江戸時代初期の学者であった山鹿素行も初めは朱子学を学んでいましたが、時が経(た)つにつれて朱子学に疑問を抱(いだ)くようになり、寛文(かんぶん)5年(=1665年)に「聖教要録(せいきょうようろく)」を著(あらわ)しました。
聖教要録は武士道とは何かを説(と)き明かしたものでしたが、その中で朱子学を批判(ひはん)したために幕府の怒(いか)りを買い、翌寛文6(1666)年に、以前に家臣として仕(つか)えていた「ある藩」へ流罪(るざい)となりました。
実は、その藩こそが赤穂藩であり、当時の藩主は浅野内匠頭長矩の祖父(そふ)にあたる浅野長直(あさのながなお)でした。赤穂藩では山鹿素行を流人(るにん)ではなく師(し)として迎(むか)え、素行は藩士たちに学問を教えることになったのですが、その中に幼(おさな)き日の大石内蔵助義雄がいたのです。





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ぴーち こんにちは!
と、このお話の流れからすると
大石内蔵助は藩主である浅野内匠頭の仇討ちというよりも、
恩師である山鹿氏の為に何かできないものかと
子供の頃から心にいつも秘めていた・・という事でしょうかね。
たまたま、浅野内匠頭が失態を犯した事をチャンス到来と捉え、幕府に立ち向かって行った・・大石内蔵助の真意はそうだったかも知れないという事ですか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、それも一理ありますね。
今後の展開で大石の考えを明らかにしていきたいと思いますが、忠義の精神も息づいていたことは間違いないと思われます。
そして、その日本の中心として存在するのが「万世一系(ばんせいいっけい)の皇室(こうしつ)」であり、神代(かみよ)以来絶(た)えることなく続く皇室こそが我が国の国体(こくたい、国家としての体制のこと)かつ中心であるという皇室尊崇論(こうしつそんすうろん)を説きました。
そんな山鹿素行の教えを熱心に学んだ赤穂藩が「尊皇(そんのう)の藩」となり、また当時の藩主長直の孫(まご)である浅野内匠頭長矩や若くして素行の薫陶(くんとう)を受けた大石内蔵助義雄らが「尊皇の士」となったのはむしろ当然だったのです。
では、もう一方の吉良上野介義央はどうだったのでしょうか。
吉良家は足利幕府(あしかがばくふ)以来の名家(めいか)でしたが、江戸時代になって徳川幕府に高家(こうけ)として取り立てられ、幕府の儀典(ぎてん)関係を取り仕切る家として存続(そんぞく)しました。つまり、吉良家は「幕府大事」の家柄(いえがら)であり、上野介義央自身も徳川幕府のために高家の身分を利用して「暗躍(あんやく)」することになるのです。





