1068年に藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位されると、翌1069年には延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を出されて、藤原氏の大きな財産であった荘園を大幅(おおはば)に削減(さくげん)されました。
また、後三条天皇の子の白河天皇(しらかわてんのう)が幼い実子に譲位されると、お自らは幼い天皇を後見するという名目(めいもく)で新たに白河上皇(しらかわじょうこう)として政治の実権を握られました。
つまり、それまでの摂関家にかわって天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が新たに誕生したのです。院政(いんせい)と呼ばれたこの手法によって藤原氏の権力は急速に没落しました。
さらに院政が始まって約100年後には、平氏や源氏によって武家政権が誕生したことによって藤原氏は政治の実権を完全に失い、摂政や関白は事実上の名誉職(めいよしょく)へと押しやられてしまったのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
藤原氏のこれまで運命に逆らいながらも、突き進んで来た野望も、男子の誕生と言う大きな運命という壁だけは
乗り越える事が出来なかったんですね。
今でも男女の産み分けに関しては神のみぞ知る。。と言った領域を脱してはいないのでしょうけれど、それでもその神の領域にまで人間が手を加えて操作してしまおうという野望は尽きる事はないようですね。
人間の欲というのはつくづく際限の無いものだなと思います(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇子を生めずに外戚になれなかったことが崩壊を招いたのですから、世の中というのは本当に分かりません。
産み分けについては、神の領域に土足で踏み込むような行為は慎まなければいけませんね。もっとも、藤原氏であればどんな犠牲があっても手に入れそうですが…。
なおまゆ 教科書には出てこない後三条天皇の荘園整理令はもしかしたら、土地制度の歴史上画期的な法令なのでは?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 教科書には出てこない後三条天皇の荘園整理令はもしかしたら、土地制度の歴史上画期的な法令なのでは?
後三条天皇による延久の荘園整理令は高校の日本史教科書には登場しますが、仰るとおり我が国の歴史上極めて重要な法令です。
それまでにも何度か荘園整理令は出されていましたが、天皇が藤原氏の身内だっただけに形ばかりのものになっていました。しかし、何と言っても藤原氏を外戚としない後三条天皇ですから、藤原氏の荘園を容赦なく切り崩したのです。
荘園という「カネのなる木」を失った藤原氏は経済面で大きな打撃を受け、次代の白河天皇による院政で政治的にも急速に衰えることになりました。まさしく画期的ですね。
オバrev 中臣鎌足以来続いた藤原氏支配から抜け出る唯一のチャンスをモノにした後三条天皇って、もっと評価されてもいいと思いますね。
その他に後三条天皇の業績って目立ったものはあるんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 中臣鎌足以来続いた藤原氏支配から抜け出る唯一のチャンスをモノにした後三条天皇って、もっと評価されてもいいと思いますね。
仰るとおりだと思います。歴史の流れにうずもれそうな後三条天皇のご功績ですが、藤原氏への大打撃は高く評価されるべきでしょう。
> その他に後三条天皇の業績って目立ったものはあるんでしょうか。
ご在位中に延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん)が起きて、東北地方のすべてに朝廷の支配が及んだのもこの時期です。後三条天皇のお考えが当然反映されていると思います。
すなわち、近衛家(このえけ)・九条家(くじょうけ)・二条家(にじょうけ)・一条家(いちじょうけ)・鷹司家(たかつかさけ)の5家が本姓(ほんせい)は藤原氏をそのまま使用しながらも、一般的には地名や屋敷名(やしきめい)を苗字(みょうじ)として名乗り始めたのです。
なお、明治時代までは本姓と苗字とは明確に区別されていました。例えば徳川氏は正しくは苗字で、本姓は源氏(げんじ)です。
こうしていわゆる五摂家(ごせっけ)が摂政・関白を独占する時代が続きましたが、それらは政治の実権とは全く別の存在であり、有名無実(ゆうめいむじつ、名ばかりでそれに伴う実質のないこと)そのものでした。
しかし、そんな五摂家が一人の戦国武将によってにわかに脚光(きゃっこう)を浴びるようになっていったのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
苗字とは別に本姓という種類が普通に
存在していたというのは
初めて伺いました!
