1107年、清和源氏の出身である源義家(みなもとのよしいえ)の子の源義親(みなもとのよしちか)が出雲(いずも、現在の島根県東部)で反乱を起こしましたが、翌1108年に平正盛によって滅(ほろ)ぼされました。
この功績によって正盛は白河法皇(しらかわほうおう)の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士(ほくめんのぶし)として登用(とうよう)されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も瀬戸内海の海賊(かいぞく)を討(う)ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇(とばほうおう)に信頼され、武士として初めて昇殿(しょうでん、朝廷の内部深く入ること)を許されました。いわゆる殿上人(てんじょうびと)のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従(したが)え、平家が繁栄(はんえい)する基礎(きそ)をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留(とど)まることを知らず、12世紀半(なか)ば頃に起きた二つの大事件によって、平家が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが平清盛だったのです。





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れいこ♪ はじめまして。
いつも訪問ありがとうございます。
私もいつも読み逃げでごめんなさい。
お誕生日おめでとうございます♪
私の兄とお誕生日が一日違いなのですよ。
兄は昭和44年2月16日生まれ。
私は歴史が苦手なのです。
よく分からないのです。
理系だったから・・・を理由に
避けてきました。
年号の丸暗記だけの歴史でしたから。
でも、勉強したいとは思っているんです・・・
全く分からないから。
そして、知りたいから。
だから時々読み逃げさせてもらっていました。
どうしてもはじめから覚えないと、いけないような気がして、きっと面白くなる前に挫折してしまっています。
上の子が歴史を習うようになったら
もう一度一緒に勉強していけたらな~って思っています。
また、よらせてもらいます。
いつもありがとうございます。
れいこ♪さんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
お兄様と一日違いですか。凄い偶然ですね。
歴史は暗記物ではありませんからね。覚えさせるだけでは苦痛でしかありません。
お子様ともども、当ブログがお役に立てれば幸いです。
ぴーち おはようございます!
平氏の躍進の理由は、単に武力だけの力任せではなく
上手く利用していこういう知恵にも長けていたのですね!
応援凸
なおまゆ お誕生日おめでとうございます。
今後の活躍を祈念致します。
経営者の講演会、大変でしょうが地道な啓蒙こそが国を救うと思います。(大袈裟ですが・・・)
季節柄、体調を崩しやすいのでご自愛下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、単なる武力だけではここまで勢力を拡大できません。
政治の世界でも上手に立ち回れる「知恵」が出世に欠かせないのはいつの世も同じですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回のご依頼はまさに「青天の霹靂」でしたが、ご参加の皆様に満足いただけるよう頑張ります。
現場で奮戦しておられる経営者の皆様には本当に頭が下がりますね。
Y.Kotani 後れましたが、お誕生日おめでとうございます。
黒田先生は、いいお声をしてらっしゃいますね。
私なんぞ、過去に講義してた事もあるのですが、ハスキーボイスで声が通らなくて(;∀;) 。
平家のお話、勉強になります。保田与重郎の関連で「平家物語」を読まないといけないんですが。後回しにしてばっかりです。
Y.Kotaniさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
声に関しては両親からの授かりものですからね。感謝しております。
日常が忙しいと、どうしても後回しになるものがありますよね。私もいわゆる「積ん読」が多くて困っています。
院政によって上皇(=法皇)の地位は「治天の君(ちてんのきみ)」と称(たた)えられるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、皇位の継承(けいしょう)に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁親王(あきひとしんのう)を大変可愛(かわい)がられ、親王が5歳になられた1123年には崇徳天皇(すとくてんのう)として即位(そくい)させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金(がね)となった我が子の崇徳天皇に対しても良い感情を持たれなくなりました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。





