったとすれば、幕府以外の組織(そしき)や武士団にはどのように映(うつ)るでしょうか。
「鎌倉幕府は敵に対して尻尾(しっぽ)を巻(ま)いて逃(に)げた」ということになり、幕府のメンツが丸潰(まるつぶ)れになるどころか、権威(けんい)が失墜(しっつい)して以後の支配に悪い影響(えいきょう)を及ぼすことは間違(まちが)いありません。さらに付け加えれば、そもそも幕府の「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」が外国に服属することを選択すれば、その瞬間(しゅんかん)に征夷大将軍の権威は消失(しょうしつ)してしまうのです(この件は後で詳しく紹介します)。
当時の鎌倉幕府の執権は同年3月に就任(しゅうにん)したばかりの北条時宗でした。このとき時宗はまだ18歳(さい)という若さでしたが、幕府の重臣たちと協議を重ねた末(すえ)に国書に対する返書を黙殺(もくさつ)するとともに、元の来襲(らいしゅう)を予想して九州の御家人(ごけにん)に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を課し、沿岸(えんがん)の警備を強化しました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
多くの日本人が見落としている点は、
北条時宗が18歳だったということです。
ブレインはいたとは、思いますが、
18歳といえば、今では、高校を卒業したてです。
その18歳の時宗が、これだけの重責を担うのは
驚嘆に値します。
私は、自分を無能なオッサンだとあらためて、実感してしまいました。(苦笑)
青田さんへ
黒田裕樹 私だって無能ですよ(爆)。
それはともかく、時宗に関しては代々の家柄と本人の気質が見事に調和したからこその奇跡なのでしょうね。
ぴーち こんばんは!
これまた随分と分かりやすいというか、ダイレクトな申し入れですね(笑)
鎌倉といえば、武士の時代。
私の浅はかな知識からすると
武士はプライド、メンツの塊の様な印象があるので、当然ながら断固この申し入れにはNO!で返答したのでしょうね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにダイレクトですよね(^^ゞ
幕府の対応は最終的にぴーちさんの仰るとおりです。
武家政権が、まして「征夷大将軍」が易々と軍門に下るわけにはいきません。
わずか数百人の人口しかおらず、かつ武装(ぶそう)もしていなかった両島の人々は突然(とつぜん)現れた元軍兵や高麗兵になすすべもなく蹂躙(じゅうりん)され、ありとあらゆる暴虐(ぼうぎゃく)を受ける運命にありました。
しかし、その中で多勢(たぜい)に無勢(むぜい)を百も承知(しょうち)で敢然(かんぜん)と戦いを挑(いど)んだ対馬の武将もいました。その名を宗助国(そう・すけくに)といいます。助国は元軍の来襲を知るや直ちに博多(はかた)に早船(はやぶね)を送り、急報(きゅうほう)を受けた大宰府(だざいふ)は夜(よ)を徹(てっ)して早馬(はやうま)を鎌倉へと向かわせました。
宗助国ら八十騎(はちじゅっき)の武士たちは、後に続く者を信じて雲霞(うんか)のような元の大軍に斬(き)り込(こ)み、壮絶(そうぜつ)な玉砕(ぎょくさい)を遂(と)げましたが、彼らの戦死を耳にした北条時宗や多くの鎌倉武士は「打倒元軍」を誓(ちか)い、一丸(いちがん)となって闘(たたか)う決意を新たにしました。助国らの気迫(きはく)は決して無駄(むだ)にはならず、その後の我が国を大きく動かしたのです。
なお、宗助国の御霊(みたま)は現在も長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)の小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)に祀(まつ)られています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田 黒田先生
青田です。
元寇の役での、歴史での軽く扱われ方に
私は、いつも、激怒(血圧が上がりますが。)
していることに
相手の軍勢数の多さに注目していないことです。
3万人の軍勢というのは、現代の近代戦でも、
かなりの大軍勢です。
たとえば、現代において、3万人の大軍勢が某国から、九州に襲来したとしたら、日本は、大パニックになります。
まして、鎌倉時代の3万人の大軍勢というのは
想像を絶すると思います。
宗助国の八〇騎が玉砕したというのは、現代人から考えられないほどの勇気と愛国心です。
私が、タイムスリップして、その時代に、その3万人の大軍勢を観たら、
フリーズ状態になるか、一目散で、東北まで、逃げてしまうと思います。(あ~臆病者で、少子者の自分が情けないです。)(苦笑)
韓国右翼の主張。
晴雨堂ミカエル 御存知と思いますが、韓国右翼は対馬の領有権を主張しています。
高句麗や渤海があった中国東北地方やロシア沿海州の一部ならまだ論拠らしい論拠が辛うじて無いこともありませんが、対馬は唐突です。宗氏が勢力をはってからも500年1000年単位。
黒田氏は彼ら彼女らの言い分の詳細を御存知ですか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
多勢に無勢と分かっていても、後に続く者を信じて玉砕する。
これって、まさに大東亜戦争末期の我が国と同じですよね。
だからこそ軽く扱ってお茶を濁そうという勢力が存在するのでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 黒田氏は彼ら彼女らの言い分の詳細を御存知ですか?
