巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、首皇子が即位された聖武天皇(しょうむてんのう)の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退(しりぞ)けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪(けんあく)になっていきましたが、そんな折(おり)にとんでもない事件が起こってしまうのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
勉強不足で恐縮ですが。。
今でも皇后の権限というのは、この当時と同じような権限が与えられているのですか?
応援凸
当時の日本語。
晴雨堂ミカエル 当時の人名をみるだけで、日本語が現代とかなり隔たっているのが判りますね。
NHKのタイムスクープハンターで平安時代初期の世界が再現されていましたが、まるでウチナグチかアイヌ語のようでした。
一度リアル日本語で額田王を主人公にしたスペクタクル歴史劇を制作してほしいものです。
オバrev 不比等の息子4兄弟は名前も知らないですけど、無理をゴリ押しするあたりでも大したことはなかったんでしょうね。
後の光明皇后?はかなりのやり手だったように記憶していますが、不比等の妹だったんだ(゜o゜;
納得です。
それにしても、この頃の権力闘争は相当激しそうですね^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、何でもご質問下さいね(^^♪
> 今でも皇后の権限というのは、この当時と同じような権限が与えられているのですか?
現在の皇室典範では「天皇は男子のみが継承する」となっていますから、まず天皇になりことはありませんし、天皇に変わって国事行為を行うのは摂政と決められていますからこの点も違いますね。
ただし、皇后は天皇とともに「陛下」という敬称が付く存在ですから(皇太后も同じです)、その地位は非常に重いです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに全く異なりますね。
額田王の物語は私も見てみたいですが、おそらくほとんどの人が言葉を理解できないのでは…。
タイムスクープハンターは良いですね。来年もぜひ放送してほしいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 藤原四兄弟には焦りがあったと思います。何しろ相手(=長屋王)は皇室の血を引いていますからね。
光明子は不比等の娘で、四兄弟の妹にあたりますね。確かにやり手ですが、優れた施策も行っていますよ。
権力闘争はこの後ますます激しくなります。奈良時代のややこしさを象徴していますね(´・ω・`)
わろ 長屋王と藤原四兄弟!!
長屋王の呪いとかも有名?ですよねw
わろさんへ
黒田裕樹 > 長屋王と藤原四兄弟!!
> 長屋王の呪いとかも有名?ですよねw
もちろんですとも(^_^)v
これから詳しく出てくるかもしれませんね(笑)。
ところが、翌728年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、そして四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀(いんぼう)を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪(のろ)ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、結果としてこの讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
729年2月、天皇に対する反逆(はんぎゃく)の罪で邸宅(ていたく)を軍勢(ぐんぜい)に取り囲まれた長屋王は自らの無実を訴(うった)えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を長屋王の変といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
人間の野望というのは恐ろしいものですね(^_^;)
火の無い所に煙は立たないと言いますけれど
火の無い所にも火を付けて、燃やしてしまう程の執念を感じますね( ´゚д゚`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、確かに恐ろしいですね。
そして、無理を通して野望を達成した者には、それ相応の「報い」がやって来るのもまた恐ろしいところです。
詳しくは明日(7日)の更新をお待ち下さいm(_ _)m
なおまゆ ふと思ったのですが、この頃の為政者は『民』に対して何かしら救済をしていたのでしょうか?
寒冷期で飢饉にみまわれ多くの人が苦しい思いをしていたでしょうに・・・。
「善政を敷く」という言葉が似合わない時代ではありますが、其の点で何かしらの記録はあるのでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 確かに「善政」と言えるような資料は少ないですね。
ただ、光明皇后による「悲田院」や「施薬院」の設立という事実は残されており、何らかの救済は行なわれていたのは間違いないようです。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄(はんえい)は長くは続きませんでした。四兄弟には過酷(かこく)な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京(へいじょうきょう)でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然(ぐうぜん)に、当時の朝廷は「長屋王のタタリが起こった」と恐怖(きょうふ)におびえました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
まさしくそれは「祟り」としか言いようがない出来事ですね(^_^;)しかも4人揃ってなんて・・・(゚д゚)!
