軍役による御家人の負担(ふたん)は大きいものがありましたが、活躍次第(かつやくしだい)では新たな所領を得られるため、御家人たちはそれこそ一所懸命(いっしょけんめい)に務(つと)めていたのです。しかし、時が流れるにつれてこうした「御恩」と「奉公」の関係は崩(くず)れていきました。
当時の武士の社会では一族の子弟たちに所領を分け与えるという分割相続(ぶんかつそうぞく)が一般的でしたが、これを何代も行っているうちに所領が細分化(さいぶんか)して農業収入が減少するのに対して、幕府への奉公が変わらずに続いたため、必然的に困窮(こんきゅう)するようになってしまったのです。
やがて御家人の多くが借上(かしあげ)や土倉(どそう)といった業者(ぎょうしゃ)から借金をし始めましたが、借金を返済できなかった御家人の中には担保(たんぽ)として自らの所領を奪(うば)われてしまう者も現われるようになりました。
これら御家人の困窮をよそに、幕府では執権(しっけん)を務めていた北条氏(ほうじょうし)の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)の権限が強化されるという得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)が行われたことで、御家人の心が幕府から離(はな)れるとともに、不満が高まっていきました。





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オバrev 確かに、現場の声が届かない政治は見捨てられますよね・・・って、現代の話?(;・∀・)
得宗専制政治って、長男が日本史やっている時に初めて知りました。つまり私が高校の時には知らなかったんです(^_^;)
理科系でしたから日本史を詳しくやったわけではありませんが、日本史の授業はまじめに聞いてたけど私の勉強不足ですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに現代に通じる話ですね。
現場の声が届かないどころか、頼みもしないこと(=人権救済機関設置法案)もどさくさに紛れてやろうとしていますし。
得宗については、実は私も記憶が薄いんですよ。
社会人としての充電期間が長いと、こんな時に答えられなくて申し訳ないです。
分割相続
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦後、日本は、分割相続になりましたが、
やはり、弊害が出ているみたいです。
たとえば、
子供が男子、女子の場合でも分割相続です。
こうなると、
女子は、他家に嫁に行っています。
もし、両親が亡くなった時、長男は、
両親の世話をし、家を守る責任を持っているのに
他家に嫁に行った女子にも、同じように相続されます。
それなら、同じように他家に嫁に行っても
自分の実家に責任を持たないといけないと思うのですが。。
どうも、相続について、権利のみで、責任の所在が明らかになりません。
こういうことが、遺産争いになり、さらに無縁社会になっていると思うのですが。。
ただ、幸か、不幸か、
少子高齢化で、子供がこれから、一人っ子になるので、相続については、分割相続について、問題は、起こりませんね。
ただ、40年後には、日本の人口は7000万人になるので、いったい、どういう社会になっているか
予測できませんが。。
青田さんへ
黒田裕樹 分割相続は一見平等ですが、弊害も大きいんですよね。
かと言って単独相続が万能とは限りませんが、家族を守るという意味では有効かもしれませんね。
仰るとおり、我が国の将来は予測が付かないところがありますね。
ぴーち こんにちは!
確かに分割相続を長年続けていれば、細分化されて
収入は少なくなってきますね。
ある程度、奉公期間というのを設けて、一定の期間が過ぎれば、奉公しなくて済む方法は無かったのでしょうか。或いは収入に応じて、固定された金額ではなく、臨機応変に変動性的な金額を設ける事も無かったんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史上は分割相続がどうにもならなくなってからようやく単独相続に切りかわっていますが、時すでに遅しですね。
制度というものは、いつの世もそう簡単には変えられないという教訓でしょうか。だからと言って現代においても同じことを続けてもらっていては困るのですが…。
1246年、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が子の後深草天皇(ごふかくさてんのう)に譲位(じょうい)されて院政(いんせい)を始められると、その後に後深草天皇の弟である亀山天皇(かめやまてんのう)に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁親王(よひとしんのう)を皇太子にされました。
その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇=ほうおうとなられました)が1272年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御(ほうぎょ)されると、幕府は世仁親王を後宇多天皇(ごうだてんのう)として即位(そくい)させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁親王(ひろひとしんのう)に決めました。
要するに、幕府の調停によって後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。
こうした両統迭立(りょうとうてつりつ)が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統(けっとう)に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互(たが)いに激しく争(あらそ)うようになりました。





