では、その「ある人物」とは誰のことでしょうか?
もちろん織田信長(おだのぶなが)のことです。秀吉と比べるとあまり目立たないですが、家督(かとく)を継いだ際には尾張国(おわりのくに、現在の愛知県西部)すら満足に支配できなかった信長が、一代であわや天下統一かと思わせるまで領土を拡大できたという実績は、とてつもなく素晴らしいことでした。
統一を目前にして、本能寺の変(ほんのうじのへん)で部下の明智光秀(あけちみつひで)に滅ぼされたのが惜(お)しまれる一方で、信長が天下統一を果たした後に、我が国がどのような運命を歩んだのかということなどについて、私たちは大いに興味を持つことができます。
しかし、信長の天下取りは決して順調に進んだわけではありません。多くの困難に打ち勝って自己の勢力を広げた信長でしたが、なかでも最大のピンチだったのが「ある人物」による上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)を目指した挙兵(きょへい)であり、それが最終的には失敗に終わったとはいえ、一時は信長もこれまでか、と誰しもが思ったものでした。
では、その「ある人物」とは誰のことでしょうか?
もちろん武田信玄(たけだしんげん)のことです。




いつも有難うございます。
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伝次郎 秀吉の弟の秀長も優秀だったようです。
間違ったらご免なさい。
いまバンクーバー五輪にも出ている織田信成さんは信長の子、信時の子孫だったと思います。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 > 秀吉の弟の秀長も優秀だったようです。
> 間違ったらご免なさい。
間違っていませんよ。豊臣秀長は秀吉を助けて天下統一に貢献した名将です。
> いまバンクーバー五輪にも出ている織田信成さんは信長の子、信時の子孫だったと思います。
織田信成選手の先祖は信長の七男、織田信高の子孫ですが、次男の信雄の血を引いていますね。私の出身大学の後輩でもありますので、頑張って欲しいものです。
.黒田裕樹さん
りら 高橋大輔 織田信成
二人の後輩がいよいよ明日ですね
プルシェンコの差は少し
フリーで 二人が金と銀が
取れるように 祈っていましょうね
りらさんへ
黒田裕樹 いよいよですね。
仰るとおり、上位との差はわずかですから、メダル独占も夢ではありません。
二人とも自分の実力を出し切ってもらいたいです。
それにしても、今回ほど自分が関大出身でよかったと思ったことはないですね(^^♪
.
ぴーち こんばんは!歴史上では超有名な方の名前ばかりがずらりと名を連ねていますね^^
今度は、武田信玄ですか^^
お名前は有名人でも、その人となりと問われると、まるで判らないですので、今後の黒田さんの見解、楽しみにしています♪
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!歴史上では超有名な方の名前ばかりがずらりと名を連ねていますね^^
秀吉、信長、光秀、信玄…。確かに錚々(そうそう)たるメンバーですね(^^ゞ
> 今度は、武田信玄ですか^^
> お名前は有名人でも、その人となりと問われると、まるで判らないですので、今後の黒田さんの見解、楽しみにしています♪
有難うございます(^_^)v
今回も17回かけてじっくりと紹介してみたいと思っております。
講座の映像upですね
h.hamauzu こんにちは!
13日はとても楽しませていただきました。
歴史オンチの方も、そうでない方も、
みんなが楽しめる、みんなが興味を持てる講義、
そんな感想を持ちました。
途中退席で失礼しましたが、
今度は是非、フルで楽しませていただきたいと思います。
ウチの嫁様も、持ち帰ったテキストを熱心に読んでましたよ♪
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
h.hamauzuさんとご縁が出来たこと、とても嬉しく思います。
当日はお約束があったところを、わざわざ駆けつけてくださったことに感謝しますし、テキストもお役に立てたようで嬉しい限りです(^^♪
1572年、室町幕府(むろまちばくふ)の第15代将軍であった足利義昭(あしかがよしあき)の求めに応じた信玄は上洛を決意し、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは徳川家康(とくがわいえやす)を散々に打ち破りました。しかし、その直後に信玄は無情にも病(やまい)に倒れ、天下統一の夢は遂(つい)にかないませんでした。
もし信玄が病に倒れなければ、信長を滅ぼして上洛を果たしたのみならず、義昭に代わってやがては天下を統一し、武田氏による幕府が開かれていたかもしれない―。信玄の実力が惜しまれるがゆえに伝えられている話ですが、果たして本当にそう言い切れるのでしょうか。
天下統一を成(な)し遂(と)げるには、信玄のように軍事力や資金力を持っていることが重要な条件ではありますが、実はそれだけでは不可能なのです。同じく軍事力と資金力とを両有していた信長が天下取りに近づいているという現実がある一方で、なぜ信長にはできて、信玄にはできなかったのでしょうか?
