この頃、隋の皇帝(こうてい)は二代目の煬帝(ようだい)が務(つと)めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿(きゅうでん)に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険(けわ)しくなり、ついには顔を真っ赤にして叫(さけ)びました。
「何だ、この失礼な物言(ものい)いは!」
煬帝のあまりの怒(いか)りぶりに隋の外交官たちが震(ふる)え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼(すず)しい顔をしていました。
「こんな無礼(ぶれい)で野蛮(やばん)な書は、今後は自分に見せるな!」
さて、煬帝をここまで怒(おこ)らせた国書は以下の内容で始まっていました。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無きや(つつがなきや=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうちどの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか?





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
以前にも確か黒田さんから学ばせてさせていただいたことがありました!!
天子と名乗った所だったと記憶しております^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えてくださっていて有難うございます(^ω^)
詳しくは次回(18日)の更新で明らかにしますね。
それは「天子」という言葉です。天子とは中国では皇帝、我が国では天皇を意味する君主(くんしゅ)の称号(しょうごう)ですが、煬帝は自国よりも格下(かくした)である(と思っていた)我が国がこの言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。なぜなら、中国の考えでは「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
今から2200年以上前に中国大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一(ゆいいつ)の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗り、後にこれが慣例(かんれい)となって中国大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。
そしてこの構図(こうず)はやがて大陸周辺の諸外国にも強制させることになり、我が国においても中国皇帝の臣下(しんか)となって許してもらうようにお願いするという朝貢外交(ちょうこうがいこう)を行わざるを得なくなったのですが、独立国である我が国、そして朝廷にとってこんな屈辱的(くつじょくてき)な話はありません。
聖徳太子は中国大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、これまでとは違(ちが)う態度(たいど)によって、すなわち「『皇帝→天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨(のぞ)む姿勢を「天子」という言葉に示したのでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
-
ぴーち おはようございます!
聖徳太子とあろう方がわざわざ
相手国の怒りを買うような言葉を
投げ掛けたのは、どういうものかと
思いましたら、そこには太子の思惑が
込められていたわけですね。
何もかも承知の上での意図的な戦略。
その後の展開も楽しみです♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子は何もかも承知のうえで思惑があって「天子」という言葉を使用しています。
そのあたりの詳しい事情についてはこれから説明していきますね。
オバrev この自分が一番偉い!という認識のDNAが中国には引き継がれているんじゃないでしょうか?
現在の傲慢な態度をみると、長い歴史に培われた価値観のような気がしますけど(;・∀・)
オバrevさんへ
黒田裕樹 根底にあるのが「中華思想」ですからね。
「自分こそ一番だ!」という発想そのものですが、逆に言えばそう思わないとやってられなかったのかもしれません。
一方、隋と激しく戦った末(すえ)に一度は追い払(はら)うことに成功した高句麗でしたが、いつまた隋が攻め寄せてくるかわかりません。そこで、高句麗は隋に勝ったにもかかわらずその後もひたすら低姿勢を貫(つらぬ)き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けました。
隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実(こうじつ)を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を無視したあまりにも無謀(むぼう)な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋には我が国へ攻め寄せる余裕が実は全くといっていいほどなかったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
超大国の煬帝を怒らせても、こちらの要求を相手に
100%認めさせた聖徳太子の外交手腕は、何度聴いても、爽快ですね。
この内容は、非常にタイムリーだと感じます。
今の日本の政治家にこの動画を見せたい気持ちになりました。
ぴーち おはようございます!