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来栖 はじめまして。
いつも楽しく読ませて
頂いております。
最近、日本史に興味があり
歴史の本など読むようになりました。
疑問に思うことがあり、
一点質問させてください。
お時間がありましたら、是非
お答えして頂きたく思います。
鎌倉幕府、江戸幕府で武家が
政治を行っている時代で、
公家の人々は具体的に何をやってたん
でしょうか?
どうも、この公家の役割がよくわかりません。
ぴーち おはようございます!
関係が良好なうちは、両天皇もそれなりに
互いの存在を認め合いながら進行出来ていたものの、どちらともなく欲が出て、我を主張し始めるようになると、途端にもろくも関係が崩れ去る。
一方、党派寄せ集めの政党なども直ぐに仲間割れして、内輪もめが絶えず、結果的に国民そっちのけになってしまうのは、世の習いであると言えましょうか。
国民がその道理をもっと理解していれば、知名度の高さだけを売り物にしている様な無能な政治家に一票を投じる事も無くなるのかも知れませんね。歴史を学び、理解していく事が今さらながら大切であると感じます。
やはり上に立つものは、一統であるべきですね。
応援凸
来栖さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
ご質問の件ですが、公家は鎌倉幕府の当初は西国の政権に影響を持っていたのですが、承久の乱で幕府が西国にまで支配を強めると次第に有名無実化していきました。その後の公家たちは、かつての栄光を懐かしみながら、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)の研究を盛んに行うようになります。
江戸幕府の頃も基本的に変わりませんが、徳川家が皇室の影響を抑えるために禁中並公家諸法度によって公家の地位を高めたことで、実権こそなかったものの優遇された傾向にあるといえますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、両統迭立には無理がありすぎますね。
調停を頼まれた形になった幕府もたまったものではなかったかもしれません。
その流れは現代においても同じだというのは私も同感です。
後醍醐天皇は討幕(とうばく)の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。なお、1324年に起きた一回目の討幕は正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれ、二回目の1331年は元弘の変(げんこうのへん)と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を皇位にたてましたが、後醍醐天皇が退位を拒否(きょひ)されたため、お二人の天皇が並立(へいりつ)されることになり、これが南北朝時代のきっかけとなったのです。
さて、後醍醐天皇が京都から追放されてしまわれたものの、子の護良親王(もりよししんのう、または「もりながしんのう」)が父の意志を継(つ)ぐべく諸国の兵を募(つの)って幕府に抵抗(ていこう)し続けたほか、幕府に対抗する武士団という意味の悪党(あくとう)の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)は、河内(かわち、現在の大阪府東南部)の赤阪城(あかさかじょう)や千早城(ちはやじょう)に立てこもって幕府の大軍と戦いました。
正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度(こうけんど)は絶大でした。なぜなら鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻(せ)め込みながらわずかな兵の正成の軍勢(ぐんぜい)に勝てないということは、それだけ幕府の威信(いしん)に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。





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なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
楠木正成・・・。
真の名将にもかかわらず、とりあげられることが少ない武将ですね。
報われることの少なかった悲劇の武将について今は学校で学ぶ機会はないのでしょうか?
是非、その生涯と思想をクローズアップして欲しいです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 楠木正成は戦前までに名将と称えられてきただけに、戦後の反動がいまだに大きいようですね。
イデオロギーとは全く別の問題で彼を評価すべきですので、私も残念に思っております。
ぴーち おはようございます!
ここでまた「影の重鎮?」後醍醐天皇が
登場してきましたね(^_^;)
彼も相当しぶといイメージがありますが、
彼の味方についた者たちも、性格がしぶとい
人材が集まっていたんですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 後醍醐天皇のしぶとさもそうですが、彼の周りの武将たちもしぶとかったのは、やはり「鎌倉幕府には任せておけない」という拒否反応が強かったからではないかと思われます。
そのしぶとさがやがて大きな影響を与えるんですよね。
討幕の軍勢が自然と増加していった1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出(だっしゅつ)され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵(きょへい)されました。この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚関係(いんせきかんけい、婚姻によってできた血のつながりのない親戚=しんせきのこと)にあった有力御家人を現地へ派遣(はけん)しましたが、実はその御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ)でした。
足利高氏は清和源氏(せいわげんじ)の一族であった源義家(みなもとのよしいえ)の子孫であり、北条氏の御家人の中でも名門の出身でしたが、鎌倉幕府の威信が地に堕(お)ちた現実を見極(みきわ)めた高氏は、幕府に背(そむ)いて謀叛(むほん)を起こすことを決断しました。
高氏は他の反幕府勢力を率(ひき)いて京都へ入り、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅(ほろ)ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙(あ)げて鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒(いっしょ)に鎌倉を攻めました。5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)らを自害に追い込んで、源頼朝(みなもとのよりとも)以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡(めつぼう)しました。





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サクラ 懐かしい響きです。名和長年。
小学校の時、三つの学校が合同で船上山への登山をしました。御存じかもしれませんが、後醍醐天皇が立て籠もった山ですよ。茶園原という原っぱで肝試しとかしました。巨大な石を山の上から転がして、佐々木清高の兵を殺戮したところです。
鳥取が歴史の表舞台に立つことは稀ですから、こういうのが出てくると嬉しくなります。
ぴーち おはようございます!
足利高氏は、元はと言えば幕府側の人間であって、
幕府からは信頼されていた存在が、突然謀反を起こしたとなると幕府側からすれば、密かに天下人の野望を燃やしていた獅子身中の虫であった訳ですね。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 そうですね。
地元が歴史に出てくれば嬉しいものです。
後醍醐天皇が籠られた、というところも一つの名誉ではありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合の高氏の立場は、まさに仰るとおりですね。
その中には「源氏の血を引く自分こそが天下人にふさわしい」という自負もあったと思われます。
高氏の決断は決して許されないものではありませんが、こうした姿勢が後々まで彼を「裏切り者」にしてしまうところが歴史の皮肉でもあります。