本来ならばその類稀(たぐいまれ)なる武力で周囲を畏怖(いふ)させ君臨(くんりん)する幕府と将軍であるはずなのに、なぜこのような無惨(むざん)な結果に終わってしまったのでしょうか。その理由として真っ先に考えられるのは、やはり創設者の足利尊氏による「優柔不断」であると断言(だんげん)できます。
尊氏が幕府を開いたのは京都でしたが、本来ならば武家の本拠地である鎌倉で政治を行うことを本人も希望していたはずです。しかし、彼の優柔不断が結果として南朝を存続させてしまったため、万が一に備えて軍事力を確保するため京都を離(はな)れることができなくなりました。
南朝の存在はその後も室町幕府を悩(なや)ませるとともに、その対策として3代将軍の足利義満や6代将軍の足利義教が強引な政治を行ったため、二人とも無念の死を遂げることになってしまったのです。





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オバrev 確かに名ばかりの将軍が続いた足利将軍ですが、それでも弱いながらも15代続いたのが不思議でなりません。
本来なら遠の昔に滅ぼされて新たな将軍が誕生していても良かったんじゃないでしょうか。
それができななったのは、地方を抑えこむシステムができていたためか、国民の不満がそこまで高まらなかったのか、海外からの侵略がなかったためか、どうなんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、不思議な話ですよね。
海外からの侵略が明らかになったのは秀吉の時代ですから、その点では確かに恵まれていたといえます。
それ以外の理由としては、次回(23日)で明らかにしたいと思います。
河童工房('◇')」 義満の勘合貿易(当時のシナへの朝貢貿易)
はこう言う背景があって行われていたんだなと。
このことでシナ皇帝から日王と認められた云々という話も合わせて。
すっきり!しました。
ぴーち おはようございます!
何でもそうですね。
基礎の部分が軟弱だと上に積み重ねた
ものは、直ぐに傾き始めてしまいますね(^_^;)
土台がしっかりしていてこそ、上に積み上げた
ものも安定する。
何でも最初が肝心なのでしょうね。
応援凸
河童工房さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義満は室町幕府の地位を高めるために外国を利用したとも言えます。
それがやがて自分自身の権力を高めるためにもなったのですが、こうした手法は外国に付け入るすきを与えますから好ましくはないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最初が肝心です。
だからこそ後述の「活かしきった男」につながるんですよね。
しかも、権力を失った幕府に曲がりなりにも「権威」が残っていたため、将軍は時の権力者の「傀儡」として利用されるだけ利用され、逆(さか)らったり不要となったりすればたちまち「使い捨て」として処分されるという悲哀(ひあい)を味わうようになってしまったのです。
初期の対応を誤(あやま)れば、それこそ何百年も失敗を重ねることになる―。室町幕府の存在は後世(こうせい)の人間にとてつもなく大きな「教訓」を示してくれたことになりますが、歴史の大きな流れは、その教訓を徹底(てってい)して活用することで逆に260年以上もの長い間政権を担当(たんとう)し続けた「ある組織(そしき)」をこの世に送り出しました。
その組織とはもちろん、徳川家康(とくがわいえやす)が創設した江戸幕府(えどばくふ)のことです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここで、思う事は、
江戸幕府が当たり前の標準として、
(時代劇を見慣れていて。。)
つい考えてしまいますが、
江戸幕府が、世界史レベルでも、驚異で、特別だったと思います。
というのも、世界の国で、260年間、国内で戦争らしい戦争が、起こらない政治組織というのは
ほとんど奇跡です。
しかも、江戸幕府の15代将軍で、暗殺された将軍は、一人もいません。
実際、江戸時代の260年間の間にヨーロッパでは、革命が起こり、アメリカも独立戦争を起こしています。
そう考えると、鎌倉幕府のように源氏の直系が三代で終わり(暗殺)、宮将軍を迎えたり、
室町幕府のように将軍が暗殺されて、内乱が起こるのが世界常識のような気がします。
余談ですが、やはり、こういう芸当は、徳川家康でしか出来ないことだったんでしょうね。
(私の大嫌いな血も涙もなく、人の心もない徳川家康でしか。。。)(●^o^●)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
家康の平和のための非道(?)ぶりについては、次回(24日)以後の更新で明らかにしていきます。
ぴーち おはようございます!