ゆめゆめ人を陥れる様な事は考える事なかれ。。という教訓の様なお話ですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 偶然が重なったとはいえ、当時の人々は恐ろしかったと思います。まさに因果応報ですね。
オバrev これはもう、誰が見ても長屋王のタタリ以外考えられませんね。
まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これはもう、誰が見ても長屋王のタタリ以外考えられませんね。
> まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
偶然にしてはあまりにも出来過ぎていますし、今となっては迷信に過ぎないことも当時は当たり前のように思われていましたからね。
> 光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
正式な記録は残っていませんが、恐ろしかったと思います。ちなみに今回は藤原氏が中心なので紹介していませんが、長屋王のタタリが大仏建立にまでつながったのではないかと私は見ています。
なおまゆ おはようございます。
梅原猛氏が怨霊信仰について提唱されましたよね。長屋王は、その画期なのかもしれませんね。
当時の人は、ものすごい恐怖感だったと思います。今でさえ「祟り」という言葉は恐ろしい響きがあります。どうやってこの祟りを鎮めたんでしょうか?罪なくして陥れられた長屋王の怨念は凄まじいと人々は考えたでしょうね。確か、史書にも長屋王の無実は証明されてた記憶があります。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 この時期は政情不安の他に、疫病や不作による飢饉にも悩まされていました。これらが(無実であると認定したがゆえ、余計に)長屋王のタタリとされたことで、全国に国分寺や国分尼寺が建てられ、東大寺の大仏が建立されたのではないかと思われます。
諸兄による政治に反発した藤原氏は、四兄弟の宇合の子の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしましたが鎮圧(ちんあつ)され、しばらくは政治の表舞台から遠ざかりました。
しかし、749年に聖武天皇の娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が即位されると、天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が四兄弟の武智麻呂の子である藤原仲麻呂を重用(ちょうよう)したことで、やがて仲麻呂は政治の実権を握るようになりました。
仲麻呂は755年に諸兄を失脚(しっきゃく)させ、諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が乱を起こそうとすると事前に鎮圧しました。こうして自分に不満を持つ政敵(せいてき)を一掃(いっそう)することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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晴雨堂ミカエル 仲麻麿は唐好みで有名ですね。テーブルに椅子の生活、ペルシアのグラスで酒や牛乳を飲んでいたとか。映画などで再現してほしいものです。
孝謙天皇と弓削道鏡の話も興味があります。世間では爛れた関係と見られていますが、道鏡はけっして日本のラスプーチンではなく、いたってプラトニック、皇室の権力を脅かす藤原氏に対抗するために道鏡を側近として重用したとの説を聞いたことがあります。
ここではどの説をとるか楽しみです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、仲麻呂は唐好みで我が国の風習を何もかも中国風に変えました。その性急さと強引な外交姿勢が自滅への道を歩むことになります。
今回はあくまで「藤原氏」が中心ですので、道教と孝謙天皇についての関係には深く触れておりません。ちなみに私はかねてよりプラトニック説を採っており、2年以上前の通史において詳しく分析しております。
ぴーち こんにちは!
橘諸兄などというお名前は今回初めて伺いました(^_^;)
私の場合は歴史全般を通してそんな感じですので、申し訳なく存じます(苦笑)
それでも、特にこの頃に登場する人物は尚更
ですので、黒田さんの所でこれからも勉強させていただきたく存じます。m(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
どうぞお気になさらずに、今後とも当講座で知識をお蓄え下さい。
ぴーちさんをはじめ、皆さんのお役に立てれば幸甚ですm(_ _)m
オバrev この時代は、藤原・反藤原の凄まじい権力欲と権力のドッジボール?で、ある意味面白い(^_^;)
一体何故これほど権力に固執したんでしょうか。天皇を中心に国がまとまるということにはならなかったんですかね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この時代は、藤原・反藤原の凄まじい権力欲と権力のドッジボール?で、ある意味面白い(^_^;)
仰るとおり、藤原氏と反藤原氏の壮絶な戦いですね(^^ゞ
> 一体何故これほど権力に固執したんでしょうか。天皇を中心に国がまとまるということにはならなかったんですかね。
藤原氏の権力がまだ固まらない一方で、天皇親政を行うまでの実力がなかったということでしょうか。ただ、この後になると少し事情が変わってくるようです。
記事を拝見しました。
晴雨堂ミカエル 道鏡が愛人ではなかった説、明快かつ説得力ある根拠を述べておられていましたね。
この時期はまだ黒田氏のブログに出入りしていなかったので未読でした。
私も全く同じ見解です。田沼意次と同様、不自然にでっちあげた中傷が何故か世間の定説と化している事に不満です。
