勝静の熱意もあって、大抜擢に対する上級藩士の反発をよそに元締役と吟味役の兼任を引き受けた方谷でしたが、そんな彼の前に大きく立ちはだかったのが、天井(てんじょう)知らずに積み上がった藩の負債(ふさい)でした。
長年の粉飾決算(ふんしょくけっさん、会社が不正な意図をもって経営成績および財政状態を実際より過大または過小に表示するように人為的操作を加えた決算のこと)もあって、当時の備中松山藩の累積赤字(るいせきあかじ)はおよそ10万両(現代の金額で約600億円)に達する巨額(きょがく)であり、また藩の石高(こくだか)は名目(めいもく)の5万石(まんごく)に対して、実質は約19,000石の収穫(しゅうかく)しかなかったのです。これでは従来の農政を中心とした財政改革など出来ようはずがありません。
そこで、方谷は自(みずか)らが説(と)いた経済論たる「理財論(りざいろん)」や政治論たる「擬対策(ぎたいさく)」に基(もと)づき、従来の米本位経済にこだわらない大胆(だいたん)な手法で藩政改革を成し遂げようと決意しました。





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ぴーち おはようございます!
大出世したのは何も秀吉だけでは
無く、余り表舞台ではその名前が轟かなくても
影の立役者としてこうして立身出世なさった方がいらっしゃるんですね!
その後の展開を楽しみにしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
方谷による立身出世が藩にどれだけの効果をもたらしたのかをぜひご注目くださいね。
同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延(の)ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認められました。後の改革の成果を考えれば、計画書がよほどしっかりした内容だったことで商人たちの信頼を勝ち取ったからではないかと思われます。
また、方谷は大坂の蔵屋敷(くらやしき)を廃止(はいし)して、代わりに米を藩内に保管して相場(そうば)を見て売却(ばいきゃく)するようにしました。これによって蔵屋敷の経費の節減(せつげん)と同時に有利な時期に米を売ることで多額の利益を得て、そこから借財の返済に充(あ)てたのです。
蔵屋敷の廃止によって藩内に年貢米(ねんぐまい)を貯蔵する必要がありましたが、方谷は藩内各所に米を蓄(たくわ)える蔵(くら)を設(もう)けました。これらの蔵は飢饉(ききん)の際には米を配給するための倉庫の役割を果たしたため、幕末の飢饉において備中松山藩では一人の餓死者(がししゃ)も出さなかったそうです。





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ぴーち おはようございます!
人を納得させるには、自分も
用意周到に、確固たる姿勢で挑まなければ
説得力に欠けてしまう訳ですね。
備蓄用の米蔵で飢饉を免れたとありましたが
以前に、鹿児島でさつまいもを栽培していた
お陰で飢饉の際には餓死した者がでなかったと
黒田さんの所で勉強させていただいた事がありましたのを思い出しました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人を納得させるにはそれなりの覚悟や姿勢が必須です。
何しろ相手は百戦錬磨の浪速の商人ですからね。
飢餓対策は政治の必須条件です。
サツマイモとともに覚えておきたい対策ですよね。
次に方谷は農作業の負担(ふたん)を軽減するために、良質な砂鉄を使った三本歯の「備中鍬(びっちゅうぐわ)」を新たに開発し、当時の我が国の人口の8割を占(し)めた農民に幅広(はばひろ)い人気を集めたほか、建築に欠かせない鉄釘(てつくぎ)もよく売れました。方谷はこれらの人気商品を新たに購入した大きな船で直接江戸まで運ぶことで経費を節減するとともに大量輸送を可能とし、さらなる売り上げ増につなげました。
また、方谷は農民の暮(く)らしを向上させるために柿(かき)や煙草(たばこ)などを栽培(さいばい)したほか、柚餅子(ゆべし)などのブランド品を新たに生み出し、これらも藩の特産として全国で売り上げを伸ばしていきました。
なお、方谷はこれらの産業振興に関する業務を撫育方(ぶいくがた、撫育とは人をいつくしみ育てること)と名付けた組織にまとめ上げ、流通を一本化したことで効率化も図(はか)っています。





