平家の棟梁(とうりょう)である平清盛が政権を握(にぎ)ったのは平安時代(へいあんじだい)の末期ですが、そもそもこの平安時代が名前とは裏腹(うらはら)に、地方を中心に国全体で争いが絶えなかった時代でした。
その原因の根本(こんぽん)は、我が国直属の軍隊が廃止(はいし)されてしまったことです。9世紀の初めまでに東北地方の蝦夷(えみし)を討伐(とうばつ)して国内をほぼ統一した朝廷(ちょうてい)が、逆(さか)らう勢力も存在しないのに費用のかかる軍隊を所有する必要はないと判断したからでした。
その後は都である平安京(へいあんきょう)の周辺には現代の警察(けいさつ)に相当する検非違使(けびいし)が設けられたことで辛(かろ)うじて治安(ちあん)が守られましたが、地方においてはそれこそ何の対策(たいさく)も行われなかったのです。
その結果、地方では盗賊(とうぞく)を中心に力あるものが支配する世の中となったことで数多くの生命や財産が奪(うば)われることになり、やがて人々は自(みずか)らを守るために自然と武装(ぶそう)するようになったことが、武士が誕生するきっかけとなりました。





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オバrev なるほど~!武士が生まれたのは、力に頼るしかない状況になって、生まれるべくして生まれたんですね。
すっごく納得です(^O^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武士は生まれるべくして生まれました。
そして、それはあまりにも過酷な状況からの誕生だったんです(´・ω・`)
なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
武士の誕生は、自分なりに学んできました。ここを学んでこそ、平清盛の偉大さがわかります。その後の源頼朝の苦労も、義経の未熟さも理解できますよね。そして、『差別問題』についても。
今は、学校で習うんでしょうか?
私は倣った記憶が全くないので・・・。
20万ヒット
takechan0312 いつも講義ありがとうございます。
残念ながら直にお聞きする機会はありませんが、
歴史の勉強楽しみにさせて頂いてます。
19万ヒット達成のようですが、
ブログをオープンされてもうすぐ3年目ですね。
それまでには20万ヒットも夢ではないかな。
これからもおもしろい歴史のお話宜しくお願いします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武士の興(おこ)りをしっかり学ばなければ、その後の歴史について正しい理解を得られません。
差別問題は極めて重要な問題ではありますが、それだけに教育の世界においても慎重に行わなければいけませんね。
takechan0312さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、20万HITが目前に迫ってきました。来月でブログ創設3周年になりますが、今後も「分かりやすくて楽しい歴史」を目指して精進を続けていきますので、よろしくお願いします。
ぴーち こんばんは!
なるほど、いつの時代もその元号の意味とは全く裏腹な事が起こっていたのですね(^^ゞ
昭和時代が激動の年代であったので、次の元号は平和でありますようにと願いを込めたはずが、戦争こそ起こりませんが、それ以上に世の中が混沌としていて、泰平な世の中と呼ぶにはどうも辺りの視界が悪すぎですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時代の名称や元号に込められた願いと現実が裏腹になってしまうというのは皮肉でもありますね。
逆に言えば、乱れている世の中だからこそ、あえて穏やかな名称を求めるものかもしれません。
こうして誕生した地方の武士ですが、武士団の形成に関しては、実はもう一つの理由がありました。それは受領(ずりょう)と呼(よ)ばれた国司(こくし、地方の行政官のこと)の「おいしい」職務(しょくむ)に原因があるのですが、皆さんはお分かりでしょうか。
地方の役人である国司は徴税請負人(ちょうぜいうけおいにん)として一定の税を集めて政府へ送る必要があったのですが、これは定率の税さえ納めれば、残りは自分の取り放題となるということも意味していました。例えば、本来であれば20%の税を納めれば済むところを、50%をかき集めることによって、差額の30%をそのまま自分の利益にしてしまうことも可能だったのです。
このような「おいしい」国司には希望者が殺到(さっとう)し、貴族たちは様々な手段で国司などの役職を得ようとしました。例えば、朝廷の行事や寺社の造営を請け負って、そのかわりに国司などに任じてもらうという成功(じょうごう)や、同じ方法で引き続き同じ国の国司などに任命される重任(ちょうにん)などが盛(さか)んに行われるようになりました。





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晴雨堂ミカエル 今昔物語でしたか? むかし読んだきりなのでかなり忘れていますが、貧乏五位が大臣の宴会に出席して、甘づらをたらふく食べたいと呟いていたら、受領が任国に招待し、贅沢にダイナミックに甘づらを大量に作ってもてなし、五位はカルチャーショックを受けて、一口食べただけで「もう満腹です」。
これは何に書かれた物語だったでしょうか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 芥川龍之介の「芋粥」ですね。
「今昔物語」から題材をとっているようですが、原作と小説とでは若干ストーリーが異なるようです。
ぴーち おはようございます!
人間はおいしい話、手っ取り早く富を得たいという欲が強い為につい甘い蜜に吸い寄せられてしまう性を持っていますね(^_^;)
人間ばかりでは勿論ありませんし、生き物全体に言える現象でもあるでしょうけれど、そんな本能の欲するがままの生き方はどうも醜く感じてしまいます。苦い水、しょっぱい水、様々な味の水を経験して初めて甘い蜜がおいしく感じられるように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、このあたりの人間模様は醜くさえありますね。
このような欲望がやがてもう一つの「武士」をもたらすことになります。これもまた歴史なんですよね…。
国司たちは自己の任期中に土地を開墾(かいこん)できるだけ開墾して巨利(きょり)を得ましたが、任期中に開墾した土地を都へ持って帰ることはさすがに不可能でした。せっかく開墾した土地を他人に奪(うば)われるのは納得(なっとく)がいかないということで、任期が切れた後も地方にそのまま残って土着(どちゃく)し、同じように武士となっていく者も現れたのです。
受領から土着した貴族から武士となった者たちは、やがて各地の豪族が次第にまとまった地方武士団の中心となっていきましたが、その中でも特に有名だったのが桓武平氏(かんむへいし)や清和源氏(せいわげんじ)の出身者たちでした。
10世紀から11世紀にかけて平家や源氏は様々な興亡(こうぼう)を繰(く)り返しましたが、12世紀に入ると桓武平氏の流れをくむ伊勢平氏(いせへいし)が次第に頭角(とうかく)を現すようになり、清盛の祖父(そふ)にあたる平正盛(たいらのまさもり)によって平家は大きく飛躍(ひやく)するきっかけをつかむのです。





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晴雨堂ミカエル 兵庫県の井戸氏がなんか言うていますが、私は今年の大河ドラマは好感を持っています。
ただ、清盛たちの身なりはもう少し良かったのではないかと思います。
あのクラスは武士というより軍人貴族、五位の位階ですからくたびれた侍烏帽子ではなく、立烏帽子や狩衣くらい着せても良いような気がします。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私は見ていないのですが、清盛の待遇を不当に貶(おとし)めているようですね。
清盛は若い頃から他の武士に比べてずっと身分が高いのですが…。まあこれ以上書くとネタバレになりますので(笑)。
ぴーち おはようございます!
何となく私は武士と言うと
江戸時代の武士のイメージしかなく
自尊心の塊というか、常に
清廉潔白な生き方を
している様に
思えていたのですが、武士の起こりは
人間の執着心と強欲さが齎しさ産物だったのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
生への執着心だけでなく、強欲の産物でもあった武士。
綺麗事だけでは繁栄できないということなのでしょうね。