今でも女性は本姓と嫁ぎ先の苗字の二種類を
持つことになるとは思いますが、この時代は
誰でもそういうものだったのですか?
今は、苗字と名前に分かれていますが、
昔は本姓が名前に該当していたのですか?
質問ばかりで申し訳ありません(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本姓と苗字は全く違うものです。
姓はかつては「かばね」といって、朝廷から与えられたものでした。源氏・平氏・藤原氏・橘氏のいわゆる「源平藤橘」が有名ですね。
しかし、姓は種類が少なかったため、時が経つにつれて同じ姓の人が多くなって混乱するようになりました。そこで、同じ姓を持つ人が地名などを名乗って、例えば「足利地方の源さん」「新田地方の源さん」というような感じで苗字を名乗るようになったのです。
なお、明治時代になって国民すべてに苗字を名乗るようになってからは、姓と苗字との区別が事実上なくなっています。
ご質問の件ですが、鎌倉時代の頃は夫婦で違う名乗りをしていましたが(例えば、源頼朝と北条政子)、家が重視されるようになると、女性が(場合によっては男性が)新たに家に入るということで、同じ苗字を名乗るようになり、明治以降もこの慣習が残っています。
従って、本姓が名前になるということもありません。
オバrev そうそう鎌倉時代以降は、それまでの華やかな藤原氏の名前が歴史上から姿を消してしまっているという印象なんですよ。
実際は、権力はないけど摂関家として続いていたんですね。
本姓と苗字の両方を持っていたとなると、例えば近衛文麿の場合は、藤原近衛文麿のような言い方をしたんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > そうそう鎌倉時代以降は、それまでの華やかな藤原氏の名前が歴史上から姿を消してしまっているという印象なんですよ。
> 実際は、権力はないけど摂関家として続いていたんですね。
仰るとおり、鎌倉以後は藤原氏というよりも近衛家などの「五摂家」として、政治的権力はないものの、摂関家としては存続していました。
> 本姓と苗字の両方を持っていたとなると、例えば近衛文麿の場合は、藤原近衛文麿のような言い方をしたんでしょうか?
そのとおりです。正式には「藤原朝臣近衛文麿(ふじわらのあそんこのえふみまろ)」ですね(長い!)。
夫婦別姓をするなら・・。
晴雨堂ミカエル 江戸時代が長く続けば、水戸徳川家も苗字が「徳川」から「水戸」へ変質する可能性も無きにしも非ずですね。
ところで、夫婦別姓論者は欧米が導入していることを論拠に強弁しますが、欧米ではミドルネームがまだ生きています。第三以降の名前があるから、両家のアイデンティティ侵害を最小限に抑えているのを日本の別姓論者は知らずなのかワザとなのか無視しています。
明治の姓名合理化の戸籍制度のまま夫婦別姓にしたら大変な混乱をきたす。
別姓、同姓云々は別にして、私は江戸時代以前のように姓・苗字・通名・諱の四つを復活させても良いと思っています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、「水戸光圀」という別名がそのまま名前として定着した可能性もありますね。
我が国と西洋との事情の違いを理解せずに、強引に押し進めようとする姿勢は確かに良くないですね。
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)の養子になろうとして断られたとも伝えられる秀吉は、自身の弱点を補(おぎな)うために皇室の威光(いこう)を利用しようと考えました。つまり、自らが関白となり、天皇に代わって政治を行おうとしたのです。
しかし、関白は五摂家が交代で就任することになっていました。このため、秀吉は五摂家の一つである近衛家の養子となり、1585年に藤原秀吉(ふじわらのひでよし)として関白に就任しました。
さらに翌1586年には朝廷から新しい姓である豊臣(とよとみ)を賜(たまわ)り、豊臣秀吉と名乗りました。つまり、秀吉は「羽柴」という苗字はそのままで、藤原から豊臣へと改姓したことになります。
なお、豊臣氏は姓であることから、豊臣秀吉の呼び方は「とよとみひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」が正しい、という考えもあるようです。




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ぴーち こんにちは!