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ぴーち おはようございます!
きっと方谷氏の頭の中では、最初に完成図が
仕上がっていたからこそ、このような手際の良い采配が出来たのでしょうね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > きっと方谷氏の頭の中では、最初に完成図が
> 仕上がっていたからこそ、このような手際の良い采配が出来たのでしょうね!
私もそう思います。大坂商人たちを納得させるだけの計画書を用意していましたからね。
しっかりと計画を立てて、それを実行に移す手際の良さは素晴らしいと思います。
しかし、財政難に苦しんでした備中松山藩では兌換のための準備金にまで手を付けていたどころか、新たに大量の藩札を発行したことですっかり信用を無くし、偽札(にせさつ)まで出回る始末でした。
事態を憂慮した方谷は、3年間という期限を切って信用の無くなった旧藩札を回収し、すべて新しい藩札に切り替える決意をしました。当時は産業復興が進んで藩の資金が充実しつつあったとはいえ、兌換のための準備金を調達するのは大変な苦労を伴(ともな)いましたが、人間でいえば血液の循環(じゅんかん)にあたる紙幣(しへい)の流通を円滑(えんかつ)に進めることは、藩の再建に不可欠(ふかけつ)だったのです。
やがて期限の3年を迎えると、方谷は引き換えた大量の旧藩札を領内の河原に積み重ね、領民が見守る前で焼き捨てました。現代の観点からすればパフォーマンスとも思われかねない突飛(とっぴ)な行動でしたが、方谷の姿勢(しせい)に並々(なみなみ)ならぬ覚悟(かくご)を見た領民たちは新たに発行された藩札を信用して、やがて他国にまで流通するようになりました。





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ぴーち おはようございます!
これまでの方谷氏の考え、行動を拝見していると
冷静沈着な方だったのかと思っておりましたが、
今日のお話を伺っていると、うちなる情熱を秘めた方だったのだと改めて感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですよね。
内なる情熱がなければ、上っ面だけのパフォーマンスで終わっていたと思います。
方谷による激しい情熱は、講座の後半でもう一回出てきますね。
次に、盗賊(とうぞく)の取り締(し)まりを厳しくしたり、賭博(とばく)を禁止したりすることで領内の治安(ちあん)を向上させたほか、領民が誰(だれ)でも投書することができる目安箱(めやすばこ)の設置を行いました。また、先述したように蔵屋敷の代わりに領内に40ヵ所余(あま)りの貯倉(ちょそう)を設けたことで凶作(きょうさく)の際の飢餓対策(きがたいさく)に大いに役立ちました。
その他、産業振興を名目として道路や河川の改修といった公共投資(こうきょうとうし)も積極的に行いました。交通の便が良くなったことが藩内における人々の行き来や物資輸送の円滑さを生み出し、さらなる経済効果をもたらしたのです。
「不況の際は積極的に公共投資を行うべし」。20世紀の経済学者であるケインズよりも80年以上も前に実践(じっせん)した方谷の優秀さには驚くしかありません。





