精煉方(せいれんかた)として着任した久重は藩主直正の期待に応え、1855年には蒸気機関車(じょうききかんしゃ)や蒸気船(じょうきせん)の模型(もけい)を完成させたほか、1862年には蒸気船の原動力となる蒸気釜(じょうきがま)を製作しました。
久重によるこれらの努力は我が国における蒸気機関の発達に大いに役立ちましたが、そんな彼が手がけたひとつの「最新兵器」が、我が国の歴史そのものを大きく変えることにつながったことを皆さんはご存知でしょうか。
その兵器の名を「アームストロング砲(ほう)」といいます。




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ててててっちゃん 黒田殿、お久しぶりです(^^ゞ
アームストロング砲は名前だけならしってます。どんな内容になるのか楽しみですな(´・ω・`)
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 > 黒田殿、お久しぶりです(^^ゞ
これはこれはお久しゅうござるm(_ _)m
> アームストロング砲は名前だけならしってます。どんな内容になるのか楽しみですな(´・ω・`)
是非とも次回を楽しみにしていただきとう存じます。
必ずやご期待に添えるものと信じております。
ぴーち おはようございます!
蒸気機関車、蒸気船
も田中久重がもたらしたものだったんですね!
全く存じませんでした(^^ゞ
やはり黒船の影響が大きかったのでしょうか?
そう言えば、黒船の黒い色は海水で腐食しないように、コールタールを塗った色だと聞いておりますが、蒸気機関車の黒もそういう意味合いだったんでしょうかね・・?
見た目からして、黒は強そうで威圧感さえ感じる色ですものね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 模型を作ってから実際に本物を製造するというのは定番ですからね。
久重の活躍がその後の我が国の蒸気機関の発達をもたらしたことは間違いありません。
蒸気機関車が黒い理由は蒸気船と同様に錆止めのようですね。あとは煙で汚れるのを目立たないようにするためでしょうか?
いずれにせよ威厳がありますよね。黒といえば、誰かさんはそれこそ「名前だけ」ですが(爆)。
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施条を付けたことによって、飛び出す砲弾(ほうだん)の飛距離(ひきょり)を延(の)ばすとともに弾道(だんどう)をぶれなくさせ、さらに命中精度(めいちゅうせいど)を高めるという優れた兵器となったのです。
アームストロング砲の優秀さを伝え聞いた佐賀藩では直(ただ)ちに大砲を輸入しましたが、それだけで満足するのではなく、当時の西洋の最新技術を駆使(くし)してつくられたこともあって、東洋人にはとても真似(まね)ができないであろうと思われたアームストロング砲を、そのままそっくり同じものを作ってしまったのです。
1863年に佐賀藩で完成した国産のアームストロング砲の製作にかかわった人物こそが田中久重でしたが、このアームストロング砲は江戸幕府が崩壊(ほうかい)した後に官軍(かんぐん)と旧幕府軍との間で1868年に起こった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で大いに活躍することになりました。




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ててててっちゃん アームストロングストロング砲すごいですな(*^_^*)
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 > アームストロング砲すごいですな(*^_^*)
確かに凄いでござる。
しかしながら、本当の凄さはこれから後になって初めて分かるのでござる。
明日(10日)の更新をお待ちなさいませm(_ _)m
ぴーち おはようございます!
大砲の筒の部分はそんな構造になっていたんですね!(゚д゚)!
なかなか大砲の筒の部分など、実際に覗いて
みる機会がありませんので、勉強になりましたm(_ _)m
それにしても、その頃の日本は技術面に対して西洋からは随分、
侮られていたものですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 砲身に施条を付けるのと付けないのとでは別物みたいになるそうです。
そんな工夫ができるのに人種は関係ないのですが、当時は「白人至上主義」ですからね…。
我が国にとっては受難の時代であり、立ち上がる時代でもあります。
アームストロング砲はその後も大いに活用され、同年の会津戦争(あいづせんそう)では会津藩(あいづはん)の鶴ヶ城(つるがじょう)を落城(らくじょう)させました。アームストロング砲によって激(はげ)しく損傷(そんしょう)した当時の鶴ヶ城の写真が今も残されています。
こうした功績が認められたことによって、明治維新(めいじいしん)以後のいわゆる藩閥政府(はんばつせいふ)において、肥前佐賀藩は薩摩藩(さつまはん)や長州藩(ちょうしゅうはん)、あるいは土佐藩(とさはん)とともに「薩長土肥(さっちょうとひ)」として並(なら)び称(しょう)されるようになりました。
また、佐賀藩出身の人材が明治政府に登用されたことで大隈重信(おおくましげのぶ)が活躍するようになり、やがて彼は明治15(1882)年に東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう)を設立しますが、これが今の早稲田大学(わせだだいがく)につながっています。
佐賀藩や維新後の大隈重信らの活躍、あるいは早稲田大学が現代においても慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)とともに「私学の雄」とされているのは、すべて田中久重が製作したアームストロング砲のお蔭(かげ)ともいえるのです。




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ぴーち おはようございます!
一人の発明家の存在が一つの藩の行く末に大きく貢献し、やがて日本という国の大きな発展に繋がっていったわけですね。今まで全く意識しておりませんでしたが、改めて田中久重という人物は偉大な方だったのだと思い知らされました。
海外では彼の名前は有名なのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一人の人物が歴史を変える。
それは歴史に残る政治家ばかりでなく、名もない発明家でもしっかりと出来ることですよね。
技術立国の我が国では、多くの技術者が同じように陰の存在として世界に貢献しているという話は有名ですし。
> 海外では彼の名前は有名なのでしょうか?
久重の場合、アームストロング砲よりももっと別の意味で有名になっていますね。
その「からくり」は今後の更新で明らかになると思います。
ててててっちゃん 鶴ヶ城の砲撃さえもがアームストロング砲によるものだったとはΣ( ̄□ ̄)!
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 > 鶴ヶ城の砲撃さえもがアームストロング砲によるものだったとはΣ( ̄□ ̄)!
そうなんですよね。
会津戦争は悲劇的ではありますが、その一方で新政府軍の勝利をもたらしたアームストロング砲の存在と、その後の歴史の流れを理解することは重要だと思います。
アームストロング砲
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、アームストロング砲は、
大砲の少し性能がイイものくらいにしか思っていませんでした。
ただ、司馬遼太郎氏の「アームストロング砲」を
読んで、驚きました。
この当時の、アームストロング砲は、今の
ミサイル(スカッドミサイル)だったんですね。
つまり、幕末の黒船は、船に大砲を積んでいるのではなく、船に、スカッドミサイルを積んでいるということです。
ただ、そう考えると、現在は、日本は、危険ですね。現在の日本は、
隣国の某国は、現在、日本にミサイルで、日本を標準にしています。
それなのに、『尊皇攘夷』どころか「皇室にたいするヘイトスピーチ。某隣国と開国しています。」
ましてや、外国人にたいするヘイトスピーチを罰するという馬鹿な政治家まで出てきています。
近現代史にハマるとなぜか、私は、某隣国への「ヘイトスピーチ」をしてしまいます。
ハマらないほうが健康には、良かった気がします。(笑)
青田さんへ
黒田裕樹 > 近現代史にハマるとなぜか、私は、某隣国への「ヘイトスピーチ」をしてしまいます。
> ハマらないほうが健康には、良かった気がします。(笑)
健康には良いかもしれませんが。無知による誤謬を防いだことも大きいかもしれませんね(笑)。