久重は突然襲った悲しみを振(ふ)り払(はら)うかのように、久留米藩で蒸気船の軍艦(ぐんかん)の購入に立ち会ったり、銃砲(じゅうほう)の製造に携(たずさ)わったりするなど精力的に活動を続けました。
江戸幕府が滅(ほろ)びて明治維新を迎える頃にも、久重は我が国初となる製氷機や自転車・人力車・精米機(せいまいき)・写真機、あるいは川の水を引き上げる昇水機(しょうすいき)など、日常生活に密着した様々な製品の発明や改良を行い続けました。
明治6(1873)年、75歳の久重は故郷を離(はな)れて新首都の江戸改め東京へと移住し、電信機(でんしんき)の製造など西洋技術の国産化に大きく貢献しました。
さらに明治8(1875)年には文明開化(ぶんめいかいか)の象徴(しょうちょう)とされたレンガ造りの建物が並ぶ銀座(ぎんざ)へと移り、「万般(ばんぱん)の機械考案の依頼に応ず」という看板(かんばん)を掲(かか)げた店舗(てんぽ)を構(かま)えました。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ビリーさん 今日時間をかけて黒田先生の第27回「黒田裕樹の歴史講座の報告」から
本日の最新記事までゆっくり拝読させていただきました。
あらためて黒田先生の造詣の深さに感嘆いたしました。生意気を言って
申し訳ありません。どうぞこれからもよろしくお付き合いください。
ありがとうございます。
ビリーさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつもご丁寧な励ましのお言葉を有難うございます。
これからもどうぞ拙ブログまでお越し下さい。
ぴーち おはようございます!
蒸気船から家電に次第に移行していった訳ですね。
田中久重は何か家電会社の創始者になった方なんでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 田中久重は何か家電会社の創始者になった方なんでしょうか・・?
鋭いですね(^^♪
その答えは今日(12日)の更新で明らかにしますので、今しばらくお待ちください。
マリリンカ おはようございます~(#^.^#)
いつも拝見しております~
この方がいなければ、今の進歩もなかったのでしょうか~何にしても最初の方は凄いですね(>_<)
久留米で勤めてました~懐かしく思いました~
久重氏には、故郷となる訳ですね~
大変、わかりやすかったです~ありがとうございます(^^♪
マリリンカさんへ
黒田裕樹 いつもありがとうございますm(_ _)m
マリリンカさんと久重氏にはそんなつながりがあったんですね。
人によっていろんな思い出があるのは素晴らしいことだと思います。
このように様々な発明や改良を行い続け、我が国の歴史に大きな足跡を残した田中久重でしたが、明治14(1881)年に83歳の長寿を全(まっと)うしてこの世を去りました。
久重の死後、養子が二代目田中久重を名乗って翌明治15(1882)年に銀座から東京の芝浦(しばうら)に移転して「田中製造所」を設立しました。田中製造所は明治37(1904)年に会社所在地の「芝浦製作所」に改名し、昭和14(1939)年には「東京電気」と合併(がっぺい)して「東京芝浦電気株式会社」となりました。
東京芝浦電気は昭和59(1984)年に「株式会社東芝(とうしば)」と商号変更して現在に至(いた)っています。田中久重が生涯(しょうがい)かけて築き上げた発明や改良における情熱あるいは探究心(たんきゅうしん)は、我が国が世界に誇(ほこ)れる複合電機メーカーである東芝に受け継がれているのです。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev な、な、何と!二代目田中久重は、東芝を興した人だったんですか(゜o゜;
初代が軽いものから重いものまで何でもできたように、現在の東芝も家電から軍事機器、はたまた原発まで、何でもできる我が国を代表する製造メーカーですからね。
その精神が生きているのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そうなんですよ。田中久重の業績が東芝にまでつながっているんです。
仰るとおり、複合電機メーカーとして何でもできる東芝は、久重の精神をしっかりと受け継いでいるといえるでしょうね。
ぴーち おはようございます!
東芝の起原が田中久重だったんですね!
私は会社名に興味があり、たまに調べたりしておりますが、東京の芝浦で設立された事で「東芝」だったんですね!初めて知りました♫
またひとつ勉強になりありがとうございましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今をときめく大企業の東芝ですからね。
それぞれに色々な由来がありますが、田中久重がかかわっているところが秀逸だと思います。