その理由として、まずは幕府を正当なものと認める後ろ盾(うしろだて)となる朝廷が二つに分裂(ぶんれつ)していたことが挙げられます。北朝は本来の朝廷の都である京都におわしましたが、本物の三種の神器は南朝に存在するとされたこともあって、尊氏に従(したが)った新興勢力の武士の中には北朝の正当性に疑問符(ぎもんふ)をつける者もいました。
また、武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国(とうごく)であるため、尊氏も本当であれば関東で幕府を開きたかったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断(よだん)を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府(かまくらふ)が置かれたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
さらには尊氏自身の資質(ししつ)にも問題がありました。尊氏は根っからの武人(ぶじん)であったため、実際の政治は尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)が代行していましたが、その一方で武将にしては珍(めずら)しく「優(やさ)しくて良い人」だった尊氏は、功績(こうせき)のあった武将に気前良(きまえよ)く領地を与えていました。しかし、領地が増えた武将がこの後に様々な権利を得ることによって守護大名(しゅごだいみょう)と化したことによって、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。
加えて、南北朝の動乱が50年以上も続いてしまった大きな原因も、実は尊氏の「優しさ」にありました。尊氏は自身に偏諱を賜(たまわ)られた後醍醐天皇に対してどうしても非情になれず、隠岐などに追放して政治生命を断(た)つことが出来なかったゆえに、天皇に吉野に逃(に)げられて南朝を開かれてしまったからです。





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中年の星 足利尊氏が優しい人だったとは意外な感じです。室町幕府がなぜ京都で開かれたのか、
ずっと疑問に思っていたのですが、黒田先生の記事を読んで理解が出来ました。
中年の星さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
幕府の成立やその後の歴史に、人物の性格が深くかかわっていることは盲点ですね。
尊氏の「優しさ」は、幕府のその後の運命も大きく変えてしまいます。
地方のリーダーなら
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、足利尊氏の『優しさ』を考える時
地方豪族のリーダーなら、『優しい』のは
良かったと思います。
ただ、幕府という全国の武士のリーダーとなると
『優しい』のは、アキレス腱になりますね。
たとえば、(独裁病もありますが)
◆ 織田信長も京都に上るまでは、家臣にも敵にも甘い『優しい』武将でした。
→ 冷酷なイメージは、京都に上洛して以降の
行為から、そう思われているだけです。
◆ 豊臣秀吉も最初は、『人たらし』と言われるほど
『気配りのできる優しい武将』でしたが、
関白になると、非情な人間になりました。
◆ 徳川家康も、豊臣秀吉が亡くなるまでは
『律儀者』と言われました。
それが、豊臣秀吉が亡くなった後は、
『非情で、汚い手を使いまくる狸親父』に変わりました。
足利尊氏も最初は、『優しい』ことは、仕方ありませんが、その後も『優しさ』を越えることが出来なかったのは、足利尊氏の甘さですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
優しくないことが平和につながるのは何とも言えない皮肉ではありますが、非情に徹することが結果的に多くの人命を救うことは歴史が証明していますからね。
真田尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」、真田広之氏の尊氏はまさにNHK得意の「いい人」。
大河ドラマの主人公はみな良い人になるので史実とのギャップに不快感を抱くこと多々ですが、この「太平記」は納得のデキでした。
とにかく良い人なので、身内や家臣から慕われると同時に、弟直義・執事師直・盟友佐々木判官がイラついている様が良かった。
大河ドラマにしては比較的リアルに権力闘争を描いていましたね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、「良い人」であるがゆえに史実に近くなるんですね。
かつてご紹介くださった「草燃える」は運良くCSでの視聴がかないましたが、太平記もいつかは見てみたいものです。
ぴーち おはようございます!
