源氏や北条氏(ほうじょうし)、あるいは足利氏や徳川氏といえども、当時の国民(あるいは武士)の支持を受けていたとはいえ、平家と同じ武家政権であることに変わりはありません。それなのに彼らの政権は平家と違って長く続きました。
その理由として考えられるのは、それぞれの政権が前任者の「失敗」を教訓としてきたということです。その具体的な内容について今回は省略しますが、人間というものはそもそも失敗から成長するということを考えれば、それも道理ではあります。
ということは、人間は前例のないことに関しては戸惑(とまど)うとともに、それが失敗すれば大きく反発(はんぱつ)するものでもあるということです。我が国で初めて武家政権を樹立した「開拓者」であった平家は、それゆえに滅亡するという「悲劇」を経験することになったのですが、彼らの足跡(そくせき)はその後の我が国の繁栄(はんえい)には絶対に欠かすことができません。
我が国の歴史における大きな流れに偉大(いだい)な功績を残した平家の生き様を学ぶことで、私たち自身が人生の幅(はば)を広げるとともに、次代に未来を託(たく)せるような日々を送りたいものですね。
(※第28回歴史講座の内容はこれで終了です)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
源頼朝は、源義経のような平家にたいする怨念が
小さかった気がします。
・ 源頼朝の流人の生活は、自由で、比較的安定していた。(罪人の島流しのようなものではなく)
・ 平家打倒を祈ると同時に、藤原秀衡の調伏もしている。
・ 平家打倒の動きは、慎重で、鎌倉幕府の組織創りのほうを優先していた。
挙兵して間もなく、侍所を設置している。
・ 平家打倒の途中で、同族の源義仲、源行家も討伐している。
もちろん、流罪にされたので、平家にたいして、
悪い感情は、有ったとは思います。
頼朝の行動を観ていると、平家打倒よりも武家政権の樹立の尽力している気がします。
それにしても、源頼朝の行動が恐ろしく、冷静で、慎重で、確実なことで、驚かされます。
ぴーち おはようございます♪
なるほど、武士の創世記頃は失敗を教訓にし
次の成功に結びつけながら、ゆっくり、力強く
押し進んで行ったのですね。
その頃の蒸気機関車の様な歩みから、現代のような超特急的な流れになるまでは、失敗を教訓にし、既存概念に固執する形で積み重ねられて来た様々な教訓が生かされ続けた時代であったかも知れませんが、
現代はその既存概念を破るような新たな発想力や行動力が求められているという新たな打開策が求められ始めている時代に私達は義経の様な指導者を求めれば
良いのでしょうかね・・・?
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 「政治家」の頼朝の行動は、仰るとおり恐ろしく冷静ですね。
恐らくは石橋山の戦いで生命の危機にさらされたことが彼をそうさせたのかもしれません。
一方、猪武者で打倒平家しか考えられない義経は常に戦いの中にありました。
二人はそれぞれの役割を受分に果たしたということなのでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
今は明らかに非常時ですので、義経のような大胆な行動力が求められることは間違いないでしょう。
しかしながら、国家百年の計を見極める眼力が彼にあるとは思えません。
だとすれば、義経をコントロールできるだけの頼朝のような存在が同時に必要なのかもしれませんね。
そして、その二人の活躍を一挙に行えるのが信長といったところでしょうか―。