私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
> その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
有難うございます。この事実は意外と知られていないんですよね。
身分の低い秀吉が出世するには、まず近衛家の養子になることが必要でした。しかし、一旦なってしまった後には養子にならずとも新たな家を立てれば良かったと思われます。
徳川家康(とくがわいえやす)が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府(えどばくふ)を開くと、家康は朝廷への支配を強化するため、1615年に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定しました。
諸法度の制定の際に徳川氏が何よりも気を配ったのが、幕府の皇室に対する影響力を強めようとしたことでした。その手段として幕府は摂関家の地位を高め、天皇の子である親王(しんのう)よりも上位と定めました。
また、幕府は将軍の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)を摂関家から迎えるなど関係を強化することで、摂関家を通じて朝廷を幕府の意のままにコントロールしようとしたのです。
こうした幕府の姿勢によって、摂関家は政治の実権こそ失われていたものの、幕府とは比較的友好関係を築(きず)くとともに、朝廷での地位を高めることになりました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
やはり世に名を残す様な人物は、「先見の明」に長けていたんですね。この様なお話を伺っていると
先々の事を考えて、先手必勝とばかりに尽く手を打っていった事に改めて気付かされますね(^^ゞ
応援凸
家康の深謀。
晴雨堂ミカエル 豊臣政権はハク付けは豪華でしたね。身内に摂政を譲って豊臣一門の摂政関白の世襲を確立をはかり、主要家臣も内大臣や大納言を独占、公家たちはポストが無くなって意気消沈だったことでしょう。
家康は朝廷を支配すると同時に権威は譲った形ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。家康が徳川家のために行った政策によって、朝廷をしっかりコントロールすることに成功しました。
言葉は良くないですが、五摂家はそのおこぼれにあずかった感がありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 豊臣政権がハク付けにこだわったのは、自らの身分の低さへのコンプレックスだったのかもしれませんね。ただ、やりすぎたことによって公卿との関係が悪化した可能性もあります。
家康は朝廷に権威をあずけたほうが自己の政権が長持ちすることを、歴史に学んで理解していたのでしょう。
明治23(1890)年に我が国で議会政治が始まると、五摂家は貴族院(きぞくいん)の議員として活躍することになりますが、これは発展途上(はってんとじょう)にあった議会政治や政党政治に対する抑えという意味もありました。
時が流れて昭和(しょうわ)を迎えると、五摂家の筆頭という家柄(いえがら)を持ち、端正(たんせい)な風貌(ふうぼう)かつ颯爽(さっそう)とした長身(ちょうしん)で大衆的(たいしゅうてき)な人気を得た貴族院議長が現れました。
その家の血筋は江戸時代に一旦(いったん)は断絶(だんぜつ)したものの、外孫(がいそん、他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴(こうき)さが強化されていました。
彼はやがて昭和12(1937)年に内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)にまで出世して、血統が違(ちが)うとはいえ、藤原氏の末裔が国政の最高責任者として君臨(くんりん)する日がやって来たのでした。
彼の名を近衛文麿(このえふみまろ)といいます。




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ろっぽん 40年前、革新知事候補として皇族から
久我通武という元農林省官僚が立候補しました。
また婦人運動家として伊達家の血筋から伊達たまきさんという人がいます。
皇室で有ろうとなかろうと政治能力があれば
全然構わないと思う。また投票する方も皇族云々のステータスになっていません。
久我通武が落選したことからもわかるでしょう。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰る一例は確かにそのとおりですね。
それと同時に、近衛文麿が当時の国民や各界の期待を一身に浴びて内閣総理大臣にまで出世したのもまた事実です。
一例のみを取り上げて全部とすることは難しいかもしれませんが、近衛文麿に対する当時の期待感は、少なくとも虚構ではなかったと思われます。
わろ 文麿!!
