しかし、余(あま)りに急速に近代化したことによって、我が国では西洋文化を重視(じゅうし)する一方で従来(じゅうらい)の伝統や文化を顧(かえり)みない風潮(ふうちょう)が見られるようになり、当時の大きな問題となっていました。
また、この傾向は教育界においても同様(どうよう)であり、特に道徳教育の基礎(きそ)を何に置くかという根本的(こんぽんてき)な問題について一致(いっち)した見解がなかったため、我が国伝統の倫理(りんり)や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。
これらの事態(じたい)を重く受け止められた明治天皇は、井上毅と元田永孚(もとだながさね)に起草(きそう、案文を作ること)させ、天皇ご自身も熱心にお考えを示されたうえで、明治23(1890)年10月30日に「教育ニ関スル勅語」(通称:教育勅語)を発せられました。





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ぴーち おはようございます!
この当時では、教育勅語というしっかりとした指針が定められたお陰で、日本人古来の道徳心が守られたのでしょうけれど、現代の様に、ある特異な教育方針のお陰?で、道徳の時間も削られてしまう様な有様では、日本人たる意識は勿論、風紀が乱れて来るのは当然の事なのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってその通りだと思います。
このような教育体制はいい加減に変革しなければなりません。
今回の総選挙がそのきっかけになってくれればよいのですが。
ぴーち おはようございます!
今回また政権奪還に成功したのだから、過去に自分たちが蒔いた不名誉な教育制度のタネを刈り取る意味でも、名誉挽回する為のチャンスだと思いますので、心を入れ変えて教育の方の改革にも着手していただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私も同感です。
政権交代はある意味チャンスでもあり、教育改革を成し遂げることは大きな意義があると思います。
なお、教育勅語は明治天皇が親しく国民に発せられたお言葉として御名(ぎょめい、公文書における天皇ご自身による署名のこと)だけが記され、国務大臣(こくむだいじん)の署名は副署(ふくしょ)されませんでした。
勅語は当時の国民世論から大いに歓迎(かんげい)され、小学校修身科(しゅうしんか)の教科書に掲載(けいさい)されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど多くの児童(じどう)や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したほか、英・独・仏・中の各国語に翻訳(ほんやく)され、海外にも広く紹介(しょうかい)されました。
ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ」などの部分が軍部を中心に特に強調されるようになりましたが、これは勅語本来の精神とは全く別の問題であると解釈(かいしゃく)できます。
なぜなら、勅語が発せられた明治23年といえば国民の間でもようやく「幕府や藩への忠誠心」から「国家への忠誠心」へと明らかに変化した時期であり、それを踏まえて「これからは国の元首たる天皇の下で国家の繁栄(はんえい)のために力を尽(つ)くしなさい」という意味が勅語において伝統的で古風(こふう)な手法で述(の)べられているからです。





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晴雨堂ミカエル 善行から出発したものでも、それを悪用する者が必ず現れます。悪用されたからといって、善行そのものまで否定されてしまうのは世の常です。
これは教育勅語に限ったことではなく、生類憐れみの令しかり、後世は民主主義や人権も対象となるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますが、だからこそ私たちは事の本質を見抜いて「ならぬものはならぬ」という精神を身に着ける必要があります。
相手の意見に唯々諾々と流される国民ばかりでは、その国はいずれ滅びることでしょう。
ぴーち 昭和に入ってからの軍部は破竹の勢いだったのですね。利用できるものはなんでも利用する。排除したいものは徹底的に弾圧する。悪く言えば、国を自由に操り、好き放題に仕切る事が出来た「癌」の様な存在に今更ながら、思えてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちは私も理解できますし、戦後になって軍部がその様に判断されてしまうことも致し方ないかもしれません。
ただ、一方的にレッテル貼りをするだけではなく、それならそれで「なぜ軍部はそこまで追いつめられていたのか。本来軍部を抑えるべき政治は何をやっていたのか」ということも同時に考える必要があると思います。
戦前の歴史については来年に取り上げますので、その時に改めて一つの判断を下したいと思います。
おっ、来年に取り上げるとなれば・・。
晴雨堂ミカエル 二月に2・26事件を中心に取り上げるおつもりですね。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 来年2月は時期的に通史がまだ追いつかない可能性が高いです。
どの事件をいつ取り上げるかは当方で決めさせていただきます。
教育勅語しかり、軍人勅諭しかり、
