1378年、義満は京都の室町(むろまち)に「花の御所(はなのごしょ)」と後に呼ばれた豪華(ごうか)な邸宅(ていたく)を造営し、以後はここで政治を行ったことから、足利氏による幕府のことを室町幕府(むろまちばくふ)と呼ぶようになりました。
また、義満はこの頃までに大きくなり過ぎて幕府の言うことを聞かなくなった守護大名(しゅごだいみょう)の弱体化(じゃくたいか)を目指(めざ)し、1390年に美濃(みの、現在の岐阜県南部)・尾張(おわり、現在の愛知県西部)・伊勢(いせ、現在の三重県北部)の守護を兼(か)ねた土岐康行(ときやすゆき)を滅(ほろ)ぼしました。これを土岐康行の乱といいます。
翌1391年には、西国11ヵ国の守護を兼ね、六分一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれた山名氏(やまなし)に内紛(ないふん、内輪もめのこと)が起きると、義満はこれに乗じて山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしました。この戦いを、当時の年号から明徳の乱(めいとくのらん)といいます。
さらに義満は、中国の明(みん)と勝手に貿易を行っていた周防(すおう、現在の山口県東部)の守護大名である大内義弘(おおうちよしひろ)を1399年に滅ぼすことに成功しました。この戦いは、当時の年号から応永の乱(おうえいのらん)と呼ばれています。





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オバrev 義満は、詐欺師でありながら武力も兼ね備え、尚且つ商人としての才覚も兼ね備えているって、あえて例えれば家康みたいな人物ですかね?
ぴーち おはようございます!
ものすごく素朴な疑問で、申し訳ありませんが(^_^;)
室町幕府と言う名称は、当時の人々もそう呼んでいたのでしょうか?
それとも、単に現代に生きる人間が室町に幕府を開いたと言う理由で、それに決めたとか・・?
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに家康に似ていますね(^^ゞ
ただ、家康の場合は苦労に苦労を重ねて出世した一方で、初めから将軍の家に生まれた義満という違いはありますね。そして、その違いがやがて大きな流れとなって歴史に現れることになります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > それとも、単に現代に生きる人間が室町に幕府を開いたと言う理由で、それに決めたとか・・?
どちらかといえばこの理由になりますね。
当時は「幕府」という呼び方すらしなかった、という可能性もあります。
中国の皇帝から「国王」に任じられて暦を受け取るという行為は、中国を宗主国(そうしゅこく)と認め、屈辱的(くつじょくてき)な朝貢外交(ちょうこうがいこう)を行うことを意味しました。
これは聖徳太子(しょうとくたいし)以来続いてきた我が国の中国大陸からの独立性を損(そこ)なうものでしたが、義満は自らを「日本国王臣源道義(にほんこくおうしんげんどうぎ)」と称して貿易を行いました。なお、道義とは出家(しゅっけ)した義満の法号(ほうごう)です。
なぜ義満は朝貢外交を受けいれてまで貿易を行ったのでしょうか。主な理由として考えられるのは貿易による莫大(ばくだい)な利益を得るためには対等であろうが朝貢であろうが問題ないという経済重視の姿勢ですが、別にもうひとつの隠(かく)された理由がありました。
実は、義満は自らが「天皇を超(こ)える存在」として君臨(くんりん)するという大きな野望(やぼう)を持っており、明から「日本国王」に任じられること、つまり明からの「お墨付(すみつ)き」を得ることが野望達成の近道になると確信していたのです。





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ぴーち おはようございます!
まさに「悪魔に魂を売る」行為ですね。
そこまでしなければ、野望とは叶えられないものかと思います。いえ、野望だからこそ後先考えない行動を起こさせるのでしょうね。こうして伺っていると、義満という人物は、政治的才覚にあふれた人物では
あったようですが、それは全部自分自身の野望のためにしか、発揮されることのない才能だったことは
悲しくもあります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まさに「悪魔に魂を売る」行為ですね。
そのとおりと言わざるを得ません。
この後、義満は様々な手段で自身の野望達成のために力を尽くすことになります。
それは決して綺麗事で済まされるものではないですが、歴史の事実を冷静に見つめることで私たちは彼の野望の全貌を知ることになるでしょう。
また、義満は自身の太政大臣の就任祝賀式に出席した当時の関白(かんぱく)に対して、自らを拝礼(はいれい)して見送らせました。関白は太政大臣より上位ですから普通に考えれば話が反対ですが、これは義満が当時すでに天皇に近い待遇を得ていたことを間接的に証明しています。
さらに義満は、南北朝の合一の際に後亀山上皇に対して強引に上皇待遇を与えたように朝廷の人事権にまで口出しを始め、天皇の子が出家して入る門跡寺院(もんせきじいん)にも自分の子を次々と入れました。そのうちの一人が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)ですが、彼は後に再び今回の講座に登場します。
義満は太政大臣に就任する直前に征夷大将軍を辞任して子の足利義持(あしかがよしもち)が4代将軍となり、同年には太政大臣を辞職し出家しましたが、依然(いぜん)として政治の実権を持ち続けました。将軍や太政大臣といっても天皇の臣下でしかなく、それらの身分に縛(しば)られない方が自分の野望達成(=天皇を超える存在になること)には都合(つごう)が良いと判断したのかもしれません。