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晴雨堂ミカエル 百人一首の中で崇徳院の歌が一番好きですね。
せをはやみ 岩にせかるるたきがわの われてもすえにあわんとぞおもふ
崇徳院の家庭はドロドロで愛憎骨肉、ある意味、生々しく人間臭い。
晩年はザンバラの髭面、妖怪みたいな容姿になったとか。呪いの世界では有名人です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、崇徳上皇にまつわる伝説は凄まじいものがありますね。
「呪いによって武家に政権が奪われた」ことにもなっていますし。
明治天皇も即位の礼の前に勅使をつかわされておられます。
ぴーち おはようございます!
何故に白河法皇は、鳥羽上皇を差し置いて
年端も行かない孫に天皇を即位させて
しまったのでしょうか。
そこにはただ寵愛していただけという理由しか
無かったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 白河法皇は藤原璋子を大変可愛がっており、彼女が生んだ顕仁親王を何としても天皇に即位させようとしたのが真実のようです。
その寵愛ぶりから「顕仁親王は白河法皇の隠し子である」というとんでもない俗説が鎌倉時代にささやかれる有り様でした。そして、それをさも現実であるかのように筋書き立てているのが今年の大河ドラマなのです。
しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇としては崇徳上皇の子である重仁親王(しげひとしんのう)が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌(きら)われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁親王(まさひとしんのう)を後白河天皇(ごしらかわてんのう)として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷(れいこく)ともいえる仕打ちに対して激怒(げきど)された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
こうして1156年7月、兄弟や親子、さらには叔父(おじ)と甥という血族同士が相争(あいあらそ)う戦いが始まってしまいました。これを当時の年号から保元の乱(ほうげんのらん)といいます。





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ぴーち おはようございます!
現代でも毎日のようにニュースで
子供が親を、親を子供を、あるいは兄弟同士の言い争いの末に相手を殺めてしまった・・という
悲劇が報じられていますが、天皇家の血族の争いとなれば、スケールも違いますので、国全体がその争いごとに巻き込まれてしまい兼ねない事態に陥ってしまい、国民にとっては迷惑千万な事だったでしょうね(^^ゞ
それにしても、身近に存在する家族の欠点はすぐ近くに居る分、どうしても目についてしまうものですが、親子や兄弟だから何を言っても許されるという甘えが悲劇を齎す事が多いようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室に内乱が生じれば我が国全体を揺るがす大事件につながってしまいますからね。
近親憎悪の世界は一般に限ったことではないということなのでしょうか。
源氏
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私の住んでいる兵庫県川西市の多田は
摂津源氏の発祥の地でして
源満仲がいたそうです。
(多田源氏)
実は、三矢サイダーも私の家の近くが発祥の地なのですが、
この三矢サイダーのネーミングは、
源満仲が住吉大社の御神託で、放った三つの矢
が多田の地に刺さったという神話から、つけたそうです。
そういうこともあり、毎年、家の近くでは
「源氏祭り」が行われます。
青田さんへ
黒田裕樹 源満仲は「ただのまんじゅう武士のはじまり」の言葉でも有名ですね。
私のブログでもかつて紹介したことがありますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-297.html
1158年、後白河天皇は子の二条天皇(にじょうてんのう)に譲位(じょうい)され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激(はげ)しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞(おんしょう)が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる日宋貿易(にっそうぼうえき)を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁(なんきん、身体は自由にしておくが、外部との接触を許さない状態におくこと)したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲(おそ)われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されました。この戦いは当時の年号から平治の乱(へいじのらん)と呼ばれています。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
個人的には、源義朝に同情してしまいます。
やはり、政治力・軍事力においても
平清盛のほうが一枚も二枚も上手ですね。
ただ、惜しむべくは、源義家が
前九年の役、後三年の役で、八面六臂の活躍をし、白河法皇に昇殿を許されたので、平清盛より、早く、武家政権を創れるチャンスがあった気がしますが
いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに義家にはそのチャンスがあったかもしれません。
しかし、本拠地が東日本と西日本とでは京都に近い平家の方が有利ですし、子の義親が反乱を起こしてしまったところで勝負ありでしたね。
それ以前に平忠常が反乱を起こした際には源氏が有利だったのですが、時流に合わなかったのかもしれません。
ぴーち おはようございます!
崇徳上皇はまだ訳の判らない年頃に天皇に任命させられて、挙句に後白河天皇に恨まれ、その後処刑されたとは、他人に運命を翻弄されながら生きたなんとも哀れな人生だったのですね(*_*;
それにしても後白河天皇の怒りや野望は情け容赦のなく鬼畜化していたようですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、崇徳上皇は運命にふり回された一生をお過ごしだったといえそうですね。
後白河天皇ですが、反乱者を処刑する際に自らが行えば「ケガれる」とお考えだったようで、武士に「後始末」を任せておられますが、その際に清盛や義朝に近親者を自ら処刑させておられるようですね。身分の高さが仇になったのかもしれません。
選挙という民主的な手段がある現代とは違(ちが)って、昔は政敵(せいてき)とみなされた人物は本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常(つね)でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨(うら)みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐(ふくしゅう)のために生命を奪おうとするのが十分考えられたからです。
こうした原則から考えれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ふうぜんのともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には二人の女性が存在していたのです。





