戦いに敗れた中臣氏は勢力が一時衰えましたが、蘇我氏の横暴(おうぼう)を許せなかった鎌足は、蹴鞠(けまり)の会をきっかけに中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と知り合い、二人は協力して645年に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺しました。
入鹿の暗殺を聞いた父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は抵抗をあきらめ、翌日に屋敷(やしき)に火をかけて自殺しました。こうして蘇我氏の本家を滅(ほろ)ぼした鎌足は、以後は中大兄皇子とともに新しい政治を行うことになります。
なお、最近では入鹿が暗殺された事件そのものは乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、政治改革である大化の改新とは区別されています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
中臣鎌足は中大兄皇子の存在なくしてはその名を轟かす事が出来なかったわけですか・・。
蘇我氏の方は元々、仏教伝来については賛成派だった訳なんですね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 中臣鎌足は中大兄皇子の存在なくしてはその名を轟かす事が出来なかったわけですか・・。
そうですね。皇室の次期天皇有力者だった中大兄皇子の引立てあってこそと思いますが、皇子自身も鎌足の存在なくして大化の改新は実現できなかったことでしょう。
> 蘇我氏の方は元々、仏教伝来については賛成派だった訳なんですね?
仰るとおりです。蘇我氏は仏教の我が国における普及と自己の権力増長とを同時進行させるのに成功しましたが、皇室をないがしろにしたあたりが反発を食らったかたちになりましたね。
キサラ 黒田さんのブログにくると
なぜかパソコンが固まる現象があったので
やっとコメントします(^o^;)
講座の動画見ました!
年下が褒めるのも恐縮ですが
声も聞きやすいし
いきいきと話されますね!
ホワイトボードに貼ってある
藤原氏の絵は黒田さんが書かれたんですか?
キサラさんへ
黒田裕樹 > 黒田さんのブログにくると
> なぜかパソコンが固まる現象があったので
> やっとコメントします(^o^;)
あれ?何でかな?
とりあえず動きやすいようにプラグインを少し調整しましたが、これで大丈夫でしょうか?
> 講座の動画見ました!
> 年下が褒めるのも恐縮ですが
> 声も聞きやすいし
> いきいきと話されますね!
いえいえ、お褒めのお言葉恐縮です。
声については親からの授かりものですが、有難いことだと思っております。
いきいきしているのは、やはり自分が好きでやっていることだからでしょう。
キサラさんが毎日のように絵をお描きになりながらブログを更新されているのと同じですよね(^ω^)
> ホワイトボードに貼ってある
> 藤原氏の絵は黒田さんが書かれたんですか?
絵については私のブロとものクラチーさんに描いてもらっています。
クラチーさんも歴史好きなので、その分イラストがウイットに富んでいますね(^^♪
ブログのURLはこちらですよ。
http://mprkisf.blog40.fc2.com/
ちなみに私は絵が下手くそです(´・ω・`)
年齢
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
恐るべきは
乙巳の変(いっしのへん)の時の中大兄皇子の年齢です。この時、中大兄皇子は19歳です。
やはり、腹心の中臣鎌足の補佐がしっかりしていたから、成功したのでしょうね。
この時
中臣鎌足は、31歳です。
余談ですが
私が19歳の時、同い年の友人と話していて、『中大兄皇子が19歳で、大化の改新をしたのに
俺たちは、何をしてんねんやろう。』とぼやいていました。(苦笑)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに若いですね。
近親婚が続いた場合には極めて優秀な人物が現れるといいますが、かつての聖徳太子もそうでしたし、中大兄皇子も例外ではなかったのでしょう。
私も他人のことを言えないですね(爆)。
鎌足はその後まもなく死去しましたが、鎌足によるこれらの功績が、結果として我が国の歴史に名を残す藤原氏の礎(いしずえ)となったのです。
とはいうものの、鎌足の歴史上の実績だけで藤原氏の存在が大きくなったわけではありません。藤原氏が本当の意味で我が国の歴史に欠かせない重要な地位を占(し)めるようになったのは、むしろ鎌足以下の子孫の生(い)きざまにその理由がありました。
その大きなきっかけになった人物こそが、鎌足の子の藤原不比等だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
こうして伺っていると、自分の歴史に関しての認識の甘さにほとほと嫌気が差して参りますが(^^ゞ
鎌足自身の功績よりも、その息子の功績の方が藤原氏の繁栄に大きく貢献していたというのは、初耳です(゚д゚)!