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マリリンカ 黒田先生~今晩は
先日は、コメントありがとうございます~m(__)m
いつも、わかりやすい授業で良いですね~
娘も中間テストが終わり・・・
2人とも、社会科は苦手のようです・・・
何か必勝法でもありませんか・・
上の子は、世界史が苦手のようです((+_+))
マリリンカさんへ
黒田裕樹 必勝法ですか…。
歴史上の出来事に対して「なぜそうなったのか」「歴史上の人物がなぜそのようなことを考えたのか」ということを探ることですね。
出来事をただ単に覚えるのではなく、歴史の大きな流れにそって理解すること。時間はかかるかもしれませんが、これが一番の近道です。
これは日本史も世界史も同様ですね。何とか頑張ってほしいものです。
ぴーち おはようございます!
何時の世も、また何処の国でも
野望の強い人間は、自分が神仏にでもなったかのように人々を洗脳し、また人々が自分の前でひれ伏す事で満足感を得るようですが、人間は決して神仏にはなれないという事を、後々身を持って「天罰」なるものを受ける事になるのでしょうけれど、義満の場合はどうなることでしょう・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「天罰」ですか。
確かに義満の傍若無人ぶりはそれを受けそうですね。
実際に天罰が下るかどうかをじっくり見極めながら今後の展開をご覧いただければと思います。
しかも相国寺は当時の京都御所のすぐ北にあり、天皇がおわす御所の上座(かみざ)の位置に、御所を見下(みお)ろすことができる巨大な建物を造営(ぞうえい)したことになりますが、義満の意図(いと)がどこにあったのかが気になるところです。
また、義満は金閣寺(きんかくじ)と呼ばれる寺院を建築したことでも有名であり、これは現在の鹿苑寺(ろくおんじ)の通称(つうしょう)となっていますが、義満の当時は金閣寺を含(ふく)む一帯(いったい)が北山第(きたやまてい)と呼ばれ、義満の政務地(せいむち)でした。
義満が政務地の象徴(しょうちょう)として建築したのが現在の金閣寺と考えられていますが、その金閣寺は1階が寝殿造(しんでんづくり)で2階が武家造(ぶけづくり、別名を書院造=しょいんづくり)、3階が禅宗様(ぜんしゅうよう)という変わった構造(こうぞう)をしていることでも有名ですね。
実は、この金閣寺の構造にも義満の真意が隠されているのです。





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ぴーち おはようございます!
財力と権力の象徴として人は高い建物を建てたがるというのは、本能的なものなのでしょうか^^
義満の場合は、天皇のわざわざ上座に建立するということで、自分は天皇を超える存在であると言うことを形で表現し、またそうであるということを知らしめたかったのでしょうね^^;
それにしても、金閣寺がそんな構造になっていたとは、存じませんでした( ´゚д゚`)
今更ながら、歴史の初歩的知識すら学んで来なかった自分に腹立たしさを感じます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり本能でもありますし、義満の場合はどう考えても確信犯ですね。
そして義満の根底にあった「思い」は、金閣寺の構造を見ても明らかなのです。
なおまゆ こんにちわ。
いよいよ核心部分ですね。
楽しみにしています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、いよいよ義満の野望が明らかになっていきますので、今後にご注目いただければと思います。
さらにその上の3階の禅宗様は中国風ですが、これは当時明から「日本国王」に任じられていた義満自身を指していると考えられ、義満が「自分は朝廷も幕府も超えた存在である」と自ら宣言しているに等しいことになります。
しかも、金閣寺の屋根には聖天子(せいてんし)が出現するときに世に出るとされる中国の伝説上の鳥である鳳凰(ほうおう)が飾(かざ)られていますが、全国の寺院で屋根に鳳凰があるのは金閣寺の他にはこれを真似(まね)てつくられた銀閣寺(ぎんかくじ)と宇治(うじ)の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)くらいしかありません。
寺院の屋根飾りとしては滅多(めった)に用いられない鳳凰が金閣寺に使用されている理由は、そこを普段(ふだん)から使用する人間、つまり義満こそが聖天子そのものであると自負(じふ)していたからだとは考えられないでしょうか。