「晴雨堂ミカエルさん」、ブログの運営を行っている「黒田氏」です。
かの国の主張につきあうだけ時間の無駄と考えている人々もおられるのではないでしょうか。
ぴーち おはようございます!
再三ということは、何度かの打診を断った後と言うことで、完全な奇襲攻撃では無かった訳ですね。
それでも多勢に無勢。
大人数の攻撃には太刀打ち出来ないものの
その中でも果敢に戦いに挑もうとした人物がいたことに誇りを感じるエピソードですね!
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
助国の願いは確実に本土に届き、我が国を救うことになりますからね。
こうしたエピソードこそ多くの人に知っていただきたいものです。
元軍の信じられないような仕打(しう)ちに対して怒(いか)りに震(ふる)えた我が国は、九州地方を中心とする御家人を中心に彼らと応戦(おうせん)しましたが、それまでの一騎討(いっきう)ちを中心として、名乗(なの)りをあげてから攻め込む日本式の戦闘方法(せんとうほうほう)が元軍の集団戦法には通用せず、いきなり大量の矢を浴びてしまいました。
この他にも、いわゆる「てつはう」と呼(よ)ばれた爆発物(ばくはつぶつ)に馬も武士も大いに戸惑(とまど)うなど、元軍流の戦闘に不慣(ふな)れな幕府軍は苦戦(くせん)を強(し)いられました。
しかし、亡国(ぼうこく)の危機に対して懸命(けんめい)に戦い続けた幕府軍の武力は決して元軍に引けを取らず、逆に彼らを追いつめることになるのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
青田です。
この時の『鎌倉武士の奮闘』を現代人は、
当たり前と思うかもしれませんが、
これは、とんでもなく、凄いことです。
そもそも、国民国家、国土防衛という概念が
出てきたのは、1759年のナポレオン戦争からです。
その証拠に、シナは、外国から、スグ占領される歴史が多いのは、国家という概念、自国を守るという概念が欠如していたからです。
そう考えると
この鎌倉武士の国土防衛には、いろいろな要因はあると思いますが、島国であったがゆえに、
日本人に国という概念が自然に備わっていたからだと思います。
そして、『愛国心』が自然にあったからでしょうね。
それに比べて、現代は、トホホホ・・・
青田さんへ
黒田裕樹 確かに「島国」という環境が、国民が一致団結する思想を生んだともいえますね。
それが今では「愛国心」を否定する教育を行うのですから話になりません(怒)。
ぴーち こんばんは!
