特に鎌倉府では、1416年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放するなどの混乱が起きましたが、翌年には鎮圧(ちんあつ)されました。この争いを上杉禅秀の乱といいます。
このように地方では常に不安があった一方で、幕府周辺においては将軍と有力守護大名とがお互いに権力を主張しながらにらみ合いを続けましたが、これがかえって勢力の均衡(きんこう)を生んだことによって、皮肉にも大きな争いが起きずに小康状態(しょうこうじょうたい)を保(たも)っていました。
こうした中で1425年に5代将軍の義量が19歳の若さで急死すると、父親である義持が代わりに政務をとりましたが、1428年に重病となり、このままでは将軍家の嫡流(ちゃくりゅう、直系の血脈のこと)の血筋が絶(た)えるという危機となりましたが、義持は自らが後継者を決めることをしませんでした。
なぜなら、幕府と有力守護大名との権力に大きな差がなく、将軍の権威も低下していたために、自身が誰を後継としても守護大名などからの反発が必至(ひっし、必ずそうなること)と思われたために出来なかったのです。





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ぴーち おはようございます!
人はどんなに野望を持ち、勢い盛んに生きていても
病の一文字には敵いませんね(*_*;
それにこの頃はまだまだ人の寿命もそう長くは無かったでしょうから、命の儚さを誰もが知っていた分、物事の判断も行動も素早く、一触即発的な問題にすぐに発展していったのでしょうかね・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人生は儚いものです。
それだけに生きている間に野望を達成しようと躍起になるのかもしれませんが、今回の場合は余りにも幕府の権力が弱すぎましたね。今後はどうなるのでしょうか…。
そして、1428年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封(かいふう)した結果、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)が選ばれました。
義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院(もんせきじいん)に自分の子を次々と送り込(こ)んだことが、こんなところで役に立ったのです。将軍に選ばれた義円は直(ただ)ちに還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、名を義宣(よしのぶ)から後に義教(よしのり)と改めました。
後の世で「籤引(くじび)き将軍」と呼ばれた6代将軍の足利義教の誕生(たんじょう)です。





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オホーツクのリンゴ屋 黒田さん、こんにちは。この時代は大河ドラマなどでも取り上げられることが少ないので、興味津々です。以前に神奈川県厚木市に住んでいたことがありまして、隣の伊勢原市に太田道灌が暗殺された場所近くに石碑や、お墓(首塚?)もありました。太田道灌が主君に忠実な性格でなかったなら北条早雲より早く戦国大名になっていたのかな?などと空想を膨らませて楽しんでおりました。済みません、道灌は6代将軍より少し後の時代ですよね。戦国時代に繋がるモヤモヤと良く分からない室町時代、何で戦国時代になってしまったのか?など興味は尽きません。今後の御研究を楽しみにしています。
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オホーツクのリンゴ屋さんへ
黒田裕樹 こんにちは、お言葉有難うございます。
確かに大河ドラマでは取り上げられない内容ですね。
地味ということもありますが、それ以上に分かりにくいのもあるかもしれません。
太田道灌については今回の講座では特に紹介しませんが、謎の多い北条早雲との関連が興味をそそりますね。
また後日の機会で取り上げられればと思います。
ぴーち おはようございます!
なるほど、全責任を天に任せることにした。
これも亡き義満の怨みを幕府に向けさせない為の苦肉の策だったのでしょうかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もありますね。
運を天に任せた結果、室町幕府の運命はどうなるのでしょうか…。
まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく、厳(きび)しい姿勢を崩(くず)さなかったため、絶望した延暦寺は1435年に総本堂(そうほんどう)である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺(しょうしんじさつ)するという騒(さわ)ぎになり、結果として義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼き討(う)ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
義教がポジティヴな性格であった為に
事態は思いもよらない成果を齎した様ですね(^^ゞ
恐れを知らない心は時として一番の武器になり得ましょうが、失敗した時のダメージも大きいのでしょうね。義教の場合は、果たすべき任務を達成できた事は、神を味方につけたというよりも、義満の(怨念)野望がのり移った為に成し得た事のようにも思いました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、義教の隠された一面が歴史を動かしたのかもしれませんね。
いずれにせよ、上に立つ者のリーダーシップが存分に発揮されたといえそうです。
永享の乱の後の1440年には、持氏の遺児(いじ)を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを結城合戦(ゆうきかっせん)といいます。
こうして鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒(げきど)して死罪などの厳しい処断(しょだん)を下(くだ)したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震(ふる)え上がりました。
義教からしてみれば幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余(あま)りにも強引な政治手法は必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招(まね)くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように突然その幕を下(お)ろす日がやってくるのです。





