明治15(1882)年、憲法制定の作業を本格的(ほんかくてき)に開始した明治政府は伊藤博文(いとうひろぶみ)をヨーロッパへ派遣(はけん)して憲法の研究を命じ、伊藤は最終的に当時のドイツ帝国の母体(ぼたい)となった旧プロイセン王国の憲法が我が国の国情(こくじょう)に照らして一番相応しいとの結論を得て帰国しました。
こうした事実から「明治憲法は外国の憲法の引き写しだ」という印象(いんしょう)が歴史教育などにおいて強くなっているようですが、実際に伊藤がベルリン大学教授(きょうじゅ)のグナイストやウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは「日本の憲法は自国の歴史や伝統(でんとう)に立脚(りっきゃく)したものでなければならない」というものでした。
帰国した伊藤は井上毅(いのうえこわし)が作成した憲法草案(そうあん、下書きや原案のこと)をもとに井上らと検討作業(けんとうさぎょう)を行いましたが、その草案の第1条では「日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇ノ治(しら)ス所(ところ)ナリ」と書かれていました。
「治ス」とは「お知りになる=公平に治める」という意味であり、天皇による統治(とうち)行為を示した大和言葉(やまとことば)でした。条文(じょうぶん)そのものは最終的に「統治ス」に変更されましたが、明治憲法が決して外国の憲法の模倣(もほう)ではなく、第1条から我が国の国体(こくたい、国家としての体制のこと)を明確に意識(いしき)していたことを示したエピソードであるといえるでしょう。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
明治憲法を考えるとまさに、
芸術ですね。というのも
① ヨーロッパの最先端の憲法を取り入れている。
② それを、日本流にカスタマイズしている。
(日本の天皇制を融合させている。)
これは、現代の感覚からすると、当たり前のように感じますが、ヨーロッパの王族と日本の天皇とは、全く、違うものなので、それを実現するのは
至難の技です。
グナイストやウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは「日本の憲法は自国の歴史や伝統(でんとう)に立脚(りっきゃく)したものでなければならない」というアドバイスがなかったら
実現しなかったかもしれませんね。
※ 最先端の憲法でありながら、大和言葉まで
入れるとは、まさに芸術的な憲法です。
これは、個人的な意見ですが
明治憲法をカスタマイズした新憲法の制定が
今の日本に必要だと思います。
RALLY NEW WAVE こんにちは。不適切な発言であればご容赦を下さい。
選挙戦たけなわですね!!皆さんは今回の選挙どの様なご判断をなされてられますか。
私なりには今回の選挙、開国か鎖国かの国民投票(知ってなくとも)と思っています。
TPP参加=開国、TPP不参加=鎖国とも言えるのではないでしょうか。
民主自民とさわがれていますが、問題視する所この一点!開国か鎖国かの判断であるという事を是非考えて下さい!!
宜しくお願いを致します。頑張りましょう!!
有難う御座いました。
青田さんへ
黒田裕樹 その通りですね。
新憲法の制定に関しては明治憲法の存在を無視することは絶対にできないでしょう。
RALLY NEW WAVEさんへ
黒田裕樹 貴殿のご意見に関してのコメントは控えさせていただきますが、今回は掲載を許可しました。
ただ、今後の掲載については検討を重ねてまいりたいと思います。
ぴーち おはようございます!
批判するのは簡単ではありますが、
実際にわざわざ欧州に出向いて、色々な文献を調査し、更に日本の現状と照らしあわせながら微調整していった過程をこうして考えると、並々ならぬ苦労があったことに気付かされます。
口で言うのは容易いですが、実際に行動し
実現する事の大切さを見習いたいものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
こういった実行力や行動力こそ見習わないといけませんし、事情を知れば上っ面だけの批判ができるとは到底思えません。
伊藤らが完成させた憲法草案は、明治21(1888)年に創設(そうせつ)された天皇の最高諮問機関(しもんきかん、諮問は「意見を求める」という意味)である枢密院(すうみついん)で天皇ご臨席(りんせき)のもとで審議(しんぎ)されましたが、実は明治天皇はそれ以前から憲法に関する本格的な講義を受けておられました。
先述(せんじゅつ)のとおり、伊藤はシュタイン教授から憲法学について学んでいましたが、その内容に感激(かんげき)した伊藤はシュタインの憲法学を明治天皇にも是非(ぜひ)学んでいただきたいと考え、シュタインを我が国に招(まね)こうとしましたが、高齢(こうれい)を理由に固辞(こじ)されてしまいました。
そこで伊藤は、明治天皇の侍従(じじゅう、天皇のそばに仕える人のこと)でご学友(がくゆう)でもあった藤波言忠(ふじなみことただ)を天皇の名代(みょうだい、ある人の代わりをつとめること)としてウィーンに派遣してシュタインから直接憲法学の講義を受けさせ、その内容を明治天皇にご進講(しんこう)申し上げることにしました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
なるほど、何事もやはり下準備というは必要ですし、またその準備がなされていたからこそ、スムーズに事が成し遂げられたという訳ですね!
