討ち入りから4年後の宝永(ほうえい)3年(=1706年)には、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が赤穂事件を題材(だいざい)にした人形浄瑠璃「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」を書き上げて大坂(おおさか、現在の大阪)の竹本座(たけもとざ)にて上演(じょうえん)され、以後も浄瑠璃や歌舞伎の人気題材となりました。
そして、これらの流れの集大成(しゅうたいせい)となったのが、二代目竹田出雲(たけだいずも)らの合作(がっさく)で、奇(く)しくも刃傷事件から47年後の寛延(かんえん)元年(=1748年)に大坂で人形浄瑠璃として上演された「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」でした。
仮名手本忠臣蔵といえば浄瑠璃や歌舞伎などで現代にまで続く大ヒット作として有名ですが、その理由として日本人好みのドラマ性以外に「もう一つの隠されたメッセージ」があることを皆さんはご存知でしょうか。





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ぴーち こんにちは!
なるほど。
江戸の太平時代に突然起きた事件であったが故に
余計にこの話は大きく取り沙汰された訳だったんですね。
時代が後押しをしたという理由もあるんですね。
応援凸
オバrev いやいや驚きました。
まさに眼から鱗の元禄赤穂事件ですが、さらにこれが歪められた史実である忠臣蔵となるのに、まだ隠されたメッセージがあるとは(゜o゜;・・・歴史って、どこまでが事実でどこまでが作り事なのか分からないところがありますね。
裏で動く力によってプラスがマイナスにもなって歴史的事実として認識されているものがまだまだあるということでしょうね。
となると日本史も、再度論理的に様々な背景を検証して事実を突き止めるという、研究の余地がまだまだあるということですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当にインパクトのあった事件だったと思われます。
それだけに庶民の関心も高く、やがては仮名手本忠臣蔵として結実するわけですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 その通りです。
私たちは目の前にある事実だけで物事を考えがちですが、それだけでは真実の姿は見えてきません。
仮名手本忠臣蔵にもあっと驚くメッセージが隠されているのです。
その意味においては、日本史の研究はまだまだ道半ばだといえるでしょう。
当時は徳川幕府による封建社会(ほうけんしゃかい)であり、江戸時代の史実に基づく物語は上演を禁じられていたためにわざわざ太平記の世界を借りたのですが、仮名手本忠臣蔵には誰にでも「元禄赤穂事件の引き写し」と分かる様々な要素が散(ち)りばめられています。
例えば「仮名手本」は「いろは四十七文字」のことであり、討ち入った旧赤穂藩の四十七士と掛(か)けていますし、「忠臣蔵」は「忠臣大石内蔵助」からか、あるいは「蔵(くら)に一杯(いっぱい)になるほど多くの忠臣」という意味が込められています。
また高師直や塩谷判官高貞はそれぞれ実在の人物ですが、高師直は吉良の役職である「高家」を、塩谷判官は赤穂の名産である「塩」をそれぞれ掛けており、さらには判官の家老である大星由良之助の妻は「お石(いし)」であり、二人合わせて「大石」となります。
ただし、仮名手本忠臣蔵にはこれら以外にも「別のメッセージ」があります。それは物語のもっと奥深(おくふか)くに隠されており、またそのカギを握るのは仮名手本忠臣蔵がどこで初演されたのかということと、高師直の「官職名(かんしょくめい)」です。





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ぴーち こんにちは!
太平の世であったが故に
様々な文化が花開き、また、花開いただけにはとどまらずに、より深く物事を推測したり、
或いは小細工を施したり、そう言った細かな所にまで
発展させていくことが出来る世の中であった事が、悪く言わせていただくと、暇人が、余計な尾ひれや、
個人の思惑が介入する事で、より真実から遠のいてしまったのではないでしょうかね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もありますね。
確かに仮名手本忠臣蔵には作者が住んでいた地域の強烈な思い入れが隠されています。
詳しくは次回(1日)の更新をご覧ください。
大坂といえば元々は豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城(おおさかじょう)を建築したことなどで発展(はってん)しましたが、徳川家康(とくがわいえやす)によって豊臣家が滅(ほろ)ぼされた際に大坂は火の海となって多くの人々が殺されたり、あるいは捕まって身売りされたりするなど散々(さんざん)な目にあいました。
それらの「恨み」は時が流れて表面上は水に流しても心の奥底(おくそこ)では決して忘れることはなく、せめて架空(かくう)の世界でだけでも恨みを晴らしたい、という思いが募(つの)っていたそんな折に元禄赤穂事件が起きたのです。
元禄赤穂事件の背景に「尊皇vs.幕府」があったことを見抜いた大坂の浄瑠璃作者たちは、幕府の咎めを受けることなく何とかして舞台の上で浅野主従(しゅじゅう)の願いと自分たちの思いを果たすことができないかと考え、苦労の末に編(あ)み出したのが「仮名手本忠臣蔵」なのでした。
なぜそう言い切れるのでしょうか。それは、高師直の官職名が「武蔵守(むさしのかみ)」だからです。





