ところで、昨年(平成24年=2012年)末に誕生(たんじょう)した第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣による「アベノミクス」と呼(よ)ばれる一連の経済政策によって、打ち続く不況(ふきょう)からの脱却(だっきゃく)に期待が高まる昨今(さっこん)ですが、今から約160年前の幕末の頃(ころ)にも、10万両(現在の価値で約600億円)の借財(しゃくざい)を抱(かか)えて破産(はさん)寸前だった藩の財政を見事に立て直し、逆に10万両の蓄財(ちくざい)を成し遂(と)げたという驚(おどろ)くべき実績を持つ人物がいました。実は彼こそが山田方谷その人なのです。
備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)の財政再建を任(まか)された方谷は、20世紀の経済学者として名高(なだか)いケインズに先駆(さきが)けて積極的(せっきょくてき)な財政改革を行って充分過(じゅうぶんす)ぎる結果を残したのみならず、彼が編成した西洋風の兵学は幕末の雄(ゆう)である長州藩(ちょうしゅうはん)も参考にしたほどでした。
今回の講座では、山田方谷の生涯(しょうがい)と彼が遺(のこ)した数々の実績をたどりながら、現代のアベノミクスにもつながる財政改革とその神髄(しんずい)について詳(くわ)しく紹介(しょうかい)していきたいと思います。





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ぴーち おはようございます!
そうですよね!
何も、国の事情も違う外国の成功例を持ちだして、それを真似していこうとしなくとも、日本人が日本の復興の為に尽力した出来事を大いに参考にすべきだと思いますね。
確かにその時代、時代で多少なりとも
状況は変化しているでしょうけれど、
根底に流れている問題は、何時の時代も
変わらないと思います。
それをその時、その時代の経済の参考にしようとした時は、
時の権力者の応用力が問われるものとおもいますが・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
グローバル化の時代とはいえ、経済復興には昔の知恵を存分に活用しても何の問題もありません。
その意味でも今こそ山田方谷の改革に注目すべきだと思います。
そんな方谷を助けたのが学問でした。5歳の頃から朱子学(しゅしがく)や詩文を学んだ方谷は、わずか9歳の折(おり)に「将来は何になりたいか」と問われた際(さい)に、治国平天下(ちこくへいてんか)、すなわち「天下を治めるにはまず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」と答えたと伝えられています。
文政(ぶんせい)12年(=1825年)、21歳になった方谷は当時の備中松山藩主であった板倉勝職(いたくらかつつね)から俸禄(ほうろく)を与えられて京都や江戸へ出て学問に勤(いそ)しむ日々を過ごした後、やがては武士として取り立てられるようになり、父の悲願であった山田家再興を成し遂げました。
30歳になった天保(てんぽう)5年(=1834年)、方谷は江戸で随一(ずいいち)の儒学者(じゅがくしゃ)といわれた佐藤一斎(さとういっさい)の門下生(もんかせい)となり、同門の佐久間象山(さくましょうざん)と競(きそ)いながら陽明学を学びました。その後天保7(1836)年に故郷へ戻(もど)った方谷は藩校(はんこう)の有終館(ゆうしゅうかん)の学頭(がくとう、校長のこと)に任じられ、自らも「牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)」という私塾(しじゅく)を開いて藩士のみならず農民や女性にも学問を教えました。
そして嘉永(かえい)2年(=1849年)、45歳になった方谷は新藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)から藩の元締役(もとじめやく)と吟味役(ぎんみやく)に任じられ、藩政改革(はんせいかいかく)を断行(だんこう)することになるのです。





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ぴーち おはようございます!
人生の志を持つ時期は、若いうちに持つ事が最良だと思いますが、方谷氏はわずか5歳にして朱子学を学んで、9歳にして既に自分が進むべき指針が明確に答えられていたのですか。
まさに世に天才と呼ばれる人物が歩むべき道を進んで来られた人物だったんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり天才肌ですね。
その一方で若くして両親を亡くすなど、苦学の秀才という一面もありそうです。