それは、信長と信玄との「決定的な違い」が3つあったからなのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
どんなに出世欲があっても、どんなにお金を持ち合わせていても、病には勝てないものですね(><)
決定的な違い・・なんでしょか・・
明日の記事に期待します!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どんなに出世欲があっても、どんなにお金を持ち合わせていても、病には勝てないものですね(><)
寿命には絶対に勝てないのが人間ですからね。
だからこそ我々は日常を精一杯生きているのですが。
> 決定的な違い・・なんでしょか・・
> 明日の記事に期待します!
有難うございます(^^♪
次回(20日)の記事にヒントが出ますよ(^_^)v
.今晩は
りら 大輔の記事にコメントありがとう
今日は休暇を取りました
涙 涙の一日でした
ホームページも頑張って
彼のアップしました
りらさんへ
黒田裕樹 高橋選手の銅メダルは感動的でしたね。
今日は普段は消えている職場のテレビもつけっぱなしでした(笑)。
HPも拝見しましたよ(^_^)v
愛情あふれる画像ですね。
再度 今晩は
りら HPも見て下さり
コメントも早速丁寧に頂き
ありがとうございました
感動の一日 今夜はなかなか
眠れません
りらさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、りらさんにとって素敵な休日になったことは、我がことのように嬉しいです(^^♪
日付は変わりましたが、感動の夜をお過ごしください。
.
けん爺ちゃん 先生、こんにちは(^ワ^)
やっと今週の夜勤が終わりました。
東京講座編ですね!
信長だけじゃ面白くない、そこで…という
話の展開を聞いてるだけで、自分がそこにいたら顔がニヤけてると思います(^^)
過去最高の人数だったようで…ホントにお疲れ様でした。
信玄との決定的な違い…
何なのか楽しみです☆
色々考えながら、続きを楽しみにしてますね(^△^)
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 先生、こんにちは(^ワ^)
> やっと今週の夜勤が終わりました。
お疲れ様です。私は経験ないですが、夜勤の大変さは伺っておりますm(_ _)m
> 東京講座編ですね!
> 信長だけじゃ面白くない、そこで…という
> 話の展開を聞いてるだけで、自分がそこにいたら顔がニヤけてると思います(^^)
> 過去最高の人数だったようで…ホントにお疲れ様でした。
有難うございます。
わたしもけん爺ちゃんさんの( ̄ー ̄)ニヤリとしたお顔を拝見したいものです(^^♪
> 信玄との決定的な違い…
> 何なのか楽しみです☆
> 色々考えながら、続きを楽しみにしてますね(^△^)
前フリが長くなりましたが、明日(21日)からいよいよ本題に入りますので、ご期待ください!(^_^)v
.
てっちゃん中尉 黒田裕樹さんへ、こんばんは☆
流石ですね。見事に編集なされています。これからも楽しい講座期待していますよ。
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 流石ですね。見事に編集なされています。これからも楽しい講座期待していますよ。
有難うございます(^o^)丿
本物の講座では一気にしゃべったことも、ブログ上では時間をかけてじっくりと進めますから、編集作業が不可欠です。
てっちゃん中尉さんのように、一度お聞きになられた方でもお楽しみいただけるような内容であればと願っております。
ところで、この川中島の戦いですが、実は激戦となった4回目以外は目立った戦いはなく、両軍とも戦(いくさ)の途中で引き上げているという事実を皆さんはご存知でしょうか。また、4回目の戦いが行われた時期と、それ以外の戦いの引き上げの時期は、いずれも旧暦の9月から10月(現在の10月から11月)となっているのですが、これは何を意味するのでしょうか。
さらに、5度にわたって戦いを続けるということは、それだけ川中島での攻防に長い時間を費(つい)やさなければならないということでもありますが、実際に信玄と謙信は何年間戦い続けたのか、皆さんはご存知でしょうか。
実は、川中島の戦いには「信長と信玄との決定的な違い」の3つのうち、2つまでもが秘められているのです。では、その2つとはいったい何なのでしょうか。ここでは、まず川中島での「戦いの時期」から、1つめの「決定的な違い」を考察(こうさつ)してみることにします。




いつも有難うございます。
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伝次郎 この伝説的な話はよく描かれていますね。(たくさん見た覚えがあります。)
しかし、実際このような大将どうしの一騎打ちがあるとすれば、その戦場は大混乱か、一方が負け戦状態になっていたと予想します。
信濃、甲斐は塩が無く、困った話は有名かと思いますが、兵糧は足りていたのか知りたいところです。
.
