1410年、自分の子を皇太子と認められないことを不服として南朝の後亀山上皇が京都から吉野へと移られました。その後、1412年に北朝の後小松天皇が子の称光天皇に譲位されると、南朝に味方した伊勢の国司(こくし、地方の国の行政官のこと)の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が挙兵しましたが失敗に終わりました。
戦後に幕府と和睦したことで後亀山上皇は京都へ再び戻られ、そのまま1424年に崩御されましたが、その後も南朝の勢力は皇位を回復すべく様々な手段で幕府と対立することになりました。
南北朝の合一以後における南朝のこれら一連の動きは、現代では後南朝(ごなんちょう)と呼ばれています。





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オバrev う~ん、南北朝統一と言いながら、実際はそうではなかったと?
確かに東西ドイツ統一も、実質的には東と西で格差が埋められなかったし、南北朝鮮となると統一は不可能でしょう。
覆水盆に返らずとはこのことでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 南北朝の合一は南朝が北朝へ三種の神器を返還したことによってその差が決定的になりました。
しかしながらそう簡単に収まらないのが世の常と申しましょうか…。
「覆水盆に還らず」はそのとおりかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
義満の野望が少しでも伺える条件であった為に、
再び不穏な空気が漂ってしまったのですね。
国の平和の為、国民の為と思い真の南北統一を心から願った働きかけでしたら、後からその問題も再燃しなかった事でしょうに・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに義満の野望に一役買ったという点は否めないですね。
だまし討ちのような手法でなければ南北朝の合一ができたかどうかは分かりませんが、アフターケアも重要だったと思います。
またしても皇位継承の夢が破れた後南朝は、北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)を率(ひき)いて再び挙兵しました。今度の戦闘は鎌倉公方の足利持氏をも巻き込んだ激(はげ)しいものとなりましたが、持氏が幕府と和睦したこともあり、満雅が討ち死にして挙兵は失敗に終わりました。
後南朝が朝廷や幕府に抵抗を続けることに激怒した将軍義教は、それまでの幕府の政策を転換(てんかん)して後南朝の血統を根絶(ねだ)やしさせることを決断しました。すなわち、後南朝の子孫を片っ端(かたっぱし)から寺院に送り込むことで子孫を残させないようにするとともに、彼らの家来を幕府が召(め)し抱(かか)えることで切り離(はな)そうとしたのです。
義教による徹底した対策によって主(おも)だった後南朝の血統はすべて断絶してしまいましたが、「万人恐怖」と称された義教の厳しい処置(しょち)に対する後南朝の恨(うら)みは深く、義教が嘉吉の乱で不慮(ふりょ)の最期を遂(と)げた後に前代未聞(ぜんだいみもん)の大事件が起きてしまいました。





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オバrev この頃にも男系天皇という意識はあったんでしょうか?
それにしても義教による恐怖政治は、さすがに今の時代にはあり得ないというのはありがたいですね^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 DNAや染色体といった概念はありませんが、遠い昔にわざわざ10親等もの男系天皇を即位させたこともありますから(第26代継体天皇)、理屈として分かっていたと思われます。
確かに恐怖政治は御免蒙りますが、これだけ混迷した政治が続けば一度はスッキリしたいとも思ってしまいますね(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
この世に生きとし生けるすべての生命には確かに子孫を残したい、更に自分が残した子孫の繁栄を願う気持ちというのはごく自然な欲求だと思います。
人間だけではなく、他の動物の世界も激しい争奪戦が展開し、それに敗れたものは子孫さえも残せないというのが厳しい現実だと思います。
しかし、人間は他の下等動物と同じようにその本能のまま行動を起こし、度を越した強欲さが仇となり殺し合いまで展開してしまった末路は自分にも痛いしっぺ返しが訪れます。動物には起こらなくて、人間には起こる。
それはきっとその回避する力を人間には試されるからなのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
義教が行った方策も、幕府と朝廷にとってやがて最悪の形でしっぺ返しが訪れることになります。
この事件は「御所の内裏」を意味する禁闕の変(きんけつのへん)と呼ばれており、御所を襲ったのは金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟など後南朝の人々でした。金蔵主と通蔵主は後亀山天皇の血を引いているとされていますが定かではなく、金蔵主は禁闕の変の際に討たれ、通蔵主などは捕えられて流罪(るざい)となり、その後の消息(しょうそく)は不明となっています。
また、小倉宮聖承の子で出家していた教尊(きょうそん)も禁闕の変への関与が疑(うたが)われて隠岐(おき)へ流罪となり、小倉宮の血統も断絶となりました。
こうして事件そのものは鎮圧されましたが、三種の神器のうち神璽が後南朝に奪われたままであることは天皇としての正当性を損ねることにつながることから、朝廷や幕府を不安にさせていました。
ところが、このような異常事態を解決するために意外な人物が手を挙(あ)げたのです。それは、かつて嘉吉の乱で義教を殺害したために滅ぼされた赤松氏の遺臣(いしん)でした。





