義教の後を継(つ)いだ7代将軍の足利義勝(あしかがよしかつ)は就任時わずか9歳でしたから自(みずか)ら政治ができるはずもなく、しかも翌年に急死してしまい、その後は弟の足利義政(あしかがよしまさ)が8歳で8代将軍となりました。
就任した当初の義政は祖父(そふ)の足利義満(あしかがよしみつ)や父の義教にならって将軍権力の復活を図(はか)り、永享の乱(えいきょうのらん)の後に鎌倉公方(かまくらくぼう)となった足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏(うえすぎし)との内紛(ないふん)にも積極的(せっきょくてき)に関わりました。なお、1454年に始まった成氏と上杉氏との争いを、当時の年号から享徳の乱(きょうとくのらん)といいます。
しかし、義政の妻である日野富子(ひのとみこ)や妻の実家の日野氏、あるいは有力な守護大名らが次々と政治に介入(かいにゅう)したことで、いつしか義政は政治への関心を失って贅沢(ぜいたく)な暮(く)らしを始めたため、将軍としての人望(じんぼう)を失ってしまいました。
政治への興味(きょうみ)をなくした義政は、将軍の地位を誰(だれ)かに譲(ゆず)って気ままに余生(よせい)を過ごしたいと思いましたが、妻の富子との間には将軍後継となるべき成長した男子がいませんでした。





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ぴーち おはようございます!
義政の妻や妻の実家が政治介入してきた為に
義政の政治への関心が薄れた・・。とありますが、思うに、本当に元より何かやってやろうという野心がある人物なら、例えどんな迫害に遭おうが、邪魔が入ろうが、自分の思いを達成していこうという行動に走るのでは無いでしょうか。
義政は最初から、怠慢な性格だったのではないのかと思いました。怠慢な人間は、何かを理由に
重い重責から逃れる機会を伺ったりしますからね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
元々義政は政治家向きでない資質だったかもしれません。
だからと言って次回以降のような人物に成り下がるとは想定外でもありましたが…。
義視からすれば一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚の母の富子からすれば自分がお腹(なか)を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚(おろ)かな話はありません。しかし、初代将軍である足利尊氏(あしかがたかうじ)のように優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)な義政には、どちらを後継にするかを決めることが出来ませんでした。
義政がいつまで経(た)っても後継を決めないことに業(ごう)を煮(に)やした義視と富子は、義視が管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に、富子が侍所(さむらいどころ)の長官である四職(ししき)筆頭の山名宗全(やまなそうぜん、出家前の名は山名持豊=やまなもちとよ)にそれぞれ接近すると、細川・山名の両氏がこれを好機として幕府の政治の実権を握(にぎ)ろうとお互(たが)いに争い始めました。
この他にも守護大名の畠山氏(はたけやまし)や斯波氏(しばし)の家督(かとく)争いがからんだことで、1467年についに京都で大きな戦いが起きてしまいました。戦国時代(せんごくじだい)の幕開けともいわれる応仁の乱(おうにんのらん)の始まりです。





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ぴーち おはようございます!
今日のお話を伺って、益々義政という人物の
不甲斐なさが残念に思えてなりません・・。
ちょっと前に流行った言い方をすると「だめんず」の元祖というか・・・(^^ゞ
義政という方は幼い頃から、蝶よ花よで甘やかされて育てられてしまった経験があるのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
義政がこうなったしまったのは周囲の影響もあるかもしれませんが、やはり尊氏のマイナスの血が流れてしまっているのも原因のひとつかもしれません。
そして、その「ダメっぷり」は義政以外の身内でも…。
緒戦(しょせん)の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻(ま)き返して将軍義政を保護したことで東軍の優勢(ゆうせい)となりました。しかし、今度は山名氏が守護大名の大内政弘(おおうちまさひろ)に声をかけて京都へと攻めのぼらせるなど、両軍は一進一退(いっしんいったい)の戦いを続けました。
そんな折(おり)、応仁の乱のきっかけをつくった当事者たちに異変が起きました。将軍義政の弟である義視は東軍の細川氏についていましたが、細川氏が義政を迎え入れた後に義視の政敵(せいてき)である伊勢貞親(いせさだちか)が再び重用(ちょうよう)されたことに反発して出奔(しゅっぽん、逃げ出して行方をくらますこと)しました。
翌1468年に一旦(いったん)は京都へ戻(もど)ったものの再び出奔した義視は、こともあろうにライバルの義尚を支持していた西軍の山名氏へと身を投じました。これは将軍を奪(うば)われて大義名分(たいぎめいぶん)を失っていた山名宗全が巻き返しの手段として義視を迎えたためと考えられており、事実、この後山名氏は義視を「将軍格」として様々な人事を発令しています。