ぴーち こんばんは!
文中に沢山のヒントが隠されて
いるのでしょうが、全く検討が付きません^^;
また、明日の記事を楽しみにしています^^
応援凸
伝次郎さんへ
黒田裕樹 > この伝説的な話はよく描かれていますね。(たくさん見た覚えがあります。)
> しかし、実際このような大将どうしの一騎打ちがあるとすれば、その戦場は大混乱か、一方が負け戦状態になっていたと予想します。
仰るとおり、謙信による一騎打ちが可能だったのは、信玄の本陣が大混乱だったからだといわれています。あともう少し援軍が来るのが遅かったら、信玄は首をとられていたかもしれませんね。ただ、この川中島の戦いは戦国屈指の名勝負といわれており、それ自体に問題はないと思うのですが…。
> 信濃、甲斐は塩が無く、困った話は有名かと思いますが、兵糧は足りていたのか知りたいところです。
兵糧に関しては、それほど大きな問題にはならなかったと思われます。それよりももっと大きな問題があったんですよね。これは信玄に限らず、ほとんどの戦国大名にも同様にいえるのですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 文中に沢山のヒントが隠されて
> いるのでしょうが、全く検討が付きません^^;
> また、明日の記事を楽しみにしています^^
恐れ入りますm(_ _)m
後でお知りになった際に「そうだったのか!」と仰っていただけるような内容であることを願っておりますね。
今晩は
りら 謙信と信玄
あまりにも偉大です
どちらにも見方したくなりなす
黒田さんの大輔へのコメント
素晴らしかったです
私も心をこめてお返事書かせて
頂きました
これからも宜しくお願いします
.なんでだろ~?
オバrev 川中島の戦いはいったいどういう意味があったんでしょうか。
なにか無駄に時間と労力を費やしただけのような(;^_^A?
りらさんへ
黒田裕樹 謙信も信玄も一時代を築く可能性があった武将といわれていますからね。
その強さは確かに素晴らしいものがありました。
しかし、それでも天下を取れないところに統一事業の難しさがあります。
高橋選手の快挙は時間が経っても色あせることはないですね。
ファンであるりらさんのお気持ちを考えまして、私も魂のこもったコメントを書かせていただいたつもりです。こういう交流も良いものですよね。有難うございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 川中島の戦いはいったいどういう意味があったんでしょうか。
> なにか無駄に時間と労力を費やしただけのような(;^_^A?
繰り返しになりますが、オバrevさんは鋭いですね(^^ゞ
川中島の戦いの意味を見極めることも、「決定的な違い」を解く一つのカギになりそうです。
実は、信玄の立場からすれば、それは不可能な相談でした。なぜなら、信玄は兵農分離(へいのうぶんり)ができていなかったからです。
この頃、信玄を含む多くの戦国大名の兵力の大半は、実は地元の農民兵でした。彼らは親や妻、あるいは幼い子供などの家族を故郷に残していることもあって、命がけで戦ったために強かったという側面が確かにありました。
しかしその一方で、初夏や初秋のような、田植えや刈り入れなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、農作業に専念させなければ一年の収穫(しゅうかく)を得ることができません。それゆえに、農民兵は「一年中戦うことができない」という大きな弱点を持っていました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こばんは!
あ~なるほど~~(笑)
そういう事だったんですね^^
農民を兵士にしてしまうと、
確かに、一年中は戦えませんよね~
はい、納得しました(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あ~なるほど~~(笑)
> そういう事だったんですね^^
> 農民を兵士にしてしまうと、
> 確かに、一年中は戦えませんよね~
> はい、納得しました(笑)
仰るとおりです。どんなに強い兵であっても一年中戦えないとなれば、どこかで必ず引き上げざるを得ませんよね。だとすれば、天下統一へ向けて最前線に兵力を温存することも不可能に近くなります。
そして、兵農分離ができないということの問題はこれだけではないのですが…それは明日(22日)以降をお楽しみに(笑)。
.呑気?