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ぴーち おはようござます!
確かに日々の生活の中で、思いもよらない人から
助けられたり、或いはその逆もありますが、
全く眼中になかった人物が目の前に登場し、何らかの手助けをしてくれる時ってありますよね。
この赤松氏の遺臣はどんな思いが切っ掛けで手を貸してくれる気になったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 思わぬ手助けは全くの善意の場合もありますが、とんでもない陰謀が隠されていることもあります。
今回の赤松氏の場合も例外ではありませんでした。それは何かといいますと…。
赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。
幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは1457年に後南朝の御所を襲い、南朝の血を引くとされる一ノ宮・二ノ宮兄弟を殺害しましたが、神璽については一時は持ち去ったものの、憤激(ふんげき)した後南朝を支持する勢力によって奪い返されてしまいました。
赤松氏の遺臣たちは1年後の1458年に一ノ宮・二ノ宮の母の御所を再び襲い、今度こそ神璽を奪い去ることに成功しました。こうして禁闕の変以来、多くの血を流して約15年ぶりに神璽が朝廷に戻ったのです。
これら一連の事件は当時の年号から長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれています。なお、殺害された一ノ宮・二ノ宮の兄弟(別名を自天王=じてんのう、忠義王=ちゅうぎおう)は前述のとおり南朝の血を引くとされていますが、その詳しい血統は分かっていません。また、神璽を持ち帰った赤松氏は再興が認められ、後に守護大名に返り咲(ざ)いています。





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晴雨堂ミカエル 「花の乱」で結構詳しく描写されていました。
山名宗全を萬屋錦之助が演じていて、貫禄ある殺陣を魅せてくれました。なんと意外にも大河初出演。
この山名役が評判となり、「毛利元就」では尼子経久役が内定しましたが残念なことに逝去され、代わりに緒形拳が務めました。
ところで「花の乱」はあまり視聴率がふるわず。私が良いと思った作品はウケが悪い。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 この事件を詳しく取り上げたドラマがあったんですね。
あまりにもリアルすぎてかえって受けが悪かったんでしょうか。残念ではあります。
河童工房 教師のお宅、解体作業で吉野に行ったときに
休憩時間んいなると
いろいろとお話を承ることが
ありました。
いまでも吉野の人たちは
朝廷をお助けしたと誇りをもっているのが
わかりました。
こう言う地元民?の歴史は
教室では学べないですね。
河童工房さんへ
黒田裕樹 仰る話は私も拝聴したことがあります。
誇りを失わない人々は生き生きしていますね。
隠された歴史にもっと光を当てていきたいと思います。
ぴーち おはようございます!
幕府と赤松氏の両方の思惑が合致して
それが成功した訳ですね。
それにしても、後南朝にとって赤松氏は獅子身中の虫となった訳ですが、めでたく幕府側と組んで守護大名に返り咲いたとありますが、裏切り行為を繰り返す存在に本当に幕府は信頼を置くことが出来たのでしょうか。また同じように赤松氏はコウモリ的な存在に返り咲く事は無かったのでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 赤松氏は今回の功績(?)で確かに守護大名に返り咲きますが、まもなく「動乱の時代」に入りますからね。
それでも守護大名であるかないかとでは大きな違いがありますからまだ良かったのかもしれませんが…。
長禄の変以後、後南朝は「ある大乱」に関わったのを最後として、我が国に残された史料からその姿を消してしまいましたが、そもそも後南朝という立場となったのは南北朝が合一した際に義満が南朝をだましたからであり、また義教が積極的に血統を断絶させたのも大きく影響しました。
さらには、義教が非業(ひごう)の死を遂げなければならなかった原因をつくった赤松氏によって、後南朝の御所に最後まで残っておられた高貴な血統を絶たれてしまうという悲劇にもつながってしまいました。歴史というものは時として苛酷(かこく)な流れを生み出すものなのでしょうか。
こうして後南朝は歴史の表舞台から消滅(しょうめつ)しましたが、民間の伝承(でんしょう)としては生き残り続け、後に明治44(1911)年に南朝が正統であると明治天皇がご裁断(さいだん)されてからは、自分こそが後南朝の末裔(まつえい)であると主張する人々が出現し始めました。中でも有名なのは第二次世界大戦の終戦直後に話題になった「熊沢天皇」こと熊沢寛道(くまざわひろみち)氏ですね。
ところで、後南朝が現時点では最後の史料にその姿が残されている「ある大乱」とはいったい何のことでしょうか?
実は、それこそが戦国時代の幕開けになったとされる「応仁の乱(おうにんのらん)」なのです(詳しくは次回の講座で紹介します)。





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晴雨堂ミカエル 室町時代というのは天下泰平の時期は全くといって良いほど無い時代ですね。
義満でさえも全国を支配できた訳でない。
室町幕府を見ると家康が如何に緻密で洞察力に優れていたかが解りますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この後の歴史は、すべて前時代が映し出す鏡を見て動くことになりますからね。
ぴーち おはようございます!
正義は何時の世でも勝利すると言われていますが、
現実は時として理不尽な結果を齎してしまう場合が多いですね。我欲が余りにも強い人物に、一旦はその思いに押し流され、天下を取られ亡き者にされて一族断絶に追いやられても、真実だけはそこに留まる事になり、長い年月を経た後にまるで喪がやっと開けたかのように、日の目を見る時が必ず来るものなのでしょうね。
悪名も末の世まで轟くものですが、正義も必ずや
後の代で正当に扱われるものなのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の流れとともに正義の流れというものも因果応報の名のもとに存在しているようですね。
南朝の血統は事実上断絶しましたが、南北朝の時代においては南朝こそが正当であるとお認めになられた明治天皇のご英断も素晴らしかったと思われます。