尊氏が京都で幕府を開いたのは、それなりの理由があったのですね。
確かに人に対する優しさは大切かとは思いますが、何かを決断しなければならない時には、その優しさが邪魔をしたり、またその優しさに漬け込まれ、足を引っ張られてしまったりする事も良い人の欠点であり、致命傷になる事もありますよね。
野望に生きると決めたのなら、徹底的に野望に徹する。
悪役を演じると決めたら、徹底的に悪役を演じきる覚悟が必要だったのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、個人の感情はともかく、尊氏は政権維持のために「憎まれ役」になる必要がありました。
しかし、彼にはどうしてもそれができませんでした。
その結果、室町幕府のやることは何もかもが中途半端になって…続きは今後の更新で明らかにしますが、とんでもないことになってしまうんです。
そんな折、尊氏の実子(じっし)でありながら父に嫌(きら)われ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏派によって九州へ追われると、地元の勢力を味方につけて尊氏に反旗をひるがえしました。
九州の激変(げきへん)ぶりに驚(おどろ)いた尊氏が1350年に直冬を討伐(とうばつ)すべく自らが遠征(えんせい)すると、その隙をついて直義が南朝に降伏(こうふく)しました。南朝はこの頃までに尊氏派の武将によって吉野を追われて賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)まで後退(こうたい)していたのですが、直義の降伏で息を吹き返すことになりました。
直義は反尊氏派の勢力を引き連れて尊氏の子の義詮が守っていた京都へ攻め込み、敗れた義詮は尊氏を頼って備前(びぜん、現在の岡山県)へと落ち延(の)びました。室町幕府が成立してから10年以上も経(た)っていながら、天下は再び大きく乱(みだ)れ始めたのです。なお、これ以降の幕府の内乱は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれています。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
武断派と文治派の対立は、いつの時代でも
あるのが当たり前であり、
それでも、リーダーが存在している時は、
その争いは、表面化しないのが通常だと思っていました。
◆ 豊臣秀吉も文治派と武断派は対立していましたが、豊臣秀吉が存在している時は、組織としては、機能していました。
◆ 徳川家康も文治派と武断派は、対立していましたが、組織としては、機能していました。
そう考えると
足利尊氏が存在しているのに、表立った反乱がおこるというのは、
正直、足利尊氏のリーダーシップ力を疑ってしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 別の歴史を比較すれば、仰るとおり尊氏のリーダーシップのなさが浮き彫りになりますね。
資格のない者が上に立った悲劇ともいえるでしょうが、当時の人々にとってはたまったものではありません。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏には、『これから、どうしたいのか』というビジョンがイマイチ見えてきません。
たとえば、
源頼朝は、武家政権の設立。
織田信長は、天下布武。
などが見えるのですが、
足利尊氏がビジョンとして、武家政権を創るという強い信念があるなら、行動があまりにも
動きが遅いです。
これは、今の政治家も同じかもしれません。
つまり、ビジョンが???です。
今の政治家は
派閥やグループの顔色ばかりを観て、大臣や元総理がアホなことを繰り返しているので、
現場は大混乱です。
民主主義というのは、民意を反映させるので、
どうしても、ややこしい根回しは、必要だとは
思うのですが
それでも、どうも頼りない気がしてしまいます。
いったいこれから、何をしたいのかがイマイチ見えてきません。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにビジョンが見えてこないですね。
尊氏の場合、当初は鎌倉で幕府を開いて源氏や北条氏の政権の失敗を生かした政治を行う意思はあったと思われますが、講座で書いた通りの理由で京都で幕府を開いたことですべての予定が狂ってしまい、予定していたビジョンがグチャグチャになってしまったとも言えそうです。
いずれにせよ、政治に明確なビジョンが必要だということは、尊氏や現代の政権を見れば一目瞭然ですね。
ぴーち おはようございます!
尊氏の実子である直義はどうして父に嫌われていたのでしょうか?