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ぴーち おはようございます!
敵が安易に攻めて来られない様に
わざと道を狭くしたり、複雑に入り組ませたり
しいていた日本の
それまでの道は、確かに国内で起こっていた内戦では自分の身を守る為だけには威力を発揮していたでしょうけれど、いざ、戦う事が必要にならなくなった時代では負の財産と化してしまいますものね。
道路と言えば・・・
こちらではようやく平成の世の中になってから
お隣の県へ続く大動脈が建設され、開通したばかりですもん(^^ゞ
そういう重い腰を容易に上げさせた方谷氏の功績を考えるといかに素晴らしい人物であったか想像出来ます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸時代初期までは仰るとおり道をわざと複雑にすることに大きな効果がありましたが、太平の世ではかえって成長の阻害になりましたからね。
方谷の柔軟な発想による功績は大きいと思います。
近代国家への種まき
鹿児島のタク 黒田先生
方谷さん,すごいですね。
ケインズ政策の先取りですね。
近代国家の青写真ができているように思いました。
ところで,この「方谷」さんは,あまり現代人から見ると,有名ではないと思うのですが,高等学校レベルの教科書にも出てくる人物なのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 残念ながら山田方谷は高校レベルの教科書でも出てきません。
後述のように明治維新後の政府における活躍がなかったことが遠因かもしれませんが。
そこで、方谷は藩校の有終館を拡張(かくちょう)したり、領内に「学問所(がくもんじょ)」や「教諭所(きょうゆじょ)」を設けたりしたほか、郷学(ごうがく、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校のこと)や私塾、あるいは寺子屋を次々と設置したことで、教育の施設(しせつ)の充実ぶりは他藩をはるかにしのぐようになりました。
方谷は藩士以外の領民の教育に力を注(そそ)いだだけでなく、特に成績優秀な者は農民や商人出身でも藩士へ取り立てたことで、子弟(してい)はすべて向学心(こうがくしん)に燃え、藩の教育水準が向上するとともに、方谷の財政改革への理解度も高まりました。
こうした思い切った教育改革も、方谷自身が農商の出身でありながら元締役と吟味役を兼任するまでに出世したという経験が下地(したじ)にあったからに間違(まちが)いありません。





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オバrev 方谷の財政改革は私はもちろん知りませんでしたが、もっと一つ一つの改革がどのくらいの経済効果があったのか深く掘り下げて検討して欲しいですね。
それにしても江戸時代は平和が続いて、様々な産業や文化が発展するとともに、財政破綻や財政改革など現在の経済状況と非常によく似ていると思います。
財政改革という点から、歴史学者や経済学者が一緒になって、しっかり江戸時代を洗いなおす事が求められているような気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 方谷の財政改革は私はもちろん知りませんでしたが、もっと一つ一つの改革がどのくらいの経済効果があったのか深く掘り下げて検討して欲しいですね。
今回は方谷の改革全般について紹介しておりますので、具体的な効果については物足りないところがあるかもしれません。申し訳ないです。
ただ、全体の効果については近日中に回答することになると思います。
> 財政改革という点から、歴史学者や経済学者が一緒になって、しっかり江戸時代を洗いなおす事が求められているような気がします。
仰るとおりですね。経済学が机上の空論とならないように、歴史的な背景をも見つめ直す必要があると思います。
ぴーち おはようございます!
生まれた所は貧しくても、
そこにやる気や向上心があるなら
高水準の教育を受ける事が出来る制度というのは
考えてみれば、素晴らしいことですね!
生まれてきた所の家の家業などを引き継いでいく
ことも勿論大切だとは思いますが、
生まれてきたからには、自分の夢や希望が
叶う世の中で生きてみたいと思うのが人間ですものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
家業を継ぐだけでなく、様々な人生を選択できるように幅を広げることができる教育の振興は非常に重要ですね。
身分社会の壁!?
鹿児島のタク 黒田先生
「方谷自身が農商の出身でありながら元締役と吟味役を兼任するまでに出世したという経験…」という部分についてですが…。
日本の江戸時代の身分制度・社会についてですけど,そりゃ厳しかったんでしょうけれども,この方谷さんのように士農工商等の身分が変わることって意外とあるみたいなんですけどいかがでしょうか。
例えば,私は鹿児島ですが,薩摩藩においても武士の「株」を買うことができるみたいで,いろいろな有能な人が,親の代までは武士階級じゃないのですが,「士」になっている例が結構多いのです。
また,武士の中でも,特に幕末になるとですが,門閥の家老もいるのですが,実力の家老というのがよく出てきますよね。家老じゃなくて全く身分の低い武士(茶坊主)が,財政改革をやっています。例の調所広郷もです。
江戸時代の身分社会・制度…どうなっているのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 確かに士農工商と言われる身分の厳格な区別は、時代が下るにつれて緩くなりました。
株を買えば武士になれるものもいたのも事実ですが、同時に華々しい出世を果たすとすれば、やはり本人の努力が不可欠ですね。
ともあれ、他国とは違って人種差別的な思想のない我が国ならではの展開だと思います。
方谷は自ら学んだ砲術(ほうじゅつ)をもとに大砲を鋳造(ちゅうぞう)して洋式兵術を導入したほか、嘉永5(1852)年には領内の庄屋(しょうや)の家の壮健(そうけん)な若者を選んで銃(じゅう)と剣を学ばせ、帯刀(たいとう)を許して「里正隊(りせいたい)」という農兵制を組織しました。
方谷は里正隊の教育や指導に力を注いだほか、領内の漁師や一般農民の中からも壮健な者を集めて西洋式の砲術や銃の訓練を行い、国境の防備の一部を担当させました。陽明学という実践に重きを置く学問を究めた方谷ならではの柔軟(じゅうなん)な発想が生み出した軍制改革といえるでしょう。
これらの方谷による藩を挙げた財政改革が実を結び、備中松山藩は改革の開始からわずか7年後の安政(あんせい)4年(=1857年)頃には10万両あった借財をすべて返済して、逆に10万両の蓄財を成し遂げたのみならず、実質2万石にも満たなかった藩の収入は20万石にも匹敵(ひってき)するといわれるようになり、領内の治安の良さや領民の安定した生活と教育の振興ぶりは、他藩からの旅行者がうらやむほどとなりました。
方谷による藩政の改革は、歴史的にも稀(まれ)に見る素晴(すば)らしい成果を上げたのです。