バブル期の好景気の最中に倒産した近くのある会社が
ありましたが、その理由が社長の社員に対する気前の良さ故に社員に食い倒されてしまったと聞いた話を思い出しました。確かにその時期、少し働いただけでお金がどんどんと懐に入って来た今では夢の様な時代でもありましたが、その勢いに任せて全て使い果たしてしまった様です。
組織を束ねる役目のものは、確かに度量の広さや、優しさはある程度必要かも知れませんが、気前の良さだけは必要最低限に留めておくべきことだと改めて思いますね。(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、バブル期の倒産には仰るような一面があったんですね。
気前の良さは他人には魅力的ですが、何の計算もなくやってしまうようでは先が見えていますね。
1600年に関ヶ原(せきがはら)の戦いで豊臣家家臣の石田三成(いしだみつなり)を破った家康は、やがて戦いから10年以上が経過して豊臣家恩顧(おんこ)の大名が次々と死亡すると、豊臣家によって再建された京都の方広寺(ほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)に刻(きざ)まれた「君臣豊楽(くんしんほうらく)」「国家安康(こっかあんこう)」という文字が「豊臣家の繁栄(はんえい)を願う一方で家康の名を二つに割って呪(のろ)いをかけている」と非難しました。
この事件がきっかけで1614年にいわゆる「大坂の役(えき)」が始まり、翌1615年に大坂城(おおさかじょう)が落城(らくじょう)して豊臣秀頼(とよとみひでより)と母親の淀殿(よどどの)が自害(じがい)しましたが、家康はさらに秀頼の子で8歳になる男子を探し出し、彼を捕らえると首をはねて豊臣家を完全に滅亡させました。
結果だけ見れば言いがかりをつけただけでなく、幼い子であっても処刑(しょけい)するといった容赦ない家康の手法に非難が集中しそうですが、かつて尊氏が南朝に情けをかけたがゆえに吉野に逃げられ、その結果として南北朝の動乱が半世紀以上も続いたという過去の歴史を振(ふ)り返れば、徳川家による安定した政権を維持するためにはむしろ当然の選択だったといえるのです。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
秀頼の8歳の子供を殺したのは、まさしく、室町幕府の教訓を活かしていますね。
というのも、
室町幕府では、出家した将軍の子供を成人後
将軍に担ぎだす勢力が出てきて、
権力闘争が激化しました。
さらに、徳川家康は、吾妻鏡が愛読書なので
これって、源頼朝が、静御前が生んだ源義経の赤子を殺したことからも学んだのかもしれませんね。
理屈では、本当に正しいとは、思いますが
そこまで、出来ないのが、ほとんどの人間です。
それを、遂行するとは、さすがに徳川家康です。
(相当、非情な心がないと出来ないですね。)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり極めて非情ですが、そこまでやらないと天下が長続きしないのが歴史に学んだ家康には分かっていましたからね。
だからこそ家康が嫌われるんですが…。
オバrev なかなか家康のように非情になれないトップが多いのが現状じゃないでしょうか。
かく言う私もそうなんですけど(^^ゞ
でもそれじゃぁ長くは続かないですね。
私のところも1代で終わりそう(・_・;)
ここまで非常になれた要因はいったいなんでしょうか。生まれ育った環境なのか、歴史をよく学んでいたからなのか、支えてくれる重臣が優秀で、家康もそれを受け入れたからなのか、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もここまで非情にはとてもなれそうにありません(^^ゞ
原因としては、幼い頃から今川家の人質に取られて自身や松平家の家臣が地獄の思いを味わったことや、その今川家が豊かだったことで子供の頃から歴史書を読むことが出来て自然と知識を身に着けたこと、そして徳川四天王や本多正信など猛将・智将に恵まれたことが挙げられるでしょうね。
つまりはオバrevさんのご推察どおりと言うことです(^^♪
ぴーち おはようございます!