長屋王や橘諸兄など、皇族がまだ権威に祭り上げられる以前の雄々しさを感じる時代ですね。
日本の政治は面白い。皇族から完全に実権を奪った藤原氏も権威に祭り上げられて下位の征夷大将軍が実権を握り、それもほどなく象徴となって更に下の執権や管領や老中が事実上のトップになってしまう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国はいつの間にか「権力の二重構造」が当然のようになっていますね。
「話し合い」を求めて独裁を嫌う一方で、権威を重要視する姿勢が今日まで続いているからかもしれません。
恵美押勝は天皇に準ずる権力を持つまでに出世しましたが、朝廷の官職(かんしょく)を中国風に改めたり、外交に関する強引な姿勢(しせい)を見せたりすることで次第に周囲の反感を買うようになっていきました。
こうした中で、最大の後ろ盾(だて)であった光明皇太后が760年に死去して、孝謙上皇が自らの病を祈祷(きとう)で治した僧の道鏡(どうきょう)とともに政治の表舞台に再び登場すると、恵美押勝の勢力は急速に衰えていきました。
焦(あせ)った恵美押勝は道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑(おさ)えようと764年に反乱を企(くわだ)てましたが事前に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位(はいい)となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されてしまいました。この事件を恵美押勝の乱といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
恵美押勝は、中国の文化や、海外に興味を持っていた方だったのですね。この頃というのは、外国の文化を容易く容認出来ない風潮が国内にあったのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時は国内文化が発展途上だったので、唐のような(当時の)先進文化を受け入れる余地はありました。しかし、恵美押勝の場合はあまりにも中国べったりだったことで「やり過ぎ」と思われた節がありますね。
外交にしても下手をすれば大国である唐を敵に回しかねず、そんな危うさがあったところに孝謙上皇や道鏡がつけ入る隙があったといったところでしょうか。
そんな折、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位(くらい)につけば天下は太平(たいへい)になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、和気清麻呂(わけのきよまろ)に真偽(しんぎ)を確認させましたが、和気清麻呂は「皇位は神武天皇(じんむてんのう、初代の天皇にあたる)以来の皇統(こうとう)が継承(けいしょう)すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触(ふ)れた和気清麻呂は、名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と無理やり改名させられたうえに大隅(おおすみ、現在の鹿児島県)に追放されてしまいました。これを宇佐八幡宮神託事件といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
この頃は神のお告げが一番重要視され、それに従って世の中が動いていたと言っても過言では無かったのですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
今となっては迷信であることがさも当然のように受け入れられていましたから、その延長線上といっても差し支えないかもしれません。
その一方で、迷信や偶然と片付けられない不思議な出来事があるのもまた事実ですね。
オバrev 神のお告げで政治が左右されたってことで、へぇ~!と思っていましたが、最近でも前前総理は「米国は必ず譲歩する」という占いを信じて政治をやっていたという噂ですから、当時としたらかなり絶対的な価値があったんでしょうね。
しかし、こうコロコロ政権が代わるというのは、天皇の力が弱かったことと、平和だったことが影響しているように思いますが、どうでしょうか?
それにしても短期間に次から次へと時の権力者が代わって「ええ加減にせいよ!覚える方の身にもなってくれよ」と受験生から文句がでそうな気がしますが(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 神のお告げで政治が左右されたってことで、へぇ~!と思っていましたが、最近でも前前総理は「米国は必ず譲歩する」という占いを信じて政治をやっていたという噂ですから、当時としたらかなり絶対的な価値があったんでしょうね。
そうですね。今回の神託は天皇の資格者を今日まで決定づけたものですから、極めて価値が高く、また重かったものと言えるでしょう。だからこそ称徳天皇のお怒りも凄まじかったと思われます。
> しかし、こうコロコロ政権が代わるというのは、天皇の力が弱かったことと、平和だったことが影響しているように思いますが、どうでしょうか?
この時代は天皇親政でもなかったことや、外交上特に問題とされる国が存在しなかったことも大きいですね。共通の敵がいなければ、権力争いは内に流れる傾向がありますから。もっとも、外敵が存在していても無視するかのように勢力争いを繰り返すこともありますが…。
> それにしても短期間に次から次へと時の権力者が代わって「ええ加減にせいよ!覚える方の身にもなってくれよ」と受験生から文句がでそうな気がしますが(^_^;)
そうなんですよね(´・ω・`)
しかも、まだ終わったわけではないという…(^^ゞ
感謝です
クラチー DVDとメールの記事、
本当にありがとうございます!
今回は三枚もある大作なのですね、わくわく!
時間があるときにまとめて見ますです!
