勝静がこれらのような出世街道(しゅっせかいどう)を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であったこともあると思われますが、やはり方谷による藩政改革の成功によって藩財政が豊かになったことや、それに伴って勝静自身の評判も高まったことが考えられます。
しかし、時は幕末の動乱期であり、やがて大政奉還(たいせいほうかん)が行われて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まると、老中首座(しゅざ)である勝静を藩主とする備中松山藩はいわゆる「朝敵(ちょうてき)」となり、朝廷から松山藩の征討(せいとう)を任じられた備前岡山藩(びぜんおかやまはん)など近隣(きんりん)の藩の大軍が押し寄せてくるという騒(さわ)ぎになりました。
このとき、藩主勝静は旧幕府軍側の立場で参戦して不在であり、重臣たちは抗戦(こうせん)か降伏(こうふく)かをめぐって激(はげ)しい議論が続きましたが、最後には方谷が独断で降伏を決めました。
「戦争になって一番困るのが藩民である以上、彼らの生命を救うのが我が天命である」。場合によっては自身の切腹(せっぷく)も辞さないという決死の覚悟でした。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、方谷氏は主と同じ権限を与えられていた事で、独断で判断したのですね。
降伏という決断が藩民にとっては良い結果となったとしても、方谷氏自身にとってはその判断は本当に良かったのでしょうか。。
その後の行方が気になります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
方谷の判断は正しかったのかどうか、次回の更新をお待ちください。
「親殺しや主君殺しを意味する大逆無道を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。
方谷による命がけの抗議(こうぎ)に対して官軍も折れ、最終的に「軽挙暴動(けいきょぼうどう)」に変更することで備中松山藩は無血開城(むけつかいじょう)しました。また方谷は旧幕府軍に随行(ずいこう)していた藩主の勝静(かつきよ)を強引に東京へ連れ戻して新政府へ自首(じしゅ)させたことで、5万石を2万石に削(けず)られこそしたものの、明治2(1869)年には藩の再興が認められました。
藩主が老中首座という重職にありながら備中松山藩の処分(しょぶん)が他藩に比べて軽かった背景には、方谷が組織した里正隊が本格的な軍隊であったことによる抑止力(よくしりょく)や、方谷が地元の農民から「生き神様」と慕(した)われていたこと、そして何よりも方谷の財政家としての類稀(たぐいまれ)な手腕(しゅわん)を惜(お)しんだからではないかと考えられています。
なお、方谷は慶応3(1867)年に行われた大政奉還において上奏文(じょうそうぶん、なお「上奏」とは天皇に意見や事情などを申し上げること)の草案を作成したという説もあります。





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ぴーち おはようございます!
大勢の命を救う為に、(松山藩)自ら体を張り、また間違った認識を是が非でも正そうとする信念に感服しました。
そうですよね。間違った認識ならば、命がけで撤回し、覆すくらいの押しが必要ですよね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
無血開城に導いたのは弱腰だったからではなく、「ならぬものはならぬ」という強い意志でもあったわけですね。
しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕(つか)え、同時に彼を支え続けてきた方谷は、年齢(ねんれい)のこともあって新政府への出仕を断りました。
その後の方谷は備中へ戻って私塾を開いたほか、我が国最古の庶民(しょみん)のための学校であった閑谷学校(しずたにがっこう)を再興するなど弟子の育成に力を尽(つ)くしましたが、明治10(1877)年に73歳でこの世を去りました。
方谷が亡くなってから約50年経(た)った昭和3(1928)年、方谷ゆかりの地に国鉄(現在のJR)伯備線が開通した際に、地元民の熱意によって「方谷駅」がつくられたほか、21世紀の平成18(2006)年には、それ以前の昭和52(1977)年に岡山県出身の天文学者が新たに発見した小惑星(しょうわくせい)に対して「山田方谷」と名づけることが認められました。
藩のためだけでなく、名もない多くの領民のために心血(しんけつ)を注いだ山田方谷の生き様は、時代を超えた今もなお多くの人々に慕われ続けているのです。





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ぴーち おはようございます!
小惑星にも方谷氏の名前が付けられていたのは
凄いですね!
方谷氏の事は何もかも存じておりませんでしたが、惑星にまで名を残すなんて・・
いかに彼の功績が偉大であったかということが
計り知れますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
小惑星も駅名も、地元の熱意がなければ名前には残りません。
方谷がいかに慕われていたかを証明しています。