義詮は、父の尊氏が将軍の頃には叔父(おじ)にあたる足利直義(あしかがただよし)や南朝(なんちょう)の北畠親房(きたばたけちかふさ)、あるいは腹違(はらちが)いの兄弟である足利直冬(あしかがただふゆ)に攻(せ)められて京都を奪(うば)われるなど、自身の武力が決して優(すぐ)れているとは言えませんでした。
将軍就任後も南朝に寝返(ねがえ)った執事(しつじ、後の管領=かんれい)の細川清氏(ほそかわきようじ)に一時期は京都を落とされるなど政情不安(せいじょうふあん)が続き、将軍就任前に自分が守っていた関東には弟の足利基氏(あしかがもとうじ)を鎌倉府(かまくらふ)の長官たる鎌倉公方(かまくらくぼう)に任じたものの、基氏自身も南朝の攻撃(こうげき)に悩(なや)まされ続けました。
一方、南朝は1352年に強引にお連れした北朝(ほくちょう)の三人の上皇(光巌=こうごん、光明=こうみょう、崇光=すこう)を京都へ戻(もど)したり、楠木正成(くすのきまさしげ)の子である楠木正儀(くすのきまさのり)から幕府に対する和睦(わぼく)の申し入れがあったりと軟化(なんか)の動きもありましたが不調に終わり、義詮は1367年に38歳の若さで死去しました。
なお、義詮の死去の翌年には南朝を開いた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の子である後村上天皇(ごむらかみてんのう)も崩御(ほうぎょ)され、子の長慶天皇(ちょうけいてんのう)が即位(そくい)されましたが、長慶天皇の治世(ちせい)においては南北朝(なんぼくちょう)の和睦の動きはほとんど見受けられませんでした。





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オバrev 義詮の時代はかなりの政情不安定だったんですね。
これが、私の記憶だと義満の時に室町幕府の絶頂期を迎えると思いますが、それが息子の義教と、どういう政情になるのか、全く知識ありまへん^^;
どういう展開になるか、楽しみにしています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義詮の時代は政情不安が続いて安定したとはとても言えませんでした。
それが義満の時代に絶頂期となりますが、その陰では…。
また義満の子の義教との関係は…。
これからにご期待ください(笑)。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
素朴な疑問なのですが、
北朝が、征夷大将軍として、足利尊氏、足利義詮を任命していたとしたら、
なぜ、南朝も別の征夷大将軍を任命して、南朝が認めた別の幕府を創って、北朝に対抗しようとしなかったのでしょうか。
というのも、朝廷が2つに分かれて、存在していたとしたら、幕府も2つに分かれることも
可能だったと思うからです。
ただ、もし、そうなったら、想像できないくらいの大混迷時代になっていたでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに一理ありますね。
考えられるとすれば、将軍となって幕府を開くということ自体が後醍醐天皇が理想とされた「天皇親政」に真っ向から反する行為であったことでしょうか。
ただ、史実においては後醍醐天皇の子である宗良親王などが南朝の征夷大将軍になっているようですね。
ぴーち おはようございます!
この頃の時代というのは、政に関して
征夷大将軍という存在の権力と、天皇家の権力という2大勢力が、複雑に絡んでいるので、余計に混乱をきたしていた時代でもあった様に率直に思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鎌倉幕府のように北条氏の権力と皇室の権威とが綺麗に分離していなかったですからね。
しかも朝廷が二つに分離しているのですから、ややこしさに拍車をかけています。
義満は自分の思いどおりの政治を行うため、まずは「子飼(こが)いの軍隊」ともいうべき将軍直属の常備軍(じょうびぐん)である奉公衆(ほうこうしゅう)を積極的に増強し、その費用を捻出(ねんしゅつ)するために山城(やましろ、現在の京都府南部)の土地の一部を奉公衆に与えたり、山城の荘園(しょうえん)の年貢(ねんぐ)の半分を奉公衆に給付するという半済令(はんぜいれい)を出したりしました。
京都において兵糧(ひょうろう)を確保できるようになった奉公衆は一年を通して将軍の近くに常駐(じょうちゅう)できるようになり、結果として義満の軍事的立場も強化されることにつながりました。
こうして自分の足元を固めることに成功した義満は、自分の命令ひとつで動く武力を背景に、内政や外交、あるいは軍事面において強力な政治を行うことになるのです。





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ぴーち おはようございます!
細川氏は追放されたんですか。
これまで代行として任務を遂行してきた人物への
随分の仕打ちのように思います。
それだけ、義満の考え方が独裁主義であったということでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 細川頼之を追放したのは義満ではなく、他の守護大名でした。
それだけ幕府と守護大名の権力に大きな差がなかったということであり、義満が政治の実権を握った際に大きな危機感を持っていたのもうなずけますね。
オバrev やっぱ、この当時の権力の基盤は武力だったんですね。それと調停の権威をどうバランス取るかが難しかったんでしょうか。
ただ武力による後ろ盾がない政権は長続きしなかったんじゃないでしょうかね?
現在の、アメリアの圧倒的軍事力によって世界平和が保たれているのと同じようなもんかな?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武家政権である以上は武力がなければ話になりませんし、長続きもできません。
義満による今後の政策も、武力を背景にしていたからこそ実現できたといえますね。
アメリカの例は私も同感です。