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晴雨堂ミカエル 実は仮名手本忠臣蔵は子供の頃から興味がありました。
初めて観た「忠臣蔵」はNHK大河ドラマで、タイトルは失念しましたが石坂浩二が柳沢を演じた40年近く前の作品です。
ところがこの仮名手本は登場人物の名前が違う。登場する人物の多くは実在だが史実無茶苦茶、強引に元禄の忠臣蔵を南北朝時代に嵌め込んだ設定に面白い違和感を感じたものです。
中高生時代、私なりに調べた結果、ほぼ黒田氏と同様の見解に至りました。
しかし当時は「深読み過ぎる」「間違い」「七不思議の観すぎ」などと周囲から嘲笑を受けたものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大河ドラマは「元禄太平記」ですね。ネーミングが仮名手本忠臣蔵と対をなしています。
深読みしすぎですか…。まぁいろんな考えの人がおられますからね。
ぴーち こんばんは!
なるほど、関西の方はその頃からの恨みつらみを
忠臣蔵という願ってもない史実に重ね、そこから物語が大火の様に隅々まで広がったという事でしたか。
しかし
それによって、長年の恨みが無事晴れたのでしょうか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「恨みを晴らす」効果は確かにあったと思います。
ただ、その手法がいかにも日本人らしく手が込んでいるんですよね(^^ゞ
詳しくは次回(2日)の更新をご覧いただくことになりますが、いかにも「大人」のやり方だと思います。
つまり、江戸時代の人々にとって「武蔵守」とは「徳川将軍」を意味していたとともに、敵役(かたきやく)の「高武蔵守師直」が舞台の上で「死ぬ」ことによって「将軍家の死」を表現していたのです。だからこそ大坂の人々は、仮名手本忠臣蔵を旧赤穂藩へのオマージュ(敬意を表すためにつくられた作品のこと)とするとともに、舞台の上での「将軍殺し」に喝采(かっさい)を送ったのでした。
大評判(だいひょうばん)となった仮名手本忠臣蔵は程(ほど)なく江戸でも歌舞伎として上演されるようになりましたが、徳川将軍のお膝元(ひざもと)の江戸では「将軍殺し」は無視されて旧赤穂藩へのオマージュのみが強調され、年月が経つとともに「元禄赤穂事件のドラマ化」が進みました。
やがて徳川幕府が滅んで明治の御代(みよ)となり、実名を出すタブーがなくなった頃には元禄赤穂事件は「忠臣蔵」という日本人好みの物語として発展を遂げただけでなく、天皇による「お墨付(すみつ)き」まで賜(たまわ)るようになったのです。





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ぴーち こんにちは!
江戸時代の様に、他の国との接触が無かった時代だからこそ、日本国内で一度勃発した対立やら戦やらは、いつまでも人々に遺恨して、何かあればその恨みを晴らさんと息巻いていたのでしょうね。
現代の様に、外国との盛んな接触がある時代では、同じ国内で言い争いや、紛争などを起こしていれば、それこそ、外国から攻め込まれるチャンスとみなされてしまうので、それどころでは
ありませんがね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに仰るとおりですね。
国内が平和であったからこその対立なのかもしれません。
幕末においても最終的には天皇の名のもとに中央集権国家が紆余曲折を経て建設されていますからね。外国であれば内乱状態が続いてここまでたどり着くことはないでしょう。