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ぴーち おはようございます!
人を欺く事を「ぎまん」と言うようですが、漢字は違えども、義満を音読みするとまさに「ぎまん」。名前からして義満のこれまでの生き方がそのまま反映されているかのようですね(^^ゞ
それにしても、そこまで分かりやすく建物を作ってしまった事に対して、朝廷は黙認していていたのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、これは気が付きませんでした。
確かに意味深な読み方ですね(^^ゞ
朝廷は黙認していた、というよりも「黙認せざるを得なかった」というべきでしょうか。
しかし、そんな朝廷にも我慢の限界が…。
オバrev なるほど~、金閣寺って、昔ただ寝殿造と武家造が混在している珍しい建物とだけ覚えていましたが、そういう意味があったんですね。
それにしても、相国寺といい金閣寺といい、あまりに露骨なやり方は、当然相当な反発を買っていたでしょうけど、なにか清盛とダブって見えてしまいます^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、金閣寺には隠された(というよりも当時の知識人であれば誰でもわかるような)イメージがありました。
確かに露骨ですが、義満の場合は清盛よりもさらに(朝廷にとっては)悪質なことが続くのです。それは…。
黒田先生様
荒野鷹虎 何時もお世話になって感謝いたします。ここ2-3日パソコンの不調でご訪問、コメント、拍手、応援も出来ず、大変な欠礼をお詫び申し上げ致します。今日修正の運びですので、今後とも宜しくお願いいたします。!
引き続き応援させていただきます。!
荒野鷹虎さんへ
黒田裕樹 こちらこそいつもお世話になっております。
私からも引き続き応援致します。なお、同じコメントを二ついただきましたので、一つは削除させていただいたことをご理解ください。
つまり、義嗣は親王と同じ待遇になったのです。ということは、近い将来には義嗣が天皇になり、義満自身は天皇の父、つまり上皇に準ぜられ、治天の君として「天皇を超える存在」となり、我が国をほしいままに支配することになる―。皇室にとってはまさに最大の危機(きき)でしたが、義満の野望は、結局は実現することはありませんでした。
なぜなら、義嗣が元服した直後の1408年に義満は病に倒れ、急死してしまったからです。それまで元気でいたのが急に体調が悪化したことから、義満が天皇を超える存在になることを恐(おそ)れた朝廷などの関係者から暗殺されたのではないかという説が唱(とな)えられています。
その真偽(しんぎ)は定かではありませんが、いずれにせよ自分の野望が達成される直前でこの世を去らなければならなかったのは、義満にとってさぞかし無念であったことでしょう。
なお、義満の死後、朝廷は太上天皇(だいじょうてんのう)、つまり上皇の地位を追贈(ついぞう)しました。幕府はこれを辞退しましたが、皇室とは直接的に縁のない義満に対して、なぜ朝廷が上皇を追贈しなければならなかったのでしょうか。確(かく)たる証拠(しょうこ)が存在しない以上は永遠の謎(なぞ)と言わざるを得ないのかもしれません。





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ぴーち おはようございます!
永遠の謎ですか・・それも歴史のロマンですね♪
死んだ者へのせめてもの、餞のつもりだったのでしょうか。(これで恨みっこなしにして欲しいと)だとすると暗殺した事が事実であると認める事になりますが(^_^;)
或いは、朝廷側の暗殺がもしも事実であった場合は、事の真相を地位を追贈することで、世間の暗殺疑惑を打ち消したい意図があったのでしょうかね?
応援凸
良い悪いは別にして。
晴雨堂ミカエル 私は義満毒殺説を支持しますね。父親とは険悪の嫡男義持と摂関家の共犯によるものと思っています。
義満はただ死んだだけでなく、政策も全て義持によって否定されましたから。ビジョンそのものが消滅したのです。
朝廷が故人となった義満に上皇の称号を贈ろうとして義持が断った様など演出臭い。義満否定の総仕上げの感があります。
仮に徳川幕府のように政策の継続があれば、室町幕府はもう少し長く続いたかもしれません。
皇位簒奪の可能性もゼロではなかったでしょう。足利氏は清和帝の末裔、臣下に下ってから再び皇位に復帰する例は中国にありますし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義満の急死には謎が多いですね。
上皇の追贈には仰られた理由の他に暗殺した(かもしれない)義満が怨霊と化すのを恐れた、という説もあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、共犯説ですか。
義満の存在は確かに朝廷と義持にとっては目障りでしたからね。
皇位簒奪までの意思については諸説ありますが、実際になってみればどうなっていたでしょうか…。