(T∀T)
クラチーさんへ
黒田裕樹 クラチーさんには画像の件でいつもお世話になっておりますからね(^_^)v
今回は24回と長かったこともあって、3枚になってしまいました。
BDなら1枚でもOKなんですが…。
女の情念を感じますね。
晴雨堂ミカエル 和気清麻呂の一件は、この頃の天皇はまだ世俗権力者の側面を強く残していた事ともいえますね。
それにしても「女」を感じます。女性読者には不快なコメントになるかもしれないが、和気氏への仕打ちは女らしい。
和気氏が持ち帰った神託に対して、単に悔しいとかムカつくといった感情ではなく、非常におぞましくて、汚らわしく感じたのでしょう。和気氏が吐いた空気を吸いたくないといった気持ちが処分によく現われています。
この感情は女性に強くあらわれます。実際に私は女性にまつわる事で苦い経験が何度かありますので。
当時の大隅国は遠国というより植民地といった辺境の地、当時従五位くらいの高官だったと思うので、かなり残酷で屈辱的で執拗な処罰だったと思います。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに、仰るとおり女性特有の感情表現を感じますね。
大隅国の件も同感です。名前も含めてかなり厳しい刑罰ですが、その後に復帰できたのは良かったことですね。
ご無沙汰してます
マリリンカ 先生、おはようございます。
記事には関係ありませんが、娘が一応、進路選択科目を日本史で選択しました、もちろん世界史も必須ですが・・・
勉強法など、先にアドバイス頂いた事を伝え・・・
本人も、詰め込みよりも人物理解の方が好きだ~と日本史に決めたようです。
また、何かありましたらご伝授下さい。
宜しくお願いします<m(__)m>
母は、さっぱりです(>_<)
マリリンカさんへ
黒田裕樹 了解いたしました。ブログ上を通じてお役に立てることができれば幸いです。
焦らず、ゆっくりと理解していただければ大丈夫ですよ!
称徳天皇の崩御後、次の天皇に誰を即位させるかについて朝廷内で協議が行われ、最終的に四兄弟の宇合の子の藤原百川(ふじわらのももかわ)や房前の子の藤原永手(ふじわらのながて)が支持した光仁天皇(こうにんてんのう)が即位されました。
光仁天皇は自らのご即位に貢献(こうけん)した藤原氏を重く用いるようになり、その流れがそのまま平安時代にも続くことになります。
こうして鎌足以来の藤原氏は紆余曲折(うよきょくせつ、物事が順調に運ばずに複雑な経過をたどること)の奈良時代を乗り切り、平安時代においてさらに栄華を極(きわ)めるようになるのですが、それまでの道のりも決して一筋縄(ひとすじなわ)ではありませんでした。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




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ぴーち こんにちは!
道鏡がこの地で亡くなられていたとは、全く存じませんでした(^_^;)
というか、昔はこの地方は追放場所となるほどの僻地と考えられていたんですね(苦笑)
離れ島ばかりが追放場所だとばかり考えておりました(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今となっては失礼な話ですが、奈良時代の頃の東日本は、都の位置関係から「未開の地」と勝手に認定されていた可能性がありますね。
前回の和気清麻呂も逆の意味で僻地と考えられますし、現代では島流しと考えられる「流罪」の観点が全く違うといえるのでしょうか。
ここ こんにちは、TPPをご存知ですか?緊急なのでコメントさせていただきました。
野田内閣が、11月のAPECまでに参加するかどうかを決めると言って、本格的に議論し始めました。
TPPは、日本の経済を破壊するだけでなく、主権も失わさせる恐ろしいものです。
ニュージーランドも国を挙げて反対しています。
農業、漁業が破壊されるだけでなく、金融、保険、医療、年金、あと全て破壊されます。
かんぽ保険・年金は全て根こそぎ取られます。
交渉の席にも座ってはいけません。ワナです。
絶対、断固反対です。
野田内閣は10/11に、国民との対話の場を設置しました。
しかし、10/11のNHKでのアンケートで恐ろしい結果が出ていたのです。約半数が賛成意見だったのです。逆に、反対が9%しかありません。
参加賛成40%、反対9%、どちらともわからない40%。
このままだと、文字通り日本を失ってしまいます。
どうぞ、各自ポスティング等で反対の意志を示してください。
チラシはネットでも探せます。
直接電話してください。
外務大臣: 玄葉光一郎 TEL 03-3508-7252 FAX 03-3591-2635
経済産業大臣:枝野幸男 TEL 03-3508-7448 FAX 03-3591-2249
youtube:『TPPで日本をぶっ潰せ!!』 ~ 10分で理解できるTPPの問題点 ~
ここ 先程のTPPの件の続き。
自選挙区の国会議員へ「阻止しないと二度と支持しない」との手紙を送ってください。左翼でも有権者の声は無視できないとのこと。
数日置いて複数投函してください。
お願いです。後一ヶ月もありません。
至急お願いします。【拡散希望】
ここさんへ
黒田裕樹 ブログと全く無関係なお言葉ですが、私の判断で掲載させていただきます。