尊氏の優柔不断の性格以前の親子関係に不備が
あった為に子供に命を狙われる事になってしまったと解釈しても良いでしょうか。
まあ、武将の親子関係でなくとも、親子の対立によって子供が外へ出ていくという事は何処の家庭でも起こりうる事ではあると思いますが、親に対して反旗を翻し、父親を亡き者にしようと考える程の深い恨みの根源は何だったのか気になりました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 直冬が尊氏に嫌われている理由として考えられているものとして、直冬の母の身分が低かったからだという拙がありますね。いずれにせよ、尊氏に疎んじられているのを哀れに思った直義が、自分の養子として迎えたようです。
そんな過程がありますから、自分の養子で本来ならば兄の子を、その兄自身が討とうとすることが耐えられず、それまでの鬱憤(うっぷん)が爆発して尊氏を裏切った、とも考えられますね。
その後、一旦(いったん)は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟(はさ)み撃(う)ちで倒そうとすると、尊氏の計略(けいりゃく)に気づいた直義は京都を脱出して北陸伝(づた)いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥(はっしょう)の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃(ついげき)しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧(せいあつ)されて尊氏追討の綸旨を出されれば、自分が朝敵(ちょうてき)となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか方法がありませんでした。以前には後醍醐天皇、今回は直義といった自分に敵対する勢力を政治的に抹殺(まっさつ)することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築(こうちく)した政治のシステムを、自らの手で破壊(はかい)せざるを得なかったのです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、仮説ですが、
おそらく、足利尊氏は、征夷大将軍になり
幕府さえなれば、それで、天下を握れると考えていたのではないでしょうか。
それゆえ、北朝から、征夷大将軍に任じられているのに南朝と結んでも、問題がないと考えたような気がします。
官職が征夷大将軍であっても、源頼朝のように
しっかりとしたシステムを創らないと完全に有名無実化ですね。
どちらにしろ、足利尊氏は、現実にたいして、甘すぎましたね。
ぴーち おはようございます!
時代は違いますが、つい先日も
義経と頼朝を生かしてしまったが故に滅びた
平家のお話も、結果的に清盛が掛けた情けが仇となってしまったと伺ったばかりですが、何やら
共通するものがありますね(^^ゞ
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのような甘い一面がありますね。
南朝になびいたのも、仰るとおり征夷大将軍の重みすら理解できていない節があります。
いずれにせよ、ここに来てそれまでの甘さの「ツケ」が一気に噴き出した感がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
思えば、清盛も女性の影響があったとはいえ、甘い武将ではありました。
尊氏も清盛も、弟を容赦なく殺した頼朝とは雲泥の差ですね。
南朝は尊氏が遠征した隙をついて北畠親房の指揮(しき)によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を自分たちが追われていた賀名生へと移しました。
かくして後醍醐天皇が吉野朝廷を開いて以来、後醍醐天皇の子の後村上天皇(ごむらかみてんのう)によって16年ぶりに南朝が京都を支配するようになったのです。1352年閏(うるう)2月のことでした。
しかし、南朝の天下は長続きしませんでした。体勢を立て直した義詮が京都へ再び攻め込んだからです。南朝はしばらくの間持ちこたえたものの同年5月には追い落とされ、後村上天皇や親房は再び賀名生へと逃れていきました。ちなみにこの後、南朝は一度も京都を回復しないまま1392年に北朝との合一(ごういつ)を迎えることになります。
なお、南朝と義詮とが争っている間に、尊氏と戦って敗れた直義が同じ1352年2月に急死しました。尊氏による毒殺説もありますが、直義を討つために南朝と和睦するなど幕府政治の根幹(こんかん)を揺(ゆ)るがした後となっては、すべてが手遅(ておく)れでした。





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諸葛菜@孔明死後の三国志はお任せ! はじめまして!
諸葛菜と申します。
ランキングからお邪魔させていただきました。
室町幕府の成り立ちを知りたいとおもって、吉川英治の太平記を全巻読みました。
わかりやすい記事で理解できました。
室町時代を読むと何となく気分的に消耗するのですが(笑)。戦国時代との違いはなんなのかなあと考えてしまいます。
諸葛菜さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
室町時代は進めば進むほど分かりにくくなりますし、また戦国時代へ向かうということは争いが多くなりますし、どちらかといえばネガティブなイメージしかありませんからね。戦が続くものの、天下統一へと進んでいく戦国時代とはベクトルが真逆なのが原因かもしれません。
真田広之の尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」の尊氏は戦に明け暮れて人生を消耗していく様がよく表れていました。
後醍醐天皇や楠木正成らに感化されて理想に燃え戦う青年高氏。鎌倉幕府を倒した後の朝廷への反旗、亜相北畠との戦い、直義と師直の抗争、直冬との戦。
従来の大河ドラマと違い、勝っては負け、負けては勝ちの繰り返しが延々続く。最後は病と歳ですっかり老人となった尊氏は輿に乗ってでも指揮を執る痛々しい姿。
けっこう見応えありますよ。
かつての皇国史観では、幕府を裏切って朝廷につき、その朝廷を裏切って天下を奪った権謀まみれの野卑なキャラでしたが、そういう意味で「太平記」は画期的でした。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 現実の尊氏に近そうなキャラですね。
前にも書きましたが、CSでの放送が待ち遠しいです。
ぴーち おはようございます!
