何と親王と后の母親とが「男女の関係」となってしまったのです。その母親こそが藤原氏の式家の血を引く藤原薬子(ふじわらのくすこ)でした。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒(げきど)された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城天皇(へいぜいてんのう)として即位されると薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横(せんおう)が続きました。
809年、平城天皇は病気のために弟の嵯峨天皇(さがてんのう)に譲位(じょうい)されました。平城上皇は旧都の平城京に移られて療養(りょうよう)されましたが、やがて健康を回復されると再び政治に意欲を持たれて嵯峨天皇と対立し始められました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
実際に結婚させようとした相手が、まだ幼子であった事がそもそもの間違いではあったのでしょうけれど、も、母親役である薬子は戦略的に親王と関係を持ったのでしょうか。。それとも、二人の間には本当に愛情が芽生えていったのでしょうかね・・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今となっては詳しいことは分かりませんが、平城天皇は病弱でなおかつ父親の桓武天皇との関係も良くなかったとされていますから、幼い頃から孤独感があったのではないかと考えられます。
そんな寂しさを紛らわすかのように、年上であったと思われる薬子に何とも表現しようのない感情を抱き、深い関係につながったのではないでしょうか。
天皇も人の子
ろっぽん こうやって見てみると天皇とて人の子
なんですね
水島裕が現皇太子に男の子が授かるよう
現代の常識では、違法の側室を作れとと言ってるがそうまでして男系を維持しなければならないんだろうか。この逸話でますます万世一系に疑問視する。伝統ってただ単に受け継ぎ継承するものではない人心の退廃があっては伝統も退廃する。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るようなお考えも、当然主張されてしかるべきでしょう。
天皇を単なる政治の道具としてみなすのか、あるいは我が国の平穏のために長い間ずっと祈り続けておられることや、結果的にとはいえ男系の血統の長さが比類ないことで世界中の多くの国々から我が国が一目置かれている理由となっていることを、個人的にどう評価することではないかと思います。
ろっぽんさんのお考えはもちろん評価しなければいけませんし、言論弾圧は決して許されません。そして、同じことは私のブログにおいても言えます。
810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知(さっち)された嵯峨天皇によって阻止(そし)されました。敗れた上皇は出家(しゅっけ)され、仲成は射殺(しゃさつ)され、薬子は毒をあおって自殺しました。この事件を薬子の変といいます。
この結果、藤原四兄弟の宇合を始祖とする式家は没落(ぼつらく)し、房前の子孫である藤原冬嗣が率(ひき)いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。この後、北家の子孫は皇室との結びつきを強めて次第に勢力を伸ばしていくことになるのですが、その背景には「藤原氏以外の他家の勢力が大きくならないうちに潰(つぶ)す」という策略(さくりゃく)もありました。
例えば842年には伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子を東国へ移して謀反(むほん)をたくらんでいるとして処罰(しょばつ)されたり、866年に平安京の応天門(おうてんもん)が炎上(えんじょう)した際には、事件の首謀者(しゅぼうしゃ)として伴善男(とものよしお)が処罰されたりしています。
なお、842年の事件は承和の変(じょうわのへん)、866年は応天門の変(おうてんもんのへん)と呼ばれています。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
お名前が薬子だけに仏教で言う所の
「変毒為薬」は出来なかったんですね(^^ゞ
それにしてもこの頃は随分と争いごとが多かったんですね・・( ´゚д゚`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > お名前が薬子だけに仏教で言う所の
> 「変毒為薬」は出来なかったんですね(^^ゞ
それはできなかったようですが、平城上皇が健康を回復されたのは薬子の持っていた薬学の知識による貢献もあったと考えられているようですね。毒をあおったのもその知識があったからとか。
> それにしてもこの頃は随分と争いごとが多かったんですね・・( ´゚д゚`)
そうですね。権力がまだ確定していなかった分、争いごとの種は尽きなかったようです。
オバrev 藤原氏同士で争うとは、藤原氏の権力に対する執念はすごいですねヮ(゚д゚)ォ!