またこれからの展開を楽しみにしております^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉、こちらこそ恐縮ですm(_ _)m
パイオニアとしての鎌足の功績は大きいですが、不比等がさらに実績を高めたという一面も大きいですね。
信長や秀吉がそうであったように、一代だけではなかなか根付かない、ということでしょうか。
家康の場合は、秀忠や家光が政治を行いやすいようにシステムを構築していましたから別格ですね。
659年に生まれた不比等は、幼(おさな)い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後には着実に出世していきました。不比等は701年に大宝律令(たいほうりつりょう)、718年には養老律令(ようろうりつりょう)の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わり、朝廷からの厚い信任を受けました。
当時の朝廷は、707年に文武天皇(もんむてんのう)が崩御(ほうぎょ)されると、その後は文武天皇の母親で、天智天皇の娘でもある元明天皇(げんめいてんのう)と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正天皇(げんしょうてんのう)の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
しばらくの間女性天皇が続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は、娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)には自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は、自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我氏と同じ方法で政治の実権を握(にぎ)ることに成功したのです。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
蘇我氏で成功を収めた方法を自分も実行することで実権を握ったわけですか。
必ずしも成功例を真似たからといって、自分も同じように成功するとは限らないのが世の常でもありますが、それが成功したという事は、この方法が一番裏切られ辛い方法であるからなのでしょうし、不比等その人の人柄にも関係する事だったのでしょうね・・・。
15万ヒット、おめでとうございます!!
益々のご発展をお祈りしております(*^_^*)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 不比等は蘇我氏の政策で悪いところ(皇室を差し置いて自分が頂点に立とうとしたこと)と良いところ(皇室を立てて自分は外戚として政治の実権を握ること)をよく理解していたと思われます。
もっとも、不比等自身に実力がなければ、やりたくてもできなかったでしょうし、その意味においても不比等の有能さがうかがえます。
> 15万ヒット、おめでとうございます!!
> 益々のご発展をお祈りしております(*^_^*)
有難うございます。今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
なおまゆ 不比等はもっと評価されていい政治家ですよね。
藤原道長ばかりクローズアップされますけど、土台を作るのは大変なことです。
歴史には埋もれている人物がたくさんいて、先生のブログがヒントになって調べたりできて一層歴史が楽しくなりました。
私の娘も先生のブログで勉強させようと思っています。
どうも学校の授業はおもしろくないようで・・・。これから、よろしくお願いします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 不比等はもっと評価されていい政治家ですよね。
> 藤原道長ばかりクローズアップされますけど、土台を作るのは大変なことです。
私もそう思います。藤原氏繁栄の基礎をつくった不比等はもっと評価されるべきですが、この後お話しする奈良時代の政治のややこしさが不比等の存在を霞(かす)ませているかもしれませんね。
> 歴史には埋もれている人物がたくさんいて、先生のブログがヒントになって調べたりできて一層歴史が楽しくなりました。
> 私の娘も先生のブログで勉強させようと思っています。
> どうも学校の授業はおもしろくないようで・・・。これから、よろしくお願いします。
光栄とともに責任重大ですね(^^ゞ
こちらこそよろしくお願いしますm(_ _)m
オバrev まさに藤原氏の繁栄は不比等によって決定づけられた、と言っても過言ではないでしょうね。
女性天皇が続いたという幸運もあったでしょうが、地位や名誉や権力欲の強い有力者が並み居る中で、どうやってダントツの力を得たのか、その背景が興味ありますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
女性天皇が続いたのは、皇位継承者である首皇子がまだ幼かったということもあり、中継ぎとして即位されたからと考えられますが、その間に不比等が外戚として活躍の場が与えられ、律令の編纂などで結果を出したことがその後の繁栄につながったのでしょうね。