浮かんできたものだけを見るのではなく、前後で起きている事実を視野に入れないと間違った判断をしてしまいますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
憲法制定へ向けての下準備は一朝一夕ではなく、明治天皇ご自身も深くかかわっておられます。
この後も私たちは明治天皇の憲法に関するご認識の深さを理解することになります。
侍従であるとともにご学友だった藤波に対して心を許された明治天皇は講義を熱心にお聞きになり、お分かりにならなかったところはご下問(かもん)されるなど、シュタインの憲法学を懸命(けんめい)に勉強なさいました。
そして明治21年4月、このように憲法について徹底的(てっていてき)に勉学を重(かさ)ねられた明治天皇のもとに憲法の草案が捧呈(ほうてい、敬意を示して手でささげ持ち差し上げること)され、枢密院での審議にかけられることになりましたが、その開院式の行事をめぐって大きな事件が起きてしまいました。
開院式を前日に控(ひか)えた5月7日、枢密院の議長であった伊藤博文が開院式の勅語案(ちょくごあん、勅語とは天皇によるお言葉のこと)を宮内大臣(くないだいじん)を通じて差し上げたところ、明治天皇は激怒(げきど)なさり、次のように仰(おっしゃ)られました。
「勅語の下賜(かし、天皇が臣下に物を与えること)は極めて重大(じゅうだい)であるのに、博文(=伊藤)はなぜ自分でこれを奏上(そうじょう、天皇に申し上げること)しないのか。前日になって突然奏上して朕(ちん)にそのまま朗読させるとは何事か。博文がかくも不誠実(ふせいじつ)な態度をとるのであれば、朕は明日の開院式には臨(のぞ)みたくない。勅語の案文は博文に突き返しなさい」。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
全く無知の分野を9ヶ月もの間懸命に学び、それを天皇へ伝えた藤波の功績に心打たれますね。
こうした影の努力があってこその憲法だったのだと思うと、改めて頭が下がる思いがしました。
それにしても、伊藤博文には何か策略があったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、藤波氏の影の努力は大いに称賛されるべきかと思われます。
伊藤の場合は「憲法を作ってきたのは自分だ」という考えが、直後を手渡すだけでしかも他人に任せるという傲慢な態度につながったのではないでしょうか。
天皇の憲法への強いご関心はそれだけではありませんでした。枢密院での審議は明治21年5月から翌明治22年1月までの8ヵ月間に49回行われましたが、明治天皇はその審議にほとんど出席されました。
審議において天皇は一言も発せられませんでしたが、それはご自身のご発言で審議における自由な言論が妨(さまた)げられることを好まれなかったため、敢(あ)えて一切(いっさい)の発言を控えられたからでした。
先述したように、明治天皇は事前に憲法学を究(きわ)められたことで審議の内容を詳(くわ)しく理解されており、また終了後には毎回のように議長の伊藤や草案をつくった井上毅をお呼びになって疑義(ぎぎ、疑問に思われる点のこと)のある内容を確認されたそうです。
枢密院における憲法審議の中心的ご存在として毎回出席され、その内容をすべて理解されておられた天皇の御前(ごぜん)でしたから、伊藤と始めとする枢密院の顧問官(こもんかん)らは常(つね)に緊張感(きんちょうかん)を持って審議せざるを得ず、それらが完成した憲法における権威や正当性を自然と高める結果につながったことは言うまでもありません。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
今日のお話で、明治天皇に日本人としての
本来のあるべき姿を見たように感じました!