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晴雨堂ミカエル 頼朝はこの清盛の温情を戦訓にして、義経をはじめ反鎌倉勢力と見なしたら躊躇なく滅ぼしたかもしれませんね。
その結果、源氏の弱体化をまねき、頼朝の血筋はその息子たちで終わり、平姓の北条氏に幕府を乗っ取られる。
皮肉ですな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、過去を見事に教訓とした頼朝ですが、同時に「過ぎたるは及ばざるがごとし」でしたね。
それを見事にカバーしたのが徳川家ということにもつながります。歴史は流れですね。
ぴーち おはようございます!
昨日の夜、母が居間でテレビを見ていたので、何を見ているのかと思い立ち止まりましたら、NHKのチャンネルでした。恥ずかしながら、初めて大河ドラマの「平清盛」をチラ見しました(^^ゞ
母は毎週欠かさず見ているようですが、私はどうもテレビ番組を見る余裕が無くなってしまっている様です(^_^;)
女性の存在。。
どんな方なのでしょう^^
女性はなかなか表舞台に登場する機会に恵まれませんが、英雄と呼ばれる男性の影には必ずと言って良い程、献身的に支える女性がいるもとと思われます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史を陰で支えたのは多くの名もない女性たちでした。
そして、今回の場合は平家にとって陰で支えるどころか、全く逆を行ってしまうのです―。
はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議(こうぎ)したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世(ぜっせい)の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命(じょめい)されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平家の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢(いきお)いであった清盛が気づくはずもないことでした。





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なおまゆ 母の愛の変形が歴史を変えたんですね。
禍根を断つ、非情になりきれなかった清盛ですが、やはり、家庭環境がよかったんでしょうか?
平家一門は、仲がよかったと聞いてます。
源氏と違って天下を取れなかったのはその辺りにも原因があるのかもしれませんね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、身内に対して非情になりきれない清盛の判断が運命を変えてしまいましたね。
身内の結束は良いことですが、それで本家を滅ぼしては意味がありません。
そして、その教訓を身をもって知っている頼朝だからこそ、あそこまで非情になれたのでしょうね。
ぴーち おはようございます!
池禅尼は
「わが子に似ているから」ですかぁ・・
光市母子殺害事件の被告も
母への面影を求め、抱きつきたかったからなどと
と言っていましたが、
親子の愛情は普遍ではあるものの、
それを他に求めたことにより、
一方は、その理由で命が助けられ
一方では、その理由で命が奪われてしまった・・。
親子の愛情に触れる事は言わば心の琴線に触れる事と同じなので、それを引き合いに出して、理由付けにすることは言わば一番卑怯な手段だとも思うし、それによって人の運命が変えられてしまうことは言語道断です。
それを卑怯な手段だと冷静に捉えた現代の裁判所の判断はやはり正しかったのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 誰かの何気ない一言が一族の運命を変えてしまう、というのも恐ろしい話ですよね。
光市母子殺害事件にご意見については私も全く同感です。
「言語道断な罪状に対しては法に基づき厳正に処罰する」。裁判所の当然ともいえる判断を私も支持します。
結果論なので
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
源頼朝、源義経の件は、後から、考えたらの
結果論だと思います。
なぜなら、もし、この二人が凡庸で、そのまま
平家政権が続けば、
平清盛は、慈悲深い武将と思われて、一生を終えたからです。
まさか、この二人があのような成長を遂げるとは。。
ネタバレになるので、ここで、止めておきますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますね。
ただ、私は頼朝や義経が凡庸だとしても、あるいは両者を殺していたとしても、平家の政権は多少の時間がかかっても滅んでいたと考えております。
その理由は…ネタバレになるのでまた後日の更新で明かしましょう(^^ゞ