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晴雨堂ミカエル 松たか子や野村萬斎の本格テレビデビューが大河ドラマ「花の乱」で、物語は将軍義教突然の不幸から始まります。
松たか子は日野富子の少女時代、野村萬斎は若き管領細川右京大夫勝元。
面白いですよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、そんなシーンから始まるんですか。
視聴率的には出来は良くなかったようですが、内容的には佳作なんでしょうね。
ぴーち おはようござます!
織田信長の恐怖政治ぶりは余りにも有名なお話だとは思いましたが、それ以前に義教が同じタイプの政治家だったとは、全く存じませんでした。
足利氏は義満か、銀閣寺を建立した義政くらいしか
よく知りませんでしたので、今日のお話しもとても勉強になりありがとうございましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます。
義教は意外と知られていない人物ですが、室町幕府の研究には欠かせない人物です。
その人生は信長と似通っているところが多く、その最期もまた…なんですよね。
その余りの手際(てぎわ)の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から嘉吉の乱(かきつのらん)といいます。
義教の突然の最期(さいご)は幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐(とうばつ)されましたが、義教の死は幕府や将軍の権威を必然的に大きく低下させ、この後二度と復活できなかったのです。
また、義教による厳しい政策と彼を殺したことによって没落(ぼつらく)した赤松氏の存在とが、義満によってもたらされた「ある高貴(こうき)な政権」をとんでもない悲劇(ひげき)に巻(ま)き込んでしまうことを、この後の誰が予想できたことでしょうか。





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- こんばんわ。
いつも有難うございます。
足利義教のことを取り上げていただいて嬉しいですね。今後、注目が集まる人と思います。
彼を『無類の上』と明石散人氏は評しました。全面的に賛成はしかねますが、もっと評価されていい将軍ですよね。彼がこんな形で死ななければ、応仁の乱は起きなかったかもしれません。室町幕府ももっと実質的に継続した可能性があります。
そんな夢を見させてくれる将軍と思います。
【籤で選ばれた】ことをネガティヴにとらえず、守護大名の庇護を否定し、権力が孤高であることを身をもって示した義教を今の政治家、芸能人にも見て欲しいですね。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 (※ホストからおそらく常連の方とは拝察しますが、名無しさん宛で返信することをご容赦ください。)
こちらこそお言葉有難うございます。
仰るとおり、彼の生き様はもっと研究されてもいいはずです。
室町幕府にとっては最後のチャンスだったかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
義教は自らも有無も言わさず残忍な処刑を繰り返していた訳でしょうから、同じ目に遭ってしまったのは、当然の報いであったでしょうね。
こうして現代からその時代を振り返ると、義教とい人物は確かに面白い素材に満ちた人物かも知れませんが、当時の恐怖政治を強いられた国民にとっては悪魔意外に例えようにない人物であった事でし、二度と現れて欲しくない存在であった事でしょう。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「当然の報い」という一面が濃いように思います。
信長同様、同時代には決して生きたくない人物かもしれませんが、何かを変えようと思えばそれくらいアクの強い人物でなければいけないのかもしれません。
なおまゆ こんばんわ。すみません。誤って名無しでコメントしたのは私です。
ごめんなさい。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 やはりそうだったんですね。
どうぞお気になさらないでください。