それもこれも、朝廷(ちょうてい)が二つに分かれて争う状態が続いていたのが大きな理由でした。先の鎌倉幕府(かまくらばくふ)や後の戦国時代(せんごくじだい)、あるいは江戸幕府(えどばくふ)など、武家政権の多くは長い伝統に基(もと)づく権威(けんい)を有する朝廷の扱(あつか)いに悩まされてきましたが、それが二つもあってはたまったものではありません。
なぜなら、お互(たが)いに対立している二つの勢力がそれぞれ北朝や南朝を別々に担(かつ)ぐことによってそれぞれが朝廷の後見(こうけん)を得ることになり、争い事がいつまで経(た)っても収拾(しゅうしゅう)がつかなくなるからです。
このため、義満も南北朝が一つになるよう工作を続け、南朝側も長慶天皇から皇位(こうい)を継承(けいしょう)された後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が和睦に応じられたことで、1392年についに南北朝の合一(ごういつ)が実現しました。
南北朝の合一は、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲(ゆず)られて退位されるという形式で行われましたが、そこには義満による巧妙(こうみょう)な罠(わな)が仕掛(しか)けられていました。





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ぴーち おはようございます!
例え、それが巧妙な罠であっても
南北朝という2つの勢力が存在する事が、
頭痛の種であった訳ですから、
義満の功績は多大であった様に思えます。
ニュアンスは違うますが、毒を以って毒を制すの
荒療法が必要な時もあるものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりです。
日本史上においては義満の「功績」は輝かしいものがあったという事実は動きません。
ただ、その一方で「巧妙な罠」の真実を知ることは当時の様々な歴史の流れを理解することにもつながり、非常に重要であると思います。
1.三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ「譲国(じょうこく)の儀式(ぎしき)」で渡すこと
2.皇位の継承に際しては、南北両朝が交互(こうご)に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)を行うこと
3.諸国(しょこく)の国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)を南朝の所有とすること
このうち一番重要なのは1.でした。なぜなら「譲国の儀式」で譲位(じょうい)するということは、後亀山天皇のご在位を、ひいては南朝の後醍醐―後村上―長慶―後亀山という皇位の継承を正式なものとして認めるということを意味していたからです。
また、今後も両統迭立が行われるということは、後亀山天皇の子がいずれは天皇になるということであり、さらに国衙領の所有が認められるのであれば南朝にとってはかなり有利な内容でした。
しかし、それらはあくまで北朝と幕府が約束を守ればの話であり、実は義満は条件のすべてを反故(ほご)にしてしまったのです。





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ぴーち おはようございます!
人間、行く末に不安を感じると、揉め事を起こして、自らの心の平穏を奪い取ろうと思うものですが、最初から、条約として朝廷はこの先安泰であるという約束事が示されてあれば、ひとまずは事なきを得ることが出来ますね。
反故した理由は、どうしてなんでしょかね?
もしも、北朝がこの条約の条件を飲んでくれなかった時に、混乱の矛先が義満に向けられないように、証拠隠滅を図ったのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 反故にした理由は色々考えられますが、有利な条件を示さなければ南朝から三種の神器を「奪う」ことはできないと義満が考えていたからかもしれませんね。
要するに、義満は初めから約束を守る気が全くなかった、と考えれば一番スッキリしそうです。
南北朝の合一の条件のうち、まず皇位の継承の際の「譲国の儀式」は一切行われませんでした。後亀山・後小松の両天皇のご対面もなく、三種の神器が単に宮中(きゅうちゅう、ここでは朝廷の中という意味)に戻ったという形式となったのです。
これでは北朝が「失(な)くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定(さいてい)によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ後亀山上皇が「治天の君(ちてんのきみ)」として院政(いんせい)を行うことができません。
両統迭立の約束も後小松天皇の次の天皇となる皇太子が長い間決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光天皇(しょうこうてんのう)が即位されたことで南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領もこの頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。
要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的(さぎてき)なものでしたが、同時に彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。平和というのは綺麗事(きれいごと)だけでは達成できないという見本のような事実ですね。
なお、義満に「だまされた」形となった南朝の勢力は、後亀山上皇が一時期は京都から吉野へ移られるなど、幕府や朝廷(=北朝)に対して様々な抵抗を続けることになりますが、詳(くわ)しくは後で紹介(しょうかい)します。





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晴雨堂ミカエル 義満は二十歳代前半でたしか内大臣、三十歳前には左大臣へと、戦に明け暮れた尊氏よりもトントン拍子に叙勲しています。
その背景には何があると思いますか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 これから明らかになりますが、義満の母系が大きな鍵を握ることになります。
もちろん、以前に示した奉公衆という武力あっての話になりますが。
ぴーち おはようございます!
まさに雨降って地固まるですねエ・・
地球における数々の生命も、海に波が起こらなければ
誕生出来なかった様に、
波風立てる事は、最初は悪い方向へ
向かうような様相を示しながら、意外と良い結果をもたらすものですよね(^^)v
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、南朝にとってはとんでもない話でしたがそれが結局我が国の混乱が収まる効果をもたらしましたからね。
世の中どう流れるか分かったものではありません。
朝廷工作
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
やはり、政治家としては、足利義満は、
足利尊氏のよりも、一枚も二枚も上手ですね。
これほど、混迷化して、複雑化した南北朝を
を統一するとは
特に朝廷工作の駆け引きは、イイ意味でも
悪い意味でも、見事です。
朝廷工作がここまで、巧妙な武将は、歴史的にも少ない気がします。
(平清盛、藤原氏レベル)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、見事な工作でした。
義満の南北朝への工作は結果的に大成功でしたが、人間の野望というのはとどまるところを知らないというのが正直なところで…というのが今後の見どころになりますね。