互いの立ち位置が対等であることが
外交をする上では基本的な条件だと
思います。
太子の戦略の一つとして
相手のいかりのツボをわざと啄いて
どれだけの度量が備わっているのか、相手の出方を推し量ってみたのかも知れませんね。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
現代の政治家のほとんどは真似ができないのではないでしょうか。
それにしても、意識したわけではないのになぜかタイムリーな講座になってしまいます(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰る一面はありますね。
煬帝の怒りがどのあたりからくるのか、これも検証する価値がありそうです。
そんな状況のなかで無理をして我が国へ攻め込んで、もし失敗すれば国家の存亡(そんぼう)にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、何よりも我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが煬帝には大きな足かせになっていました。
それに加え、隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃(はんげき)する可能性も十分に考えられますから、そうなればいかに大国隋といえども苦しい戦いになることは目に見えていました。
つまり、隋が我が国を攻めようにもリスクがあまりにも高すぎるためにできないのです。従って、国書の受け取りを拒否(きょひ)して我が国と敵対関係になるという選択(せんたく)は不可能でした。だとすれば我が国からの国書を黙って受け取るしか方法がありませんが、その行為は我が国が隋と対等外交を結ぶことを事実上認めることを意味していたのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
蘇我氏のお話でもそうですが、
ここでもがっちりとガードを固めて
絶対安全だということを確信してからの
大勝負に打って出たという所でしょうか^^
常に冷静な判断を心がけていると
きっと、機が熟した頃合いも見分けられるのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ここでもがっちりとガードを固めて
> 絶対安全だということを確信してからの
> 大勝負に打って出たという所でしょうか^^
さすがに鋭いですね。
今後の展開で明らかになります。
> 常に冷静な判断を心がけていると
> きっと、機が熟した頃合いも見分けられるのでしょうね。
仰るとおり、冷静さを見失うと見えるものも見えなくなってしまいますからね。
煬帝も中国の皇帝が務まるほどですから決して愚(おろ)かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。
さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と小野妹子が隋からの正式な返書を紛失(ふんしつ)してしまったのです。外交官が国書を失(な)くすという信じられないミスに大あわてとなった朝廷でしたが、本来なら死罪(しざい)になってもおかしくなかった妹子は結局軽い罪(つみ)に問われたのみで、すぐに許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳(きび)しく(例えば同じ天子と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩(くのう)を以心伝心(いしんでんしん、考えていることが言葉を使わないでも互いにわかること)で察(さっ)したからかもしれません。
さて、煬帝からの返書とは別に裴世清が我が国からの歓待(かんたい)を受けた際(さい)に送ったとされる国書が我が国の歴史書である日本書紀(にほんしょき)に遺(のこ)されていますが、その内容は従来の中国の諸外国に対する態度とは全く異(こと)なるものでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev まさに聖徳太子名人による王手に煬帝王将が詰んでいることを確認して、参ったと言って投了した感じでしょうか?
それは悔しかったでしょうね^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 上手な例え方ですね(^^♪
まさにそのとおりです。悔しさも倍増といったところでしょうか。
ぴーち おはようございます!
太子は自分が送った書状を煬帝が激怒することを
ちゃんと見込んでいて、その返答がどんな
ものであったかもしっかりと把握していたのでしょうね。
そして、妹子が返書を無くしたのは、太子への忠誠心が高い現れだと見抜いて、見逃したのでしょう。太子の予想する範囲には妹子が返書を無くす事は想定外では無かった事で、むしろ、自分の命に変えても太子を悲しませまいとする妹子の覚悟が太子の胸を打ったのかも知れませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
小野妹子の太子への忠誠心は、そのまま我が国の国益にもつながるものでした。
だからこそ彼が許されるとともに、我が国の恥辱を闇に葬ったのだといえます。
「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く人民を治め、国内は安楽(あんらく)で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。
朝貢外交にありがちな高圧的(こうあつてき)な文言(もんごん)が見られないばかりか、丁寧(ていねい)な文面(ぶんめん)で我が国を褒(ほ)める内容にもなっていますね。
この国書が意味することは非常に重要です。つまり、聖徳太子のように終始ぶれることなく対等外交を進めたように、国の支配者が相手国に対して主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負(じふ)する隋であっても、まともに応じてくれることを示しているのです。
一方、隋からの激しい攻撃をはね返しながらも朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられるが、皇帝たる自分にそのような面倒をかけるな」と一方的に突(つ)き放した内容の国書を送りつけています。悲しいかな、これも歴史の真実なんですよね。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
晴雨堂ミカエル 小中学生時代に授業で習った事に納得できなかった要素をまさに黒田氏は解説してくれました。
聖徳太子の政治手腕を評価しない授業内容で、隋に対する「不遜な国書」にしても、エピソードを並べるだけ。教師は国際社会音痴の行動、たまたま隋の皇帝が「骨のある奴」と思ったから難を逃れた、という解釈でした。乱暴な解釈と思ったものです。
ただ当時は教師と生徒の関係であり、私には教師に反論できるだけの資料を持っていませんでした。すべては私の解釈でしたから。
隋が日本を攻めなかった理由。
晴雨堂ミカエル 付け加えると、隋は後に唐にとって変わられたように、内政基盤はけっして磐石ではありません。
しかも伝統的に北方や西域の遊牧民との紛争が慢性的に続いており、常に軍隊を万里の長城などに張り付かせておかねばなりません。
高句麗は隋から見れば北方蛮族、しかもまとまった国家で武力も強い。高句麗遠征での出費は莫大。朝貢してきても、いつ裏切るか判らない。
軍費に頭を痛めている隋にとっても、対等外交をしかけた日本は少なくとも今は敵にならないし、顔を立ててやれば逆に隋の味方になるかもしれない計算があったのではないか。
これは私の推測ですが日中両国の外交官が現場で示しあわせて、非公式に日本をたてる事で丸く収めたのではないかと思います。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。
聖徳太子の凄みがよく分かりますね。
ぴーち おはようございます!