教科書にも載っていて有名ですよね^^
名家出身で総理大臣だと、すごく期待があったのでしょうか?
そういえば、細川さんも名家?出身の総理ということになるのでしょうかw
わろさんへ
黒田裕樹 > 文麿!!
> 教科書にも載っていて有名ですよね^^
> 名家出身で総理大臣だと、すごく期待があったのでしょうか?
当時の国民の期待は相当大きかったようですね。しかしながら…。
> そういえば、細川さんも名家?出身の総理ということになるのでしょうかw
そういうことになりますね。二人には大きな共通点があります。それは何かというと…。
次回の更新までお待ちください(笑)。
しかし、彼が在任中の我が国は決して望ましい状態とはならず、最後の内閣を事実上投げ出した昭和16(1941)年10月からわずか2ヵ月後に、我が国はアメリカとの果てしない戦争の日々を送ることになってしまいました。
昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎えると、近衛文麿は連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、別名をGHQ)からの指示による憲法改正に意欲を見せましたが、やがて先の戦争責任を問われて戦犯容疑(せんぱんようぎ)で逮捕(たいほ)が決定的となり、絶望した彼は毒をあおって自殺しました。
ちなみに、戦後の五摂家は伊勢神宮(いせじんぐう)の大宮司(だいぐうじ)など神官(しんかん)を務(つと)めている人が多く存在しています。また近衛家はその後再び血統が途絶(とだ)え、同じく外孫が後継者となりましたが、その兄が平成5(1993)年に内閣総理大臣となった細川護熙(ほそかわもりひろ)氏です。
近衛文麿と細川護熙の両氏がいずれも国民の期待を背負って首相に就任しながら、その途中(とちゅう)で内閣を投げ出した格好(かっこう)となってしまったことは、歴史における何とも言えない皮肉なのでしょうか。
なお、近衛文麿に関する詳(くわ)しい評価につきましては、別の機会に論じる予定です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
縁者で同じような経緯を辿るとは、本当に皮肉なものですね(^^ゞ
戦犯容疑で逮捕されそうになり、自害の道を選ぶというのも、近衛文麿は最後まで自分の人生に向き合う事無く、責任から逃れようという意識だけが支配してたのですね。。自分で撒いた種は、自分で刈り取らなければ・・ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに近衛文麿には「責任逃れ」のイメージが付きまといますね。
同じように自殺を図りながら死にきれず、裁判が始まってからは堂々と答弁して最期には静かにこの世から退場した東條英機や、逃げようとは絶対されずに、マッカーサーの前で生命を賭けて国民を救おうとされた昭和天皇とは雲泥の差です。
kikuzi ひさしぶりにコメントさせて頂きます。
近衛文麿に関して、責任逃れというのは、少しあてはまらないように感じます。
彼は高貴な身分ですから、生きて虜囚の辱めを受けるくらいならと、潔く自決なされたのだと思います。
確かに、事ここに至っての自決ですから、軍人に比べれば、潔くはないかもしれませんが、戦犯と決定された事に対する抗議の自決と見る事もできます。
名門近衛家の方ですから、東条元首相よりも屈辱の度合いは大きかったでしょう。
こういった出来事の場合、今の自分たちの観点ではなく、当時の、また家柄や職種などの観点で物事を見る事も、時には大事なのではないのかな、と思う今日このごろです。
kikuziさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそういう見方もあるようですね。
近衛文麿の評価については、もう少しじっくりと確認する必要があるかもしれません。
お言葉有難うございます。