しかし、義尚は1489年に25歳の若さで子のないまま死亡してしまい、義視の子の足利義材(あしかがよしき)が後継者として1490年に10代将軍となりました。
義材は義視の子であり、また義視は富子と激(はげ)しく対立して応仁の乱が起こったのですから、義材の将軍就任によって富子は当然のように権力を失ったと誰しもが思いますよね。ところが実際にはそうはなりませんでした。
なぜなら、義材の母(=義視の妻)が富子の実の妹だったからです。応仁の乱のはるか以前にかけていた「保険」によって富子の権力は温存されるとともに、夫と子を失ったことで富子は蓄財と権力の保持にますます力を入れるようになりました。





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オバrev 日野富子って凄いですね(*_*;
義政と富子の立場が入れ替わっていたら室町幕府も安泰だったんじゃないでしょうか?
それにしても日本史的にはあまり陽の目をみないこの時代ですが、失敗が重なった反面教師的観点から色々学ぶべき事が多いかもしれません。
ぴーち おはようございます!
保険ですか(苦笑)
やはりその時は無駄な事だと思っていても
後々それがどんな形で助けられるかわかりませんものね。
私も違う意味で、今高い保険料を支払い中です(笑)
それが無意味なことか、或いは後々生きてくるかはわかりませんが・・(^^ゞ
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに入れ替わった方が良かったかもしれませんね(^^ゞ
仰るとおり地味な時代ではありますが、学ぶべきことは多いと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに「保険」をかけていた方が何かと生きてくることが多いですかなね。
たとえ無意味で終わったとしてもそのメリットは大きいと思います。
それに加えて、義材は自分を将軍にしてくれた「恩人」でもある日野富子と次第に距離(きょり)を置くようになっていたため、義材に対する富子の不満も高まっていました。
そんな折の1493年、義材は守護大名の畠山氏を討伐するために河内(かわち、現在の大阪府北東部)へ遠征すると、その隙をついて京都で政元と富子がクーデターを起こし、義政の異母兄(いぼけい)で初代堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(あしかがまさとも)の子である足利義澄(あしかがよしずみ)を新たに11代将軍に立てました。
無理やり将軍職を追われた義材は失意(しつい)のうちに越中(えっちゅう、現在の富山県)へ逃(のが)れ、また1496年に富子が亡くなったため、以後の幕府の政治の実権は政元が握ることになりました。これを当時の年号から明応の政変(めいおうのせいへん)といいます。
明応の政変は、室町幕府の将軍が時の権力者たる臣下(しんか)の思惑(おもわく)によって簡単に交代させられてしまうという事実を世に示したことを意味していました。室町将軍の地位が単なる「権威」に過ぎず、臣下が将軍を必要としなければそれこそ「使い捨て」のように処分(しょぶん)されてしまうという冷徹(れいてつ)な現実がはっきりしたことから、この時期こそが戦国時代の始まりにふさわしいという説もあります。





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ぴーち おはようございます!
義材は何故に富子との距離を取ろうとしたのでしょうか・・?
日野富子の余りにも強い野心に恐れをなしたとか?(苦笑)
それに使い捨てですか・・
現代も直ぐに国民からポイ捨てされる
首相ばかり・・・。
外国から見ると日本のこういう体質は異常であると評価されるようですが、勿論、日本人からみても余りにも目まぐるしくトップが変わる現状というのは、好ましいものでないと思います。
しかし、こうして伺っていると昔の日本も今となんら代わり映えのしない事をしていたのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義材が富子を嫌ったのは仰るとおりだと思います。
政治のみならず、将軍の一挙手一投足にまでいちいち口出しされてはたまったものではなかったでしょう。
確かに我が国の首相は「使い捨て」のイメージが大きいですね。
強いリーダーシップは嫌われる傾向にあるのかもしれませんが…。
1507年、政元は不意を突かれて暗殺されました。これを当時の年号から永正の錯乱(えいしょうのさくらん)といいます。政元が殺されたことで細川氏の間で激しい対立が繰り返され、やがて細川氏そのものが没落(ぼつらく)していくことになりますが、没落した人物はもう一人いました。それは将軍の義澄です。
義澄は政元と対立しつつも主従関係(しゅじゅうかんけい)を維持(いじ)し続けていたのですが、政元暗殺後に守護大名の大内義興(おおうちよしおき)が新たな将軍後継者を擁立(ようりつ)して上洛(じょうらく)すると近江(おうみ、現在の滋賀県)に逃れ、翌1508年には将軍職を辞めさせられました。
大内の推挙(すいきょ)で将軍に就任したのは足利義尹(あしかがよしただ)でしたが、実は彼こそが1493年に将軍を廃位(はいい)された義材その人だったのです。歴史上稀(まれ)に見る「将軍返り咲(ざ)き」を果たした義尹はその後1513年に「義稙(よしたね)」と改名しましたが、1518年に大内が領地に帰国して後ろ盾(だて)を失うと、政元の養子であった細川高国(ほそかわたかくに)によって1521年に将軍の地位を再び追われ、その後寂(さび)しく生涯を閉じました。