聖徳太子と隋の斐世清とのやり取りとは別に
人は基本的に誠意があり、且つはっきりとした態度でしかも明確な意見を申し出た相手の意見には
こちらも真摯な態度で接しなければならないという本能的な気持ちが誰氏も芽生えるものだと思います。
逆に煮え切らなく的を得ない、のらりくらりとした、下手に出るような態度で話を持ちかけられたら、
その相手にはこちらも適当にあしらうしか無いと判断する事でしょう。
自信ある態度を示し、堂々と意見を述べるという直球勝負も外交には特に重要な要素だと思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのとおりですね。
煮え切らない態度は相手にも自分にも何の得もないようです。
外交での直球勝負は重要ですね。
一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は以下のように書かれていました。
「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
我が国が皇帝の文字を避(さ)けることで隋の立場に配慮(はいりょ)しつつも、それに勝るとも劣(おと)らない称号である「天皇」を使用することで、両国が対等な立場であるという方針を変更しないという断固(だんこ)たる決意を示したのでした。ちなみに、この国書が「天皇」という称号が使われた始まりとされています(ただし、異説もあり)。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
なるほど!天皇という言葉が聖徳太子が初めて
使われた言葉であり、苦肉の策から生まれた
言葉でもあった訳ですね。異説とはどんな説なのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子の苦心の策が現代にもつながる称号を誕生させたということですね。
異説としては、聖徳太子より後の時代の天武天皇の頃につくられたというのがあります。
オバrev 言葉で伝えるのと違い、文書にするということは証拠としてしっかり残るりますから、一字一字が非常に重要になりますよね。
短い一文でも、練りに練った重みのある珠玉の言葉が並んでいるように思えます(^o^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子の知恵の結晶がちりばめられた名文だと思います。
現代の政治家にここまでの外交ができる人が存在するでしょうか…。
そして、聖徳太子による対等外交の方針は、それまでの中国による冊封体制(さくほうたいせい)から脱却(だっきゃく)するきっかけとなり、我が国に自主独立の精神と独自の文化を生み出すきっかけにもなったのです。その意味においても、外交面において聖徳太子が我が国に残した功績(こうせき)は極(きわ)めて大きなものがありました。
ところで、我が国の伝統的な思想として「至誠は天に通じる」といった、ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする考えがありますが、そういったやり方は国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用しないということが、聖徳太子と高句麗とに対する隋の態度の大きな違いを見ればよく分かりますね。
我々日本人には、かねてより清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく後ろ暗いところのないこと)を好む風潮(ふうちょう)があり、それ自体は非常に重要なことではありますが、対外的には通用しないどころか逆に利用されてしまうという危険性すらあるのです。聖徳太子と高句麗との外交姿勢の大きな違いは、現代に生きる私たちに大きな教訓を残しているといえるでしょう。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
仰るとおり、同じ国民同士の間では諍い無く
円滑に生活していこうという知恵の中で生まれた
思いやり精神も、
常にそれが生かされるという訳ではありませんよね。
相手の理不尽な要求、或いは暴力的な態度、言葉に対して、それを容認するかの様な低姿勢な態度では、相手はそれが良いものだと勘違いし、益々エスカレートさせる原因にもなり兼ねません。
相手の善悪をこちらが正しく判断し、相手のペースに流される事なく、己というものをしっかり失わないように常にブレない判断でいることが、例えどんなに力が無い存在であっても、相手にとっては脅威になる存在であると思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
生き馬の目を抜く国際社会では日本式な交流は通用しません。
絶対ぶれずに相手に脅威を与える手法で十分だと思います。
はじめまして
大和草 拙ブログで「政治家に肝に銘じていただきたい地政学上の名言」をアップしたばかりです。
聖徳太子はその時代にすべて網羅した外交を行っていたのですね。
是非こちらの記事を転載させてください。
宜しくお願いいたします。
大和草さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問並びにお言葉ありがとうございます。
拙文が貴ブログのお役に立てれば光栄ですし、また事前のお伺いのお言葉に感謝します。
どうぞ転載なさってください。