そんな政治の流れとは関係ないですが・・・
疑問その1:藤原薬子は女性ですが、女性の名前に「子」という字が、この頃既に使われていたのでしょうか?
疑問その2:仲成は射殺されていますが、この頃の既に鉄砲があったんでしょうか、いや無いはずですから何によって射殺されたんでしょうか?
本題とはズレていますが、よろしくお願いしますm(^^)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原氏同士で争うとは、藤原氏の権力に対する執念はすごいですねヮ(゚д゚)ォ!
邪魔する者がいなくなれば、身内同士で争うようになる。権力争いの典型例でもありますね(@_@;)
> 疑問その1:藤原薬子は女性ですが、女性の名前に「子」という字が、この頃既に使われていたのでしょうか?
そうですね。今回の講座で紹介した藤原不比等の娘の宮子や光明子も「子」が使われていますし、昔は男女に関係なく「子」を使っていましたから。
> 疑問その2:仲成は射殺されていますが、この頃の既に鉄砲があったんでしょうか、いや無いはずですから何によって射殺されたんでしょうか?
「射殺」は飛び道具全体に対して使用されますから、この場合は「弓」ですね。
空海。
晴雨堂ミカエル 北大路欣也主演映画「空海」では、平城上皇をステレオタイプな精神薄弱者に描いていました。
薬子は色仕掛けで惑わす妖艶雌狐キャラ。
遷都に反対した既成仏教勢力を絡めての動乱に演出しているものの、大味な三時間超大作でした。
実のところ、平城帝や薬子はどんな人物でしょうね?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 そういえばそんな映画がありましたね。
一部は事実に基づいているとはいえやはりフィクションですから、ステレオタイプな大味になってしまうのは致し方ないのかもしれません。
今回の講座では紹介しきれませんでしたが、薬子の父親の種継は長岡京への遷都を指揮しながら殺されています。この事実に関する複雑な感情が絡み合って、桓武天皇との仲が良くなかった平城天皇との男女関係が生まれていったのかもしれませんね。
さらに良房の養子の藤原基経(ふじわらのもとつね)が884年に関白(かんぱく、天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に任じられ、藤原氏はますますその権力を強めることになりました。
その後、菅原道真(すがわらのみちざね)が重用されて藤原氏の勢力が一時は弱まりましたが、901年に道真をウソの密告(みっこく)で陥(おとしい)れ、大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)させました。この事件は昌泰の変(しょうたいのへん)と呼ばれています。
こうして他家に対する容赦(ようしゃ)ない謀略(ぼうりゃく)を続けた藤原氏でしたが、969年に源高明(みなもとのたかあきら)を謀反の罪で大宰府へ流すという安和の変(あんなのへん)を起こすと、藤原氏に対抗できる他氏勢力がついに存在しなくなり、以後は藤原氏が摂政や関白を独占(どくせん)することになりました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
やはり一代で財を成すと言う偉業の裏では
その為に命を奪われたり、地位から蹴落とされたり、泣かされる人も大勢いるという事でしょうね。
いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、綺麗事だけでは人間は生きてはいけませんからね。もっとも、藤原氏と言えども永遠に勢力を拡大というわけにもいかなかったのですが…。
> いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
道真は優秀な人間でしたから、それゆえに藤原氏は無実の罪で彼を追放しました。ところが世の中というのは分からないもので、道真の死後に我が国では不穏な出来事が立て続けに起こって、道真のタタリが起きたとして朝廷は彼の名誉を回復し、神様として祀(まつ)ることになります。
そして、これこそが天満宮の由来でもあるんですよね。
太宰府。
晴雨堂ミカエル もともと太宰府帥は三位以上の名誉ある高官なのに、道真の一件で権帥は左遷というより大臣の流刑ポストになってしまいましたね。
道真は太宰府の仕事はせず、殆んど軟禁状態だったとか。
因みに私は菅原道真の末裔だと祖母が言っていましたが、果して?