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晴雨堂ミカエル 大河ドラマでは、細川勝元の時代は「花の乱」、政元の時代は「毛利元就」の前半にあたります。
足利将軍代々の写実的な彫刻が残されていますが、この頃の将軍は顔つきが貧相ですね。
政元ほどの超大物が独身というのは解せませんね。嫌でも子作りさせられるのに。
当時の武家や公家は男色が普通にありましたから。松永弾正や信長は有名ですし、今年の大河で有名になった悪左府や時代は下って浅野内匠頭などなど。
大内家。
晴雨堂ミカエル 大内義興は三位の左京大夫、幕府の役職は管領代。
天下に号令できるポジションにいながら10年程度で領国が不安になって京を手放しています。
信長のシステムが確立していない時代では京の家賃は高かったんでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 政元は女人禁制の修験道に没頭していたために生涯独身でした。男色の噂もありますね。
大内の頃は信長のような領国経営のシステムがなかったですからね。過度期には様々な問題が起きるものです。
ぴーち おはようございます!
将軍職に返り咲くというのは、非常に稀なケースだったのですね。それでもやはり力量の無い人物は、何度チャンスを貰っても結局力不足で終わってしまうものなのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、せっかく将軍に返り咲いたとしても自己の力量がなければ結局は一緒なんですよね。
権力へのこだわりの姿も最後には滑稽に見えてしまうところが哀れでもあります。
そんな経緯(けいい)で将軍になった義晴ですが、約25年もの間地位を維持し続けたものの、最後には細川氏の内紛をきっかけに将軍職を子の足利義輝(あしかがよしてる)に譲りました。
その後、細川氏が内紛を繰り返す間に実力をつけた家臣の三好長慶(みよしながよし)によって13代将軍の義輝は傀儡(かいらい、自分の意志や主義を表さず他人の言いなりに動いて利用されている者のこと)となりましたが、義輝は諸大名の抗争(こうそう)の調停を行うなど徐々(じょじょ)に政治的手腕を発揮(はっき)し、幕府権力の復活に努めました。
しかし、こうした義輝の動きを疎(うと)ましく思った三好氏の家臣の松永久秀(まつながひさひで)らが1565年に謀反(むほん)を起こすと、義輝は奮戦(ふんせん)むなしく無念の最期(さいご)を遂(と)げました。これを当時の年号から永禄の変(えいろくのへん)といいます。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
いよいよ、松永久秀が登場ですね。
◆ 将軍殺しの悪役であり、
(足利義輝は、かなり、優秀で、上杉謙信も
後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎になりました。)
◆ 戦国時代きっての謀略家であり、
◆ 茶人として、文化人であり
◆ 領民からは、慕われた名君であり、
以前、ある本に
『織田信長の天才性』を見抜いた人間が
2人だけいたそうです。
その2人とは
『徳川家康』と『松永久秀』です。
秀才は、天才になれないですが、天才を見抜くことは、できるから不思議です。
松永久秀だけで、本が一冊書けそうですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
「三好家乗っ取り」「東大寺焼却」「将軍暗殺」の三悪事は久秀を象徴する出来事と言われています。
これ以上は関連外になるので止めますが、戦国時代屈指の梟雄であることは間違いありません。
名将軍だった足利義輝
青田です。 足利義輝は、本当に優秀ですね、生まれる時期さえ間違わなければ
名将軍になれたと思います。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力しています。
◆ 伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、
◆ 武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、
◆ 島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、
◆ 毛利元就と大友宗麟(同6年(1563年))、
◆ 上杉輝虎と北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))など、
さらに懐柔策として
◆ 大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、
◆ 三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許し
◆ さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、
毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名を与えています。
ここまでのことをしていて、足利義輝が暗殺されるということは
権威だけは、もの凄い力は、あるのに
現実の力は、皆無だったということですね。
個人的に足利義輝は、よく、頑張ったと思います。
本当に残念です。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、現実の実力と将軍の形ばかりの権威とが余りにもかけ離れていたことが義輝の悲劇につながったと思います。
ぴーち おはようございます!
義輝は幼い頃からずっと内紛の様子を目の当たりにしてきて、その中で色々と政治的な手腕の元になるようなヒントを学んで行ったのでしょうかね・・。
他人の言いなりになり行動していながらも、自分の考えというをしっかりと心に秘め、機が熟すのを待ち望んでいたのかも知れませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義輝は学習能力を持つなどかなり優秀だった一面があります。
ただ、残念なことに機が熟す前に滅ぼされてしまいました…。
剣豪将軍。
晴雨堂ミカエル 義輝は剣豪としても名高い人ですね。
最期はコレクションの銘刀を並べて奮戦、折れたら次の太刀といった具合。
松永勢はなかなかしとめられず、数人がかりで襖で押さえつけて殺ったらしいですな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 その話は私も聞いたことがあります。
「衆寡敵せず」とは彼のためにある言葉ですね。
その間に義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長(おだのぶなが)によって上洛を果たすと、久秀が信長に降伏(こうふく)して同1568年10月に義昭が新たに15代将軍となりました。なお、将軍を追われた義栄は失意のうちに間(ま)もなく亡くなっています。
義昭は自分を将軍にしてくれた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍(ふくしょうぐん)になるよう勧(すす)めましたが、信長はいずれも辞退して、代わりに堺(さかい)を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。
地位や名誉(めいよ)を欲しがらない信長の意外な行動を周囲は不思議に感じましたが、いわゆる「名よりも実を取った」信長の行為の裏(うら)には彼によるしたたかな計算があったのです。