オバrev なんとまぁ、呑気な戦いですね。
これは信長からみれば、非常に非合理的に見えるんじゃないでしょうか。
黒田裕樹さん
りら 今回のお話しだけは
前より知っていました
農民の犠牲はその後も続きますよね
いつも素晴らしいコメントで
私のブログを彩って下さるのに
他愛もないコメントしか出来ず
御免なさいね
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なんとまぁ、呑気な戦いですね。
仰るとおり、一年中戦うのが当然の立場からすれば、呑気に見えますよね。
> これは信長からみれば、非常に非合理的に見えるんじゃないでしょうか。
そのとおりだと思います。なぜ信長からは非合理的に見えるかというと…。
りらさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、農民の犠牲や負担は相当なものでした。
それゆえに農民兵には様々な問題があったのですが、次回以降の講座で明らかにしていきますね。
コメントの件はどうぞお気になさらずに(^^♪
一所懸命ご覧いただけることに感謝しております。
さらに、兵農分離ができないという現実は、同時に大きな問題を抱(かか)えることになってしまいました。それは「本拠地を動かせない」ということです。なぜか分かりますか?
戦いに勝てば、通常ならば領土が広がります。ということは、より兵を動かしやすかったり、あるいは経済的に有利であったりする場所に本拠地を移動させたいというのは当然の考えだと思われがちですよね。
しかし、地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑(でんぱた)であり、農繁期には当然田畑に釘付(くぎづ)けになりますから、領土が広がったからといって、田畑を動かせない以上は、そう易々(やすやす)と彼らを移動させることはできなかったのです。
信玄は晩年、より京都に近く、海路も利用できる駿河国(するがのくに、現在の静岡県東部)を領有しながら、本拠地を甲斐から動かすことができなかったのも、これが主な理由でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
要するに、日本のような
農耕民族は、元々、戦には不向きな形態であり、戦には参戦するべきではないという事なんでしょうかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 要するに、日本のような
> 農耕民族は、元々、戦には不向きな形態であり、戦には参戦するべきではないという事なんでしょうかね^^;
そうですね。戦に不向きなのはそのとおりだとは思いますが、裏切らずに(というよりも裏切れずに)命がけで戦うという点では心強かったと考えられます。
生命や財産を守るためには、農耕民族といえども戦わねばならないときがある、といったところでしょうか。
.
HANA子 昔の大河ドラマの「秀吉」で
秀吉が光秀に「武田はいつ動くと思う?」と聞かれて、
「武田は土着の農民兵が主力だから、田植えの終る5月までは動きますまい」と答えてて、
なるほど~と思った覚えがありました
確かに農民からしたら自分の土地は愛着云々以前に唯一の財産ですものね
そういう縛りが武田信玄の泣き所であったということですかぁ
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
一年中戦えなくて、移動もできなければ、どんなに兵が強くても爆発的に領地を拡大することができません。まさに泣き所ですよね。
加えて、今日(23日)のような所業をすればなおさらということになります。
兵農分離ができないということに関してですが、実はもう一つ、現代では想像もつかない「過酷(かこく)な現実」もありました。いったい何のことでしょうか?
農民兵には、自分たちが所有する田畑による生産性こそ持っていましたが、通常は戦国大名から年貢を取られるだけで、収穫のほかに収入らしいものはないために、常に不満を持っていました。そんな彼らの不満を解消する方法が何かといえば、実は「略奪」(りゃくだつ)だったのです。
当時の戦国大名にとっては、戦いに勝って攻め落とした城内や領内で、略奪や婦女などへの暴行を行うのがいわば「常識」でした。なぜなら、それが農民兵たちへの唯一といっていい「戦利品」だったからです。そして、この常識は信玄においても例外ではなかったどころか、信玄自身が敵方の有力武将の妻女などを競売(きょうばい)にかけている始末でした。
さて、信玄のように兵農分離ができず、農民兵が中心となった軍勢では様々な問題が起きていたというのは分かりましたが、一方の信長の場合はどうだったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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伝次郎 信玄はただでさえ、兵農分離ができず兵士や農民が不足しがちになったりするのに、他の領土の民から恨まれるような事をしては領土は拡大できないと思いました。
しかし、戦国乱世のこの行いは、応仁の乱も足軽たちが残虐に好き勝手やってた名残なのでしょうか?
