明治天皇が大石らを顕彰されたのは徳川幕府が倒れてまだ日が浅く、東京の市民にいまだに幕府への敬慕(けいぼ)が色濃(いろこ)く残っていたことから、同じように市民に根強い人気があった忠臣蔵にあやかったのではという説もありますが、やはりここは「尊皇の士」であった大石らに対する「嘉賞」のお気持ちがお有りになられたと素直に拝察(はいさつ)すべきではないでしょうか。
忠臣蔵の「物語」は明治以後もますます磨(みが)きがかかり、やがて映画や小説の世界でも人気を博(はく)すようになりました。第二次世界大戦で我が国が敗戦した後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)によって一時は禁止されたもののやがて復活し、映画が全盛期(ぜんせいき)を迎えた昭和30年代には制作会社が競(きそ)って「忠臣蔵」を上映(じょうえい)したほか、昭和39(1964)年にはNHKの大河(たいが)ドラマで取り上げられるなど、TVドラマ化も進みました。
しかし、21世紀に入ってからは忠臣蔵の映像化が少なくなり、TVでもほとんど見られなくなっているのは残念な限りですが、その背景として「忠臣蔵は架空の話で正しくは元禄赤穂事件であり、また吉良は被害者でしかなく討ち入りは大石らによる『リンチ』に他ならない」という「間違ったイメージ」が存在するのであればとんでもないことではないでしょうか。





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晴雨堂ミカエル これまで浅野が刃傷に及んだ動機付けとして、手っ取り早く吉良の陰湿なイジメを持ち出しました。その次元の低い動機の方が残念ながら世間の納得が得やすい。
また浅野が逆上しなければならないほどの原因を作るために吉良を相応の悪者にしなければならない。せいぜい背景に旗本と大名の対立を出すぐらいでした。
大河ドラマでこれもタイトルを失念しましたが勘三郎が大石を演じた作品では、四千石の旗本でありながら十万石の国持大名並の官位を持つ吉良への風当たりの強さを描写していました。
私が推察するに、江戸で忠臣蔵を上演するにあたり、当時の幕府も吉良を悪者として切り捨てたので、情報操作や言論操作の高度な政治手法を使っている自覚はあまり無かったかもしれませんが歌舞伎を利用したと思っています。
近年になって、従来の忠臣蔵では黒田氏が冒頭で語ったような不自然な点が多々指摘されて、吉良と浅野が再評価されるとともに、尊皇の部分は数百年の間に忘れ去られ、あるいはタブーになったと思います。
戦後は尊皇はタブーですから。
ぴーち こんばんは!
世の中が落ち着かず、絶えず目まぐるしく
揺れ動いている時代には、人々は深く物事を突き詰めている余裕は無いので、単純に「勧善懲悪」的な物語がウケたのかも知れませんね。
現代の様に再び、平和な世の中が長く続くと、そこで再び、人々は事の真相を知りたがる傾向が強くなり、また求められるようになって来たのでは無いでしょうか。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにタブー視されている一面がありますね。
だとすればなおさらもっと真実を広める必要がありそうです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに時代によって感性が変わることがあるのかもしれませんね。
真相を求める好奇心は良いですが、現代の感覚だけでとらえることの危険性を表しているような思いがします。
吉良上野介による数々の「不敬」に耐えかねた浅野内匠頭は、すべてをなげうって刃傷に及ぶも果たせずに切腹しました。そんな主君の無念を分かっていたからこそ、大石内蔵助ら四十七士は苦労を重ねた末に吉良邸へ討ち入って上野介の首級を挙げ、その身を幕府に委ねることによって「尊皇vs.幕府」に決着をつけようとしました。
我が国の歴史上でも稀(まれ)にみる「尊皇の士」であり、また主君の仇を討った「忠義の士」であったからこそ、我が国民は大石らの「義挙(ぎきょ)」に共感し、浄瑠璃や歌舞伎などの世界で彼らをオマージュし続ける中で、独自(どくじ)の物語である「忠臣蔵」が完成したのです。
史実を追い求めることは決して間違いではありませんが、それと同時に歴史の大きな流れをつかめないと物事の「真実」は見えてきません。「元禄赤穂事件」という歴史的事実と「忠臣蔵」という名の物語に対しても、両者の間にはっきりと存在する「尊皇vs.幕府」という流れをしっかりと理解することで、私たちは日本人としてより深く忠臣蔵の世界に共感できるのではないでしょうか。
(※第34回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[3月5日]からは通常の更新[=昭和時代・戦前]に戻ります)





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ぴーち こんにちは!
確かに仰るとおりだと思いますね。
私はよく映画を鑑賞しますが、
監督によっては、同じ題材の作品を描いたとしてもそれぞれ内容が違って見える時があります。
片方の監督は、人間の心理的な部分を深く掘り下げて描いているので、より共感出来る作品に仕上がっているにも関わらず、片方の監督の作品は、何処か上滑りしていて、小手先だけ・・という事が手に取るように判る作品も存在します。
やはり、時間の流れというのは、現在過去未来と繋がっていて、そこから1つの事実を引き出しただけの話では、まるで刑事事件で被害者だけの意見を聞いて、裁判を終えてしまうという様な不条理な状態に似ていると思いました。
応援凸
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 分かりやすいたとえをありがとうございます。
仰るとおり、不条理な状態が続くことは何としても避けなければなりませんね。