例えば、世界へ出ていくにしても、英語を流暢に使いこなせるのは確かに良いことかも知れませんが、多くを語りすぎる事でフレンドリーな印象は与えても、信頼や頼もしさ、或いは威圧感という
意味ではかけ離れてしまうと思います。
何も語らずとも、そこに存在しているだけで
周囲に与える重々しさ・・勿論、そういう雰囲気を周囲に与える人格そのものも、中身の濃い人生を歩んで来たからこそ、醸し出せる印象なのだと思いますが、心の安定、平常心を養う為にも、常に勉学に励み、軽率な言葉を発しないように努力していきたいものだと、改めて感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
明治天皇のご姿勢が、私たちに日本人としての重要な何かを示してくださっておられるような思いがします。
そこまでの重責を感じておられたからこそ、明治天皇は枢密院での審議にほとんど出席を続けられました。長い審議の間も天皇は肘掛(ひじか)け椅子(いす)にじっとお座(すわ)りになり、背中を椅子の背に寄り掛からせることも、姿勢を崩(くず)されることもありませんでした。
さらには審議中のある日に天皇の第四皇子の昭宮猷仁親王(あきのみやみちひとしんのう)が薨去(こうきょ)されたという悲報(ひほう)が届いた際にも、伊藤による審議中止の進言に耳を貸されず、何事もなかったかのように審議がそのまま続行されました。
明治憲法の制定は、単なる「外国の真似(まね)をしてつくられた憲法」ではなく、我が国の伝統や文化に根差(ねざ)すとともに明治天皇による重大なお覚悟によって「君主が国民に下(くだ)された」欽定憲法という国家の一大事業だったのであり、それは明治天皇ご自身による後年(こうねん)の御製からも明らかでした。
「さだめたる 国のおきては いにしへの 聖(ひじり)のきみの み声(こえ)なりけり」(明治43年=1910年)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
そうですか・・
今日のお話を伺い、明治天皇の意志の固さを
改めて感じました。
一国の行く末を左右する大事な決め事ですから、
やはりそれくらいの慎重と緊張感を持って
挑まないと一寸先の未来のことさえも、想像出来ませんものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
明治天皇のご意志の固さに私たちは感謝してもしきれないですね。
もちろんそれは正解ではありません。明治憲法によって示された立憲君主制は、皇室をいただく我が国の伝統的な政治文化と、西洋を起源とする国家の基本法である憲法を中心とする政治体制とを調和させただけなのです。
神話の時代をさかのぼれば2670年以上も前から我が国にご存在され続けておられる歴代の天皇の皆様(みなさま)におかれましては、古代にこそ政治の実権をお持ちになられた方もおられましたが、時代が下るにつれ幕府の誕生などによって天皇お自らが権力を行使されることはなくなり、時の権力者をして天皇の権威によって政治を行わせしめる手法(しゅほう)が定着しました。
すなわち、我が国では「天皇は政治的責任を持たない」という形式が伝統であったところへ、西洋の政治体制の根幹(こんかん)をなす基本法として成文化(せいぶんか)されたのが明治憲法であり、これは我が国が得意とする「他の文化を我が国に根差した伝統と融合(ゆうごう)させて独自(どくじ)の新たな文化をつくりだす」という流れに沿(そ)ったものでした。
ただ、このようにして完成した明治憲法ではありましたが、そもそも法律であったがゆえにその内容には道徳(どうとく)に関する規定がありませんでした。折しも憲法制定当時は急激(きゅうげき)な近代化によって我が国の歴史や伝統が軽視(けいし)される傾向(けいこう)にあり、そのことを深く憂慮(ゆうりょ)された明治天皇は、大日本帝国憲法と並んで日本人の精神の拠(よ)り所(どころ)となった教育勅語(きょういくちょくご)を発表されるご決意をなさったのです。
※以下のニコニコ動画は平成24年12月10日更新分「明治天皇と立憲君主制 その1」~今回更新分「明治天皇と立憲君主制 その6」をまとめて映像化したものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
確かに、新鮮な空気を入れる事となると
国内の様相はたちまち、外からの色に染まって
行きますが、それまで長年培われて来た大切なものまで失われてしまう危険がありますものね。
変わって貰いたい所はどんどん変化を求めても、変わらないで貰いたい部分はしっかりと伝承していかなければ、風化するばかりですものね。
しっかりとした法の元ではそれになりに自由を謳歌出来ますが、法律が無い世の中は
返って不自由に感じるものです。
そういう意味では、明治天皇の教育勅語という決断は現代も見習うべき素晴らしい提案だったのだと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
教育勅語の意義については次回(16日)からの更新で明らかにしていきますのでよろしくお願いいたします。
教育勅語を失った現代
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
明治時代の人間は、現代よりもはるかに
貧しく、困難がありました。
それなのに、現代人は
・ うつ病100万人。
・ 自殺者数毎年3万人。
・ 幼児虐待数の増加。
があります。明治時代よりも、はるかに豊かで
はるかに便利になっているのに。。。
これは、私は、GHQが、日本人の精神性を壊すために教育勅語を廃止したことが大きいと思います。
アメリカの目論見通り
豊かなのに、ストレスに弱い日本人が出来上がったわけですから、
そう考えると、新政権がどんな政策を立てようと
世の中に順風満帆はなく、山あり、谷ありなので、教育勅語を復活させないと、このまま
ストレスに弱い日本人だと乗り越えられませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
教育勅語の復活が堂々と叫ばれる体制に持っていくには国民の熱意はもちろん、政治的な力も大きいと思われます。