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ぴーち おはようございます!
ペリー来航という思っても見なかった事態が
起こった事をキッカケに直ぐに次なる方策を
考え、行動に起こしていく所がまた見事ですね。
国防の為の軍備の発端は、方谷氏の提案だったとは。
それまでの経験の豊かさ、または引き出しの多さに改めて感心させられますね!
それもきっとそれまでの人生、人の話を良く聞き、または自身でも沢山の書物を読み
様々な経験をしてきた賜物だったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
山田方谷の器量の大きさには今さらながら驚くばかりですね。
大砲の鋳造
鹿児島のタク 黒田先生
「方谷は自ら学んだ砲術(ほうじゅつ)をもとに大砲を鋳造…」…すごいですね。
大砲を鋳造するには,一般的には反射炉が必要だと思うのですが,私の地元の鹿児島では反射炉跡が残っています。反射炉を作ったのは,薩摩藩と肥前鍋島藩くらいかなと思っていました。
薩摩も肥前も大藩ですが…
それを方谷さんたちがやったのはすごいですね。
陽明学について
鹿児島のタク 黒田先生
陽明学と言えば,「知行合一」ですね。
私は,と言うか多くの人がそうだと思うのですが,大塩平八郎のことを思い出します。
陽明学は,その要素が孔子の儒学に見えていると思いますが,…現代社会に生きる我々が日々の日常の中で,陽明学的な活動をしようとすると,浮いて見えたり,批判を浴びたり,命がけになったりするような気がします。
人間は,「妥協」しながら生きていかねばならないのでしょうが,大事なところで「知行合一」ができるといいでしょうね。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大砲を鋳造しようと思えばそれまでの準備も大変ですからね。
方谷だからこそできたとも言えそうです。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大塩平八郎が反乱を起こし、結果として大坂が火の海と化しても誰もが大塩の悪口を言わなかったという事実が「知行合一」の大切さを間接的に証明していますね。
行動力あっての指導力とも言えそうです。