世界に目を転じても国を支配し続けている独裁的な人物はいますが、いづれの独裁者も、非情際なりない性格であることが伺えます。民衆からは当然恐れられ、時には民衆からクーデターが起こり、暗殺される独裁者もいますし、他国から襲われ、処罰される人も・・。
家康もこの様な非情な性格である事を十分ご存知である方は、家康を目の敵に思う事でしょうけれど、彼はそこまで民衆から批難されたり、暗殺を企てられたりという事実を伺った事がありません。勿論、私がそれを知らないだけの事なのかも知れませんが、例えばそれが事実であるとしたら、家康にはその他の多大な功績がその非情さを打ち消しているということなのでしょうか・・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 家康が評価されるのは、結果として徳川260年の平和がもたらされたことでしょう。何しろそれまでは「何でもあり」の戦国時代が100年以上も続いていたのですから。
他に考えられるとすれば家康を神様(=権現)と仰がせたり、主君に絶対の忠誠を誓う朱子学を導入したりしたことも挙げられますが、やはり平和の実現が大きいと思います。
ではなぜ平和を実現できたのでしょうか?
その辺についてはもう少し掘り下げる必要がありそうです。
江戸時代の大名は徳川家の縁戚(えんせき)に当たる親藩(しんぱん)と、関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)、そして関ヶ原以後に徳川家に臣従(しんじゅう)した外様(とざま)とに大きく分かれており、これらのうち江戸幕府の政治の中心となって活躍した大名の多くは譜代でしたが、彼らの領地はそのほとんどが多くても10万石前後に留(とど)まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりに財力として広大な領地を与えたのです。室町幕府の失敗の教訓を生かした「大名の権力と財力との分散」によって、家康は大名の統治(とうち)に成功したのでした。
家康はこの他にも幕府安泰(あんたい)のために様々な対策を行ったことで、徳川幕府260年の基礎(きそ)を完全に築(きず)き上げました。失敗だらけだった「室町幕府の教訓」が、後世の人間が「歴史に学ぶ」ことによって見事に活(い)かされる結果となったのです。





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晴雨堂ミカエル 権威の配分も絶妙ですね。
豊臣政権では摂関家のモノだった摂政関白を豊臣家で世襲をはかり、五大老をはじめ有力大名を次々と公卿にしました。
これによって朝廷側はポスト不足になって公家たちは穏やかではなかったはずです。
徳川政権では、あくまで公卿は将軍と将軍後継候補になる可能性がある一門のみ。
利家の代は大納言だった大藩前田家は御三家に準ずる待遇を与えるが、滅多に三位に叙勲させず(しかし外様の前田家だけはたまに三位にするところが憎らしい)、武家政権に意味ある大納言などの中央官から遠ざけました。
家来筋はたとえ大藩の前田家であっても、大老を多く輩出した彦根の井伊家でも公卿にさせない明確な線引き。
徳川家の権威を保持する一方で摂関家や公家の権威には障らず京に押し込める。
将軍家は征夷大将軍と右大将で兵馬を束ね、三公を兼任することで国政権を掌握する法的根拠をつくる。
家康ら幕府の構想は、権力・経済・権威のバランス感覚に優れています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康はバランス感覚に優れていますね。
苦労人にしかできない芸当であるともいえます。
ぴーち おはようございます!
そうですか・・。
家康が非情に振舞ったのは、豊臣家を滅亡させる事だけであり、その後の世の中を平和に安定させた事は庶民にとっては大きな功績であり、有難い存在であった訳ですね。
本当に庶民から恨まれ、憎まれる存在とは
庶民を苦しめ,無理難題を押し付ける様な悪政を行い、自分に抵抗するものは容赦なく切り捨てたり、拷問したりと非人道的な事を繰り返す人物の事ですものね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、結果を見ればありがたい存在だったわけです。
経緯はともかく、結果が良ければ人間は満足するものですからね。
一番厄介なのはむしろその逆で、甘言を弄して国民を苦しめる政治かもしれません…って、あれ?