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ぴーち こんにちは!
やはり吉良上野介も何かしらの暗躍行為があったのですね。
何かしらそうした不穏な動きがあったからこそ、
そのしっぺ返しが思わぬ所から起こったのかもしれませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、吉良上野介は「ある不穏な動き」をします。
詳しくは次回(20日)に紹介しますが、当時の政治体制がよくあらわれた話ですね。
井上真太郎 お久しぶりです。ブログ凄い人気ですね。毎日の更新がすごいなーと思います。教師としても頑張ってらっしゃるみたいで。健康に気をつけて引き続き頑張ってください!
井上真太郎さんへ
黒田裕樹 これはどうもお久しぶりです。
ブログを開設してもうすぐ丸4年ですが、毎日更新を心がけて走り続けたらここまで来てしまいました。
今後も歩みを止めることなく頑張ります。
オバrev なるほど~、さすが大阪人の黒田先生。
見事に突っ込んでますね・・・えっ?ボケとツッコミの突っ込みとは違う^^;
それにしても浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかからざるを得なかった背景があったんでしょうね・・・この流れからいくと(?o?)
歴史は、やはりそれを動かす力によって必然的にその方向に動いていくもんだなと思います。その背景を探っていかないと真実は見えてこないかもしれませんね。
次の記事が楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 いえいえ、突っ込みは大阪人の生命ですから(笑)。
仰るとおり、今後は吉良と浅野に隠された背景を探っていくことになります。
ご期待ください!
この事実一つだけでも天皇に対する幕府の姿勢(しせい)が分かるようなものですが、やがて幕府は天皇の譲位(じょうい)にまで口を挟(はさ)むようになりました。例えば、承応(じょうおう)3年11月(1655年1月)に18歳で即位(そくい)された後西天皇(ごさいてんのう)は若くして非常に英邁(えいまい、人格や才知が特別に優れていること)なお方(かた)でしたが、優秀な天皇の存在は朝廷を統制したい幕府にとっては都合の悪いことでした。
そこで、後西天皇のご在位時に伊勢神宮(いせじんぐう)や京都御所(きょうとごしょ)、あるいは江戸で大火事が相次いだ(特に江戸の火事は「明暦(めいれき)の大火」として有名です)ことから、「災害(さいがい)が多いのは天皇の徳が足りないからだ」という理由で寛文3(1663)年に強引に後西天皇を退位(たいい)させ、わずか10歳の霊元天皇(れいげんてんのう)を即位させました。
実は、この折(おり)に朝廷に対して退位の工作を行った人物こそが若き日の吉良上野介義央であり、後に彼はこの功績によって従四位(じゅしい)に昇進しています。
なお、京都御所は寛文元(1661)年に炎上(えんじょう)しましたが、その後の修復(しゅうふく)を幕府から命じられたのが赤穂藩主の浅野長直でした。長直は当時赤穂城(あこうじょう)を新築中でしたが、天守閣(てんしゅかく)の建造を断念(だんねん)までして御所を見事に再建(さいけん)しています。





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ぴーち こんにちは!
そうですよね。
己の野望を達成する為には、いかなる事にも
首を突っ込んで、理不尽な理由をこじつけては
相手を失脚させようとしますね。
けれど、一度はそれで成功したと思われる事でも、天知る 地知る 我知る 人知るではありませんが、必ずや後に痛い目に遭わされるものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、野望実現のためには人間は手段を選びません。
ただ、それゆえに当人も同じ報いを受けることになります。
吉良上野介の場合も、その背後にいる勢力も同じなんですよね。
これらの事実や歴史の流れから分かるように、浅野家は「尊皇」、吉良家は「幕府大事」と当時の国家意識がまるで「水と油」のように全く異(こと)なっていました。そして運命のいたずらか、両家が勅使饗応役並びにその指南役として勅使下向(げこう)の接待を担当(たんとう)することになってしまったのです。
実は、両家の組み合わせは天和(てんな)3年(=1683年)に一度あり、この時は浅野内匠頭長矩が無事に饗応役を務(つと)め上げましたが、当時の長矩は17歳と若かったため、吉良上野介義央の言いなりにならざるを得なかったと考えられます。
そもそも「尊皇」の浅野家からすれば、勅語奉答の儀式以外の勅使の席次(せきじ)は将軍よりも上座(かみざ)であるべきですが、「幕府大事」の吉良家からすれば将軍家が上座となるのが当然でした。それ以外にも勅使以外の席次や料理を出す順序、あるいはお部屋の位置に至(いた)るまで、両者の意見がことごとく対立するのは目に見えていました。
饗応役と指南役との意見が異なれば、指南役の考えが優先されるのが常(つね)ではありましたが、二度目の饗応役となった元禄14年は長矩も35歳の堂々たる大名(だいみょう)です。その心中(しんちゅう)はさぞかし無念であり、持病の「痞」も悪化して錯乱状態となり、ついに刃傷に及んでしまった、という考えも成り立ちそうですが、私はそれだけではないと思っております。
殿中での刃傷は本人の切腹はもちろん藩は取り潰(つぶ)しとなり、多くの家臣が路頭(ろとう)に迷(まよ)うという一大事です。それが分かっていながら刃傷に及び、しかも脇差で斬り付けるというまるで錯乱したような激(はげ)しい怒りを呼んだ「ある出来事」が両者の間にあったとは考えられないでしょうか。





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ぴーち おはようございます!
まずは、33万ヒットおめでとうございます♪
「ある出来事」とは一体・・・?
また、後ほどお邪魔させていただきますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
「ある出来事」。
これを検証するために、まずは今日(2月22日)にふさわしい内容の更新をすることになります。ご期待ください!