今回の戦いの話ではありませんが、
私も昔、内乱やら戦争で人が酷い仕打ちを
受けた話などを聞いたことがありますが
この世の中で一番残酷な存在は、やはり人間自身なのではないかと思うときがあります。
けれど戦いに綺麗事は存在しないと思います。
今回、「はだしのゲン」の漫画の表現の件が
話題になっていますが、
私は戦いとは悲惨な結末を迎える事が多いものだという
教訓をいつまでも残す為にも、ぜひ残しておくべき
作品だと思います。
言葉や文字からは得られないダイレクトな表現方法にはこうした漫画もあり、子供たちには身近な存在だけに余計だと思います。
平和ボケしてなかった鎌倉武士
青田 黒田先生
青田です。
よく、今の日本は、戦後から、68年経つから
『平和ボケ』したという評論家がいますが、
この『元寇の役』を考えると、それは『言い訳』だと思います。
というのも、
この『元寇の役』は、1274年です。
承久の乱が、1221年ですから、承久の乱から、53年経っています。
さらに、
鎌倉幕府成立(1192年)から、82年経っています。
恐るべし、鎌倉武士です。
そう考えると、今の日本人が平和ボケになっているのは、別の理由ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦いは「食うか食われるか」であり、綺麗事の存在する余地はないと思います。
また「はだしのゲン」ですが、戦争の悲惨さの描写に限定するのであれば仰ることは確かに一理ありますが、この作品の中には天皇陛下に対するあからさまな侮辱の場面がありますので、私は閲覧制限はむしろ当然だと思っております(これ以上はブログ本文とは無関係ですのであえて述べませんが)。
青田さんへ
黒田裕樹 その通りですね。平和ボケを年月のせいにしている段階でボケの進行は相当進んでいると思わざるを得ません。
> そう考えると、今の日本人が平和ボケになっているのは、別の理由ですね。
国民の自覚を損ねている「何か」がある、ということなのでしょうね。
やがて元軍は沖合(おきあい)に船を避難(ひなん)させると、何とそのまま高麗まで退却(たいきゃく)してしまったのです。この戦いは当時の年号から文永(ぶんえい)の役(えき)と呼ばれています。
なお、これまでの通説では季節外(きせつはず)れの暴風(ぼうふう)が吹き荒(あ)れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には意外な抵抗を受けて怖(こわ)くなった元軍や高麗軍が逃げ帰ったというのが真相(しんそう)であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚(おどろ)いた」と書かれています。
こうして何とか文永の役を乗り切った我が国でしたが、フビライがこの一戦だけで侵略をあきらめるとは到底(とうてい)考えられません。今度は前回の何倍もの兵力をもって我が国に再(ふたた)び襲いかかるであろうことは誰(だれ)の目にも明白(めいはく)であり、そのことが若き執権の北条時宗を悩(なや)ませました。
来日(らいにち)していた南宋の名僧(めいそう)であった蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)らと相談(そうだん)した時宗は、やがて元軍と徹底的(てっていてき)に戦う意思を固めました。この決断が最終的に我が国を救うことにつながるのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは^^
黒田さんの仰るお話が事実だとすれば
元軍を武力で追い返したということは
立派な武勇伝として残されても良いような気もしますが、どうして神がかり的な伝説として
これまで語り継がれてしまっているんでしょうかね?
日本にとっては、軍事力以前に何か得体の知れない大きな力で常に守られているという説の方がより都合が良いという事なのでしょうか。
北条兄弟の結束
青田 黒田先生
青田です。
北条時宗が、前線に行けませんでしたが
弟の北条宗政は、築後守護として、前線で指揮を取り、弘安の役で、勝利でわくなか死にました。
亨年29歳。
その弟の北条宗頼は、長門・周防守護として、
異国警護として、前線で、行政を行っていましたが
弘安の役の2年前に亡くなりました。
この2人の兄弟が、北条時宗の名代として、前線に立ったことが、地元の御家人の士気を高めたと思います。
北条時宗も立派ですが、その弟達も、本当に立派です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 文永の役が「暴風雨で元軍が負けた」と書かれている史料は我が国にはなく、書かれているのは負けた高麗側に残された分のみです。
なぜ高麗が「ウソ」をついたのかは謎ですが、本文にあるように「ビビッて引き上げた」ことがばれれば本国(=元)からどんな目にあわされるか分からないために「暴風雨」という「言い訳」を「捏造」したのではないか、とも考えられています。
その後、弘安の役を経て我が国でも「暴風雨」が強く認識され、いつの間にか文永の役も同じ理由になってしまったのかもしれませんね。このあたりはもう少し先に改めて検証したいと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この時代に北条氏が政権を握っていたことが、我が国にとっては本当に良かったと言えるでしょう。