たしか、片倉景綱は真田幸村の娘を乱取りしていたと思います。(間違っていたらすいません)
伝次郎さんへ
黒田裕樹 > 信玄はただでさえ、兵農分離ができず兵士や農民が不足しがちになったりするのに、他の領土の民から恨まれるような事をしては領土は拡大できないと思いました。
> しかし、戦国乱世のこの行いは、応仁の乱も足軽たちが残虐に好き勝手やってた名残なのでしょうか?
それはあるかもしれませんね。もともと「何でもあり」の戦国時代ですから、その風習が一般兵にまで広まっていたと考えられます。
> たしか、片倉景綱は真田幸村の娘を乱取りしていたと思います。(間違っていたらすいません)
片倉景綱の件は存じ上げませんが、景綱の子の重長は、真田信繁(=幸村)の娘を妻としているようですね。
.
ぴーち こんばんは!
私は29987番でした(^^A
この後の訪問される方が、キリ番を
踏まれる事でしょうね!
国が乱れている時というのは、人間の欲望の赴くままに、暴動、暴行事件が多発するようですね。
乱世のドサクサに紛れて、好き勝手をしても、その後に天罰が下りそうな予感はしますが・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 私は29987番でした(^^A
> この後の訪問される方が、キリ番を
> 踏まれる事でしょうね!
この時間帯(21時前)であと一ケタに迫っています。踏まれた方には是非ご報告いただきたいところですが…(^^ゞ
> 国が乱れている時というのは、人間の欲望の赴くままに、暴動、暴行事件が多発するようですね。
> 乱世のドサクサに紛れて、好き勝手をしても、その後に天罰が下りそうな予感はしますが・・。
いかに時代が違うとはいえ、確かに天罰が下ってもよさそうなものですよね。
戦国大名の多くはまともな死に方をしていませんが…。
晴雨堂ミカエル 書き直された文面、拝見しました。事実関係として正確な一文だと思います。私ならあれで納得いたします。
ただ、「熱心」な護憲市民の中には帝国憲法を肯定的に評した文脈に枝盛の名を入れた事に悪意と作為を感じてクレームをつけたり削除を要求することもあり得ますから、心の準備はしておいたほうが良いかもしれません。
信玄と信長ですが、関連する小説に半村良氏の「戦国自衛隊」があり、その中で戦国時代にタイムスリップした主人公伊庭三尉が「現代の銃火器が無くても、我々の戦略戦術だけで十分勝てる」と言うくだりがあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今後もより正確な内容を目指していきたいと考えております。
仰るとおり、鉄砲などの銃火器がなかったとしても、戦術を駆使(くし)すれば一時的には勝利を収めることになるかもしれません。しかし、長期的な戦略なくしては天下統一は難しいのではと考えており、そのあたりについて今後の講座の中で紹介できればと思います。
また、傭兵は農民兵のように田畑を持っていないことから移動の自由があり、それゆえに戦国大名が本拠地を移しやすいという長所も持っていました。現実に、信長は尾張から美濃国 (みののくに、現在の岐阜県)、さらには安土(あづち、現在の滋賀県)と本拠地を何度も移動しています。
農民兵と比べて長所の多い傭兵ですが、それだけ便利であるのならば、なぜ信玄が信長と同じように兵農分離を行って、傭兵を持たなかったのかというのが不思議ですね。しかし、現実には信玄には傭兵を持つことがほとんど不可能でした。なぜ信長には傭兵を持つことができて、信玄にはできなかったのでしょうか?
それは、信長と信玄との間における、経済力の大きな違いが原因だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
現代で言う正社員を雇うよりも、派遣社員を雇う方が、会社の運営としては、色々と有利という意味と同じでしょうか?
経済力が豊富で、兵隊を増やすのも良いですが、必ずしも、兵士が大勢いるからと言って、戦に大勝するとは、限らない気もします。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代で言う正社員を雇うよりも、派遣社員を雇う方が、会社の運営としては、色々と有利という意味と同じでしょうか?