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ぴーち おはようございます!
いよいよここで信長の話が登場ですね!
どんなしたたかな野望がこの当時の信長には
あったのでしょうか・・興味があります。
続きを楽しみにしています♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、室町幕府の末期でついいに信長が登場しました。
彼と幕府との関わりが結果として室町将軍の幕引きになるわけですが、そのあたりは次回(21日)の更新をぜひご確認ください。
足利義昭の能力
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この織田信長に目を付けた足利義昭は、凄いと思います。
というのも、
それまで、将軍の権威を利用しようと後ろ盾になったのは、
名門の大名だったのに、この当時の織田信長は、
京都から、離れた身分も低い
美濃、尾張を統治する単なる田舎大名です。
しかも、織田信長が凄いのは、京都に入っても
一切の略奪行為を禁止して、京都の治安維持に努めたことです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義昭は決して凡人ではありません。
信長包囲網は信玄さえ死ななければ完成していた可能性もありますから。
しかしながら、義昭は稀代の天才である信長と同時代であったというのが不運すぎましたね。
それが時の流れの選択でもあったのでしょうけれども。
信長包囲網
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
信長包囲網について、第一次信長包囲網、
第二次信長包囲網を創りましたが、
ドラマでは、信長が困難を勇断に乗り切り、
足利義昭は、最後まで、愚かな無能将軍のように
描かれますが、
信長包囲網の時、織田信長は、非常に気が弱くなっていました。
その当時の手紙でも
『気が弱い内容ばかりです。』
織田信長の能力は、認めますが、運も良かったですね。
これは、歴史のifですが、もし、織田信長がいなければ、足利義昭の力で、室町幕府は、延命したかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 今回は信長ではなく室町幕府の講座ですので筋違いの話になりますが、仰るとおりかと思います。
いくら戦国の世とはいえ主君に対する謀反というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響(えいきょう)を及(およ)ぼすのは避(さ)けられません。だからこそ信長は義昭の誘いを断り、その代わりに最大の貿易港の一つであった堺を抑えるために和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫(あっぱく)するようになっていきました。やがて信長の本意を悟(さと)った義昭は激怒し、信長を倒すべく様々な作戦を練(ね)り始めました。
後の世に「信長包囲網(のぶながほういもう)」と名付けられた義昭の行動によって一時は信長を追いつめたものの、頼りにしていた武田信玄(たけだしんげん)の急死もあって結局は失敗に終わりました。ところが、信玄の死を知らなかった義昭は、もはや起こり得ない信玄の上洛を信じて居住(きょじゅう)していた将軍御所(しょうぐんごしょ)で挙兵しましたが、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。
諦(あきら)め切れない義昭はこの後もう一度挙兵しますが敗れ、1573年旧暦7月に義昭が信長によって京都を追われたことで、235年続いた足利氏による室町幕府は事実上滅亡(めつぼう)しました。時代は信長による新しい秩序(ちつじょ)に向けて着実に進んでおり、足利将軍はもはや必要とされなくなっていたのです。





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晴雨堂ミカエル 後に信長は右大将や右大臣に任ぜられますが、それ以降は左大臣任官を断り、太政大臣や征夷大将軍の内定も断ったそうで、おまけに京で騎馬軍団の軍事パレード。
正親町帝や公家たちは肝を冷やした事でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 今回は室町幕府の話で信長は直接関係ありませんので簡潔に記しますが、仰る一面は確かにありますね。
皇室をないがしろにする様に見えたことが後に様々な憶測を呼ぶことになりました。
ぴーち おはようございます!
なるほど!
信玄の死を義昭は知らなかった事で、情勢は一気に傾いてしまった訳ですか。。。
今とは違い情報の伝達も遅く、またその信ぴょう性も薄い時代の話でしょうからね。
情報をいち早く、正確に捉えて判断することは今も昔も情勢に打ち勝つ最たる手段なのでしょうね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、情報収集の能力は今も昔も必須ですね。
それを含め、かなりの能力を備えていた信長による新しい秩序を中心に世の中が動き始めたのも時代の流れとして当然だったのかもしれません。