名字に「菅」の字が入っていれば、若干の説得力がありますが、ありませんから。
藤原の末裔という場合もありますが、これはあり得そうです。藤原家は繁栄した一族で分家や庶流は数えきれない。また私の一族は少なくとも数百年まで遡れる古い家ですので、可能性はあるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、道真の存在が大宰府の印象を悪くしてしまいましたね。海外への玄関口となる重要なポストのはずだったのですが。
家系というのは色々ありますよね。私の家の家紋は「丸に下がり藤」ですから藤原氏の末裔と言えそうですが、皇室のようにはっきりとした系図が残っていない以上、私の場合は信用できそうもありません。
オバrev 太宰府天満宮へは、長男の中学受験と大学受験の時に行きました・・・次男と長女の時に行ってないのは内緒(^_^;)
その後長男が福岡の大学に通うことになり、また行きました。
しかし菅原道真は、まあ無念だったでしょうね。
しかしまさに藤原氏盤石の構えですね。他の勢力は手も足も出ないって感じでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 私は残念ながら太宰府へは行ったことがありません(´・ω・`)
九州地方にも滅多にいかないのですが、チャンスがあればみずほやさくらを利用したいですね。
道真や源高明の追放に成功した後は、藤原氏を出し抜こうという勢力は現れず、逆にそのおこぼれにあずかろうとしたようですね。まさに日の出の勢い、いや満月といった方がいいでしょうか(^^ゞ
よくわかりませんが
ろっぽん 藤原というのは、皇族でないとすると
貴族なんですかまた、平泉の藤原一族とは関係がないのですかこのへんが学校時代からよく理解してませんでした。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 藤原氏は豪族出身の貴族と言えますね。出自についてはいずれブログで紹介することになります。
なお、奥州藤原氏は俵藤太(=藤原秀郷)の子孫とされていますが、藤原秀郷自身も含めて藤原氏とのつながりには疑問の声もあるようです。
道長は4人の娘を天皇の后として自らは摂政となり、約30年にわたって権力を握り続けました。彼が絶頂の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
道長によって全盛期を迎えた藤原氏の権力は、子の藤原頼通にそのまま引き継(つ)がれました。始めは摂政、やがて関白となった頼通は、約50年に渡って政治の実権を握り続けました。
このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを摂関政治(せっかんせいじ)といい、摂政や関白を出した家柄(いえがら)のことを摂関家(せっかんけ)といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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晴雨堂ミカエル どちらかなのか、二人ともなのか、糖尿病を患っていたとの話を聞いた事があります。
いくら贅沢三昧だったとしても、当時の摂取カロリーは現代人より少なかったはず、余程の運動不足か、当時の体質は高カロリーに対応していなかったのでしょう。
ふと思ったのは、束帯姿を連想する道長ですが、実際は奈良時代の朝服に近いデザインだったみたいですね。直衣みたいなのはあったらしいが、束帯は源平合戦の頃辺りに確立。道長の時代はまだ朝服に近く、石帯もまだバックルが付いていたらしい。
ところで、我家の家紋は丸に扇です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 道長は糖尿病患者としても有名なようですね。それだけ贅沢な暮らしをしていて、仰るように体質上の問題があったのでしょうか。
国風文化が華やかになった平安中期と言えども、今しばらくは中国の影響を受け続けていたのかもしれませんね。
ぴーち こんばんは!
外敵が誰もいなくなると、今度は内々での骨肉の争うですか・・(^^ゞ
なんとも浅ましいものを感じますね・・
それでもそれによって内乱が治まり、国内が安定して行ったのなら、それはそれで仕方が無い事だったのでしょうか・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに浅ましく見えますね。
この争いはあくまでも宮中での出来事でした。今回は詳しく紹介しませんが、こうしている間に地方の風紀は乱れに乱れまくったのです…。いずれ機会があれば詳しく紹介したいですね。