そうですね…。お金で雇っている分はずっと織田家に仕えていますし、兵力集めに猫の手も借りたい時代でしたから、扱いとしては正社員級だったと思います。
> 経済力が豊富で、兵隊を増やすのも良いですが、必ずしも、兵士が大勢いるからと言って、戦に大勝するとは、限らない気もします。
そのとおりです。相手が強ければ逃亡する危険がありますから、必ずしも勝てるとは限りません。しかし、傭兵にはその弱点を補って余りあるメリットが存在するのもまた事実なんです。そのあたりを次回以降に詳しく紹介しますね(^^♪
.
紗那 お久しぶりですっ!
確かに信長が、兵農分離をしたっていうのは有名な話ですね。
信玄には出来なかったんですか……?
何ででしょうか、ちょっと学校で考えてみます。てか、先生に聞いてみます(え
紗那さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりですっ!
お久しぶりです(^^♪
受験前のお忙しい中のコメ、有難うございますm(_ _)m
> 確かに信長が、兵農分離をしたっていうのは有名な話ですね。
> 信玄には出来なかったんですか……?
> 何ででしょうか、ちょっと学校で考えてみます。てか、先生に聞いてみます(え
分からない場合には、まず自分で調べるのは良いことですね。
その後で私の講座を見ていただければ、より理解が深まると思いますよ(^o^)丿
一方、信玄は金山こそ持っていたものの、それが限りある資源である以上、傭兵を常に雇い続けるには無理があったのが現実でした。
ちなみに、鉄砲などの近代兵器を信玄が信長のように数多く所有できなかったのも同じ理由からです。
特に、火薬の原料となる硝石(しょうせき)は、国内では一切生産されないため、海外からの輸入に頼っていました。従って信長のように巨大な貿易港を抑(おさ)えることが重要だったのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル よく時代劇では武田勢を旧態依然とした騎馬軍団として描かれ、鉄砲を軽んじていたかのようになっていますが、信玄も早くから鉄砲の導入に力を入れていたようですね。
また、長篠の合戦もよくある描写では織田徳川連合軍の銃列に馬鹿みたいに突っ込んで自滅する絵がありますが、織田勢もまだ武田の大軍を圧倒するほど大量の鉄砲は保有しておらず、大雨で視界の悪い時に挟路へ誘い込まれて陣地から銃撃されたとの説もあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに武田軍も鉄砲導入には力を入れていたと考えられますが、鉄砲を買うにしても造るにしても、莫大な資金を必要としますし、また本編で書かせていただいたように、硝石なくしては鉄砲は何の役にも立ちません。
鉄砲の重要性に気がつくと同時に、直ちにあらゆる行動に出た信長の方が、信玄よりも一歩も二歩も先んじていた、といったところでしょうか。長篠の戦いにおける「伝説」も、事の真偽は別にして、武田軍が後手に回ったというイメージがあったからこそ、後世にそのような印象を与えてしまったのでは、とも考えられます。
ではなぜ信長が鉄砲の重要性に早く気づくことができたのか…については、今後の講座の中で詳しく紹介できると思います。
.
ぴーち こんばんは!
学生時代、断片的な言葉だけを
覚えたせいか、どの時代に使われていた用語だったのか、頭の中で混乱していましたが、「楽市楽座」などはここで登場したものなのかと、改めて、納得させていただきました!
今日の記事に、なるほど~!と首を縦に振り通しの私です^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 学生時代、断片的な言葉だけを
> 覚えたせいか、どの時代に使われていた用語だったのか、頭の中で混乱していましたが、「楽市楽座」などはここで登場したものなのかと、改めて、納得させていただきました!
> 今日の記事に、なるほど~!と首を縦に振り通しの私です^^;
確かに、通常の歴史教育では断片的な知識しか得ることができませんから、時間が経てば少しずつ忘れ去っていくのは致し方がないと私と思います。
私の講座も似たり寄ったりだとは自覚しておりますが、少しでも皆さんの理解につながるように頑張っていきたいですね(^^♪
.