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オバrev えっ、えぇ~!
義視が細川から山名に寝返った(゜o゜;
ということは、元々の原因であった義視と義尚の対立はどうなるんですか?
頭がこんがらがって来ました(*_*;
ぴーち おはようございます!
山名氏と細川氏の戦いも、義視の存在がキーワードになっていたのですね。
彼を敵に回してしまった方が、本来、戦うべき宿敵と戦わずして敗者となってしまった様な展開ですね。(^_^;)
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 講演した私も実際頭がこんがらがってくるややこしさです(^^ゞ
そもそも何のために戦ってきたのでしょうか。
ちなみに2人の対立関係は、そのままそっくり入れかわることになります(詳細は次回で明らかにします)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義視の存在が仰る通りカギを握っていました。
ただ、義視は義政から逃げてしまったことで、結果的に自ら「敗者」となってしまったという方が良いかもしれません。
しかし、それはあくまで「応仁の乱」に限定した話でして…(詳しくは後日の更新で明らかにします)。
これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんえん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛(も)り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって延々(えんえん)と果てしなく続けられました。
そんな中で1471年に西軍の朝倉孝景(あさくらたかかげ)が東軍に寝返(ねがえ)ると、追いつめられた西軍は後南朝(ごなんちょう)の小倉宮(おぐらのみや)の子孫と称(しょう)する人物を「西陣の南帝(なんてい)」として立てましたが、義教の時代に行われた断絶工作が進んでいたうえに後南朝が三種の神器(さんしゅのじんぎ)を持っていなかったことから、いつしか歴史上から姿を消してしまいました。
その後、1473年に山名宗全と細川勝元が相次(あいつ)いで亡(な)くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の1477年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
なお、隠居した義政は後に銀閣寺(ぎんかくじ)または慈照寺(じしょうじ)と呼ばれた東山殿(ひがしやまどの)の建設を1482年に始めましたが、その完成を待つことなく1490年に亡くなっています。





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オバrev あれまぁ(>_<)、義視が細川から山名に寝返っただけでなく、日野富子・義尚も山名から細川に転じているんですね。
昨日の敵は今日の友って言葉はありますけど、下に仕える者は、誰のために何のために戦っていたか分からなくなってたでしょうね。
相当混乱したんじゃないでしょうか。
応仁の乱でこんなことが起こっていたとは、初めて知りました(;^ω^)
それでも目的もはっきりせず、延々と10年の長きにわたって戦いが続いたのは何故なんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり現場は大混乱だったと思いますし、本当に何のために血を流して戦っているのか分からなくなりますね。
10年間も戦いが続いたのは、応仁の乱にかこつけての別の守護大名の家督争いが決着しなかったからです。
全く別の目的でダラダラと戦いが続いたんですから、もはや何をかいわんやですね。
ぴーち おはようございます!
私もしっかり混乱してしまったので、2,3日前の記事を何度も確認させていただきました(^_^;)
結局、元々は義政の決断力の無さから
日野富子と義視との間に確執が生まれ、他の大名達の思惑と重なり、争いの炎が大きく拡大してしまったのですね。
時の権力者にとって家督を決める事は確かに大切な事かもしれませんが、こうなると自分たちのことで精一杯で国民を無視した醜い争いにも見受けられますし、やはり一番迷惑を被るのは国民だという事は今も昔も変わりはありませんね・・・(/_;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自分たちの権力争いによって国民に大きな迷惑をかけていますよね。
今も昔もそんなことばかり繰り返している政権は必ず痛い目を見ます。近くでは自民党もそうでしたし、今度は…。
また、応仁の乱の頃(ころ)から大名の兵力の中心となった足軽(あしがる)の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面のみで大名とつながっていることが多かったために忠誠心(ちゅうせいしん)が薄(うす)く、このため各地で暴徒化(ぼうとか)して掠奪(りゃくだつ)を繰(く)り返しました。
さらには守護大名が京都で戦っている隙をつくかたちで各大名の領国では守護代や国人たちが力を伸ばし、大名から領国の支配権を奪(うば)っていきました。こうして身分の下の者が上の者の勢力をしのぐ下剋上(げこくじょう)が本格的に始まり、世は戦国時代を迎えることになりました。
なお、戦国時代においても室町幕府そのものは健在でしたが、幕府が持っていた権力が本拠地(ほんきょち)の山城を除(のぞ)いてほとんどなくなった一方で、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)としての形ばかりの「権威」が皮肉にも強調されることになってしまうのです。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
日本人は、『戦国時代』の話は、好きですが
『応仁の乱』をあまり、興味ないように思いますが、
しかし、
どうして、『戦国時代』になったかの根本原因を知ることのほうが、
『自分勝手主義』による『何の意味もない内部抗争』がいかに
『組織』を弱体化させるかは、現代にも十分通じる教訓ですね。
これは、『国力の弱体化』にも繋がり、もし、このタイミングで、外国から、攻め込めまれていたら、日本も危なかったと思います。
せめてもの、救いは、この時期に外国から、攻められなかったことですね。
逆に
現代は、表面的には、平和で、静かな今の日本も
『自分勝手主義』で、国力が弱くなっていて、外国に攻められている気がしますが。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国内の乱れは外国からの侵略の呼び水となります。
今回の論点とはズレますが、外国の意思にいち早く気付いた秀吉のような為政者がいなければ危なかったかもしれません。
オバrev 室町幕府の実権は、既に応仁の乱が終結した時点でなくなっていたということは、その後の戦国時代は無政府状態だったということですよね。
むしろこの戦国の乱世を室町時代と呼ばず、別の言い方はないですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり無政府状態です。
だからこそ「力ある者が正義」の何でもありの戦国時代と化してしまいました。
呼び名についてですが、幕府を基本とする限りは室町時代としか称しようがないのかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
皆、上ばかりを見つめていて、周りの人間や配下にいる人間の存在を無視し、礼節を弁えない生き方をするといづれは足元を掬われてしまうのでしょうね。
個人主義、あるいは私利私欲にまみれて心の付き合いを無くした世の中は、軽くつついただけで
パッとはじけて消える様なシャボン玉にも似ているように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
人間の本質をついている時代でもありますよね。