てぃん 日本近代史の矜持として見直すべき、ステートメントだと感じます。
難しく考えるのではなく、その内容に先入観なく触れれば、素直にそう“感じる”のです。
既存の解釈や思想的バイアスを取り除いて、素直な歴史認識を教示くださる黒田先生の講座は、今の時代、特に必要だと応援申しあげます。
てぃんさんへ
黒田裕樹 応援くださり有難うございます。
ご高説、誠に仰るとおりです。
今後とも素直な歴史認識を心がけて講座を続けてまいりますので、どうぞよろしくお願いします。
教育勅語
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、教育勅語は、素晴らしいですし、復活させるべきだと思いますが
ただ、一つだけ引っ掛かる点があります。
それは、漢文であるということです。
漢文だと
① 内容がわかりにくい。(子供に)
② 中国の文化が入っている気がする。
中国の史記で、教育勅語のような漢文で、皇帝が部下に命令したり、部下が皇帝に進言したりする内容をよく、観たので、
個人的には、漢文調は、どうも抵抗があります。
平成の『教育勅語』は、現代語訳のものにしたほうがイイと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る気持ちはよく分かりますが、漢文の素養は幼少の頃から身につければ十分理解できます。
そのような教育をしてこなかったことに問題があるのです。
現代語訳も必要とは思いますが、漢文も同時に理解したいものですね。
ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止(はいし)」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬(ふけい)」以外の何物(なにもの)でもありません。
事実、教育勅語は一部の幼稚園(ようちえん)などの教育機関において今もなお暗唱(あんしょう)されており、健全な青少年の育成において重要な役割を果たし続けています。
占領下(せんりょうか)という異常な事態においてGHQによって無理やり「排除・失効」させられたという現実を考えれば、独立を回復して半世紀以上も経(た)つ現在において国会で排除・失効決議を「無効化」して教育勅語を「復活」させ、勅語が再(ふたた)び私たちの日常生活に欠かせない存在となることに何の問題があるというのでしょうか。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月16日更新分「教育勅語に込められた陛下の願い その1」~今回更新分「教育勅語に込められた陛下の願い その3」をまとめて映像化したものです。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、教育勅語はGHQによって排除されてしまったのですか・・。
けれど我が国に天皇がいらっしゃる限り、勅語は無くなってしまった訳ではなく、また復活する事も可能であるという訳なんですね。
それら思うとアメリカの占領下という足かせは今もずっと続いていると言う事実を嫌というほど、思い知らされます。。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、GHQが排除したからと言って我が国がいつまでもそれに従う理由などありません。
占領状態から回復して60年も経つのですから、教育勅語の復活を阻むものは本来は何もないはずなのです。
オバrev 教育勅語に関してはかなり誤解もあり、本来の意味が理解されていない・・・と言うか私もよく理解していませんが・・・という点をしっかり加味して、ぜひ復活させて欲しいですね。
本来の歴史と意味が理解されれば、国民の多くは賛成するんじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
GHQがなぜ教育勅語を廃止させたのか、あるいは教育勅語の復活を阻む勢力の本質がどこにあるのかを考えれば、おのずと一本の大きな筋が見えてきます。
もうそろそろ悪しき慣習を断ち切り、美徳ある我が国を再構築しなければならないでしょう。
改革の時間
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、いつも思うのですが、
この明治天皇の教育勅語が日本の道徳教育に
果たした役割は、非常に大きいと思います。
ただ、それが浸透するまで、ある程度の時間が
要したと思います。
なぜなら、自虐教育を受けた期間があまりにも
長く、その教育を受けた世代があまりにも、多いからです。(戦後65年間)
そう考えると、
今の日本において、現政権も教育改革(経済改革、外交改革など)さまざまな改革をするにしても、その芽がでるまで
ある程度の時間がかかると思います。
そう考えると、
今から、始めないと、それが芽を出すのは
さらに、遅くなります。
現代の日本の国民は、手品や魔法のように、政治家の力で、明日、スグに芽が出ると思いすぎのような気がします。
マスコミのマッチポンプのような偏向報道がそれを助長していると思いますが。。
やはり
有能な政治家がある程度の期間、じっくりと
腰を据えてしないと教育改革・道徳改革の芽がでませんね。(他の改革も同様ですが)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
来るべき新政権を長期化させようと思うのであれば、目先の政策に一喜一憂するのではなく、叱咤激励はあっても後ろから鉄砲を撃つこともなく、長い目で見守り続ける必要があるでしょう。