しかし、余(あま)りに多くの案件(あんけん、問題となっていることがらのこと)がご自身に殺到(さっとう)したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟(そしょう)を扱(あつか)った、旧幕府の引付(ひきつけ)に相当する雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを置かれました。
この他にも北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞(おんしょう)を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護(しゅご)が並(なら)んで置かれました。
また、天皇ご自身が軍隊をお持ちでない代わりに子の護良親王を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたほか、旧幕府の本拠地(ほんきょち)であった関東や東北にはそれぞれ鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)や陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれています。





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オバrev いよいよ建武の新政ですね。
なかなか皆が納得する恩賞とはいかなかったんでしょうね。特に尊氏、楠木正成、新田義貞らに対する恩賞は差があったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 恩賞の中心は、ほとんどが皇族や公家でした。
武士には高氏などのほんの一部にとどまったことが、後に大きな影響を与えることになってしまうのです。
もっとも、高氏には天皇から「破格の恩賞」が与えられるのですが…。
ぴーち おはようございます!
そうですよね。何もかも自分一人でこなそうとしても、あまりに多くの案件が殺到すれば、対処に苦慮してしまいますものね(^_^;)
この頃から次第に現代に至るまでに継続されている役所が確立されていったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに役所に任せておけば大丈夫ですからね。
自身が優秀であると思う人物は、何もかも自分でやろうという傾向がありますが、それは人間不信にもつながっていますね。
秦の始皇帝などがその例だと思います。
ご自身が幕府を倒すために何度も討幕の兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このまま天皇による新政が未来永劫(みらいえいごう)続くとお考えでした。
しかし、後醍醐天皇に味方して幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰(おとろ)えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による政治」を続けることを望(のぞ)んでいました。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家(くげ)のための政治のみを実行されるだけでなく、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満が次第に高まってきました。
平家による政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その支配は絶対に長続きできないのです。この場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応(こた)えられなかった建武の新政にはかげりが見え始め、やがてそんな不穏(ふおん)な空気を察(さっ)したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉(えいよ)」を受けたはずの一人の武士が、建武の新政に反旗(はんき)をひるがえしたのでした―。





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晴雨堂ミカエル 20年近く前、大河ドラマ「太平記」で詳しく描写されていました。
真田広之氏が尊氏を演じ、スタント無しで流鏑馬や馬を寝かして草むらに隠れる騎馬術を魅せてくれました。
弟直義をいま離婚問題で揺れている高嶋弟。真田尊氏と並んだら本当の兄弟の様でした。
後に尊氏と権力闘争を行い、兄弟で言い争う様が迫力。
北条守時の妹で尊氏の妻は沢口靖子氏、清純な少女時代から優柔不断な尊氏の尻を叩く妻へと変化、今のキャラの兆しがあります。
当時二大美少女といわれた宮沢りえ氏が尊氏の恋人で後の足利家争乱の元になった直冬の母。
後藤久美子氏が北畠顕家に扮し軍事貴族を演じ意表突く。
近鉄長野線では楠木正成に扮した武田鉄矢氏のポスターがあちこちに貼られました。
大河にしては珍しい時代を扱ったわりに視聴率が良く、ブームになっていたように記憶しています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大河ドラマの太平記は名作のようですね。
近頃の大河ドラマの質の低下が叫ばれる中、昔に返って良作のドラマを見た方がためになるかもしれません。
このように身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまで名乗っていた高氏の「高」は、北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた者」として虫けらのような存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後(くうぜんぜつご、過去にも例がなく、将来もありえないと思われること)のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に代わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、1335年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代の乱(なかせんだいのらん)を起こし、一時期は鎌倉を占領(せんりょう)しました。尊氏は乱の鎮圧(ちんあつ)を口実(こうじつ)に後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留(とど)まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反(りはん)する姿勢を明らかにしました。





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ぴーち おはようございます!
足利尊氏は、北条氏に仕えていた時から
ずっと面従腹背の姿勢を崩さずに、立身出世を目指して来たのですね。
虎の威を刈る狐の如く見えるのは私だけでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 尊氏にはもちろん尊氏の考えもあったでしょうが、仰るようなイメージがどうしてもついて回りますね。
結局は後醍醐天皇をも裏切ることになるのですが、このあたりも尊氏の印象を損ねてしまっているようです。
意外でした
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏が、偏諱を受けたのは、武士として
過去に例がないというのは、驚きました。
ということは、
太政大臣にもなった平清盛
征夷大将軍になった源頼朝
も偏諱は、なかったのですか。
ということは
ケガレタ存在の武士には、官位を与えることは
あったも、偏諱はなかったのですね。
よく、考えたら、織田信長、徳川家康、徳川歴代将軍も天皇からの偏諱は、受けてませんね。
後醍醐天皇の足利高氏への信頼は、絶大で、
まさに、愛情に近いものだったのですね。
青田さんへ
黒田裕樹 皇族将軍の宗尊親王から諱を受けた北条時宗のような例はありますが、時の天皇から直接受けた武士としては尊氏だけですね。
それだけに、後醍醐天皇を裏切ったことが特に戦前までにおいては悪評の原因となってしまっているのが何とも言えません。
ててててっちゃん 足利高氏が尊氏となったとは知りませんでした。
なかなか興味深いですな。
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 高氏から尊氏への改名はあまり知られていませんからね。
後醍醐天皇の期待度の大きさがうかがえますが、それだけに裏切ってしまうとなると…。
都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上(とうじょう)しました。
尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津(せっつ)の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎(むか)え討(う)つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。この戦いは湊川の戦い(みなとがわのたたかい)と呼ばれています。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明天皇(こうみょうてんのう)が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦(わぼく)に応じて天皇であることを証明する三種の神器(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野(よしの)へ向かわれました。
吉野に到着(とうちゃく)された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物(にせもの)であると宣言(せんげん)されて、新たに朝廷を開かれた後、1339年に崩御されました。こうして京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、以後約60年にわたって争いを繰(く)り返す南北朝の動乱が本格的に始まったのです。





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ぴーち おはようございます!
日本の国土全体を舞台にして、追い詰め合う後醍醐天皇と尊氏の一連の流れが手に取るように分かりました。理解しやすい記事をいつもありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも励ましのお言葉を有難うございます。
文章としては短いですが、その中で一連の大きな流れをほぼ入れることができて良かったです。