この時代は随分と目まぐるしい展開が続いていたのですね。
当然ながら私の頭の中も混戦気味です(^^ゞ
しかしながら
人を騙す人の方が悪いとは言いますが、騙されてしまう方にも、相手の本意を見ようとしなかったり、或いは自分にはそういう災難は絶対降りかからないだろうと頭から信じこんでいたりする面があるので、尊氏もその優しさから、相手を容易く信じこんでしまう所があったようですね。
詰めの甘さが露呈してしまっているように感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当めまぐるしいですね。
室町時代の分かりにくさを象徴しているようです。
騙し合いが良いことだとは言えませんが、確かに尊氏の優しさが「甘さ」となってしまった感があります。
そもそも宿敵ともいえる南朝が、尊氏の出した条件で満足するとは思えないはずなのですが、それもこれも原因は尊氏にありますからね。
南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も、北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。
義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁親王(いやひとしんのう)を神器も後見役となる上皇の存在もなしで無理やり後光厳天皇(ごこうごんてんのう)として即位させましたが、天皇の正当性としては神器を所有する南朝に遠く及(およ)ばず、北朝の権威(けんい)が著(いちじる)しく低下するという悪影響をもたらしてしまいました。
ちなみに、こうした北朝の権威の低下が後の「ある足利将軍」の「大きな野望」へとつながっていくことになります。
なお、尊氏は翌1353年にようやく京都へと戻りましたが、その後も直冬の攻撃を受けるなど混乱が続いた後、自分の代で平和を達成できぬまま、1358年に54歳で死去しました。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この足利尊氏については、自分自身、思い当たることがあり、
大変、勉強になりました。
私も
『八方美人で、優しいだけで、リーダーシップ力がない。』からです。
その結果
いつも、
自分自身も疲弊し、周りも迷惑を掛けています。
人間は、神様ではないから、八方美人自体、
現実的には、不可能かもしれませんね。
自分が決断を持って、行動すると必ず、反対者が出て、争いが起こることは、事前に考えていないといけませんね。
本当に歴史は、人間が生きる教訓がありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、そうなんですか。
現代においても歴史は様々な教訓を残してくれますね。
私も他人様のことは言えませんが…。
オバrev 個人的事情で忙しかったものですからご無沙汰してました。
1週間分をまとめて見ましたが、まず義詮の読み方が分かりません(T_T)読み仮名がなかったように思いますが?
尊氏がそういう性格だったとは意外ですね、というか珍しいですね。戦争にどう戦うかは得意だったけど、それ以外はからきしダメだったんですかね。
ある足利将軍って、TVにもでていたあの人ですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 年度替わりですからね。お忙しい中お言葉くださって有難うございます。
義詮は「よしあきら」と読みます。4月6日の更新で紹介したんですが、かなり前ですからね。どうも失礼しました。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1251.html
仰るとおり、根っからの武人にしては珍しい性格です。「それ以外はからきしダメ」とは手厳しいですが、あながち間違いではないかもしれません。
> ある足利将軍って、TVにもでていたあの人ですか?
さぁ、誰でしょうか(笑)?
第30回歴史講座までしばらくお待ちくださいm(_ _)m
不安定な幕府。
晴雨堂ミカエル そのある足利将軍にしても、全国を平定できた訳ではありませんから、盤石の江戸幕府とは雲泥の差ですね。
2つの朝廷、幕府も内部に鎌倉という「幕府」を設けましたし。この時代は御所とか公方があちこちにできて、政庁の価値が下がるのは戦国時代の前触れでもありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、常に不安定な要素を抱えていた室町幕府はとても天下を取る器ではなかったということになります。
戦国時代の前兆も、確かに尊氏の時代からうかがえますね。
ぴーち おはようございます!
肝心要の三種の神器が奪われてしまっては
無理やり天皇に仕立てて、体裁を繕っても
「仏作って魂入れず」。
尊氏の生き方も結局そんな最後を迎えてしまった
のですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
尊氏自身の優柔不断で、何もかもが体裁だらけの中途半端な最期になってしまいました。
そのツケが後の幕府将軍に重くのしかかってしまいます。