HANA子 以前の吉宗や松平定信の講義でも触れられていた重商主義の優位性
農民からの年貢のみに頼るのではなく、商業の発展を重く見ていたという点で、やはり信長には先見性があったってことなんですね
今回の傭兵の件でも思い出したんですが、そういえば信長は外人の傭兵団を用いていたって話もありましたっけ
性格の苛烈さとは逆に内政・軍事ともに堅実で入念な前準備をかかさないってことも聞いたことがありました
次回も楽しみにしてます~
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 以前の吉宗や松平定信の講義でも触れられていた重商主義の優位性
> 農民からの年貢のみに頼るのではなく、商業の発展を重く見ていたという点で、やはり信長には先見性があったってことなんですね
そのとおりです。重商主義に切り替えないと、経済の発展は望めないですからね。「先見性」については、今後の重要なキーワードになりますよ(^^♪
> 今回の傭兵の件でも思い出したんですが、そういえば信長は外人の傭兵団を用いていたって話もありましたっけ
> 性格の苛烈さとは逆に内政・軍事ともに堅実で入念な前準備をかかさないってことも聞いたことがありました
外国人の傭兵としては、黒人の弥助が有名ですね。また、桶狭間の戦いも、奇襲でありながら事前の情報を重視していたなど、したたかさを持つあたりも信長の強みですね。
> 次回も楽しみにしてます~
有難うございます(^o^)丿
兵農分離に関してはもう少し続きます。
こんばんは
スカイラインV35 今回は歴史からちょっと離れますが、エネルギッシュな黒田先生の動画を拝見して、以前通っていた予備校の講師を思い出してしまいました。今の予備校はわかりませんが、その頃の予備校の先生は大体が学生運動経験者みたいな感じでした。
日本史の講師の先生は、授業で中国や西洋の人名をわざとらしくオーバーに発音したりしていましたが、後からそこだけが鮮やかに記憶に残っていたりして、あぁそういう事だったのか。と、受験の為の日本史でしたが、そんな記憶があります。
黒田先生のブログも損得抜きで何か良い物を感じますね。
何のコメントか分からなくなってしまいましたが、これからも頑張って下さい。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
私の時代にもそんな予備校教師がいましたね。確かに彼らの教え方は独特でしたが、仰られたとおりで、長く印象に残っています。私も知らず知らずのうちに身につけているのかもしれません(笑)。
せっかくの講義ですから、やはり皆様にはご理解を深めていただきたいと考えておりますし、今後もさらに研究を深めて、より良い講座にできればと思っております。
.投票
sisi 動画見ましたよ、信玄と信長の関係ですね、いいご活躍でしたね。
ブログ村投票しました。
私もちょうど信長夫人濃姫を描き入れました。
sisiさんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
> 動画見ましたよ、信玄と信長の関係ですね、いいご活躍でしたね。
お言葉有難うございます。自分としても満足な内容の講座であったと思っております。
> ブログ村投票しました。
> 私もちょうど信長夫人濃姫を描き入れました。
投票下さって感謝します。こちらからも訪問させていただきますね。
実は、略奪を必要としないだけの給金を傭兵たちに与えていたからなのです。
普段から略奪を必要としないだけの給金を渡していれば、兵たちへの抑えも利くというものですね。そのために必要な莫大な財力も、経済力を高めた信長にとっては何の問題もありませんでした。
傭兵たちの中には、例外的に略奪行為をするような不心得者(ふこころえもの)もいましたが、事実を知った信長は激怒して彼を捕まえると、木に縛(しば)りつけたうえでさらし者としました。この馬鹿者は例外である、と強くアピールしたのです。
自分の領内に、略奪や暴行を働きまくる兵力と、それらを一切せずに自分たちを守ってくれる兵力の二つが存在したとすれば、皆さんはどちらを選びますか。答えはいうまでもないですよね。地域の住民の支持を集めるのも、天下統一への重要なポイントだったのです。
以上述べたとおり、信長と信玄との「決定的な違い」の1つめは「信玄の軍勢は兵農分離ができていなかった」ことでした。では、2つめはいったい何でしょうか?
カギを握るのは、先述した「川中島での攻防にかけた時間」です。




いつも有難うございます。
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オバrev なるほど~、天下統一は、偶然やラッキーではできないもんなんだ。
やはり、それを裏付ける根拠があって力がないと取れない。
ただ、想定外のミスや失敗もありうるので、両方をバランスよく兼ね備えていることが必要なのかも?
それにつけても今日のバンクーバー、金でなくても真央ちゃんの笑顔が見たかったです。
でも3アクセル3発成功だけでも素晴らしい!セイノッZ(^・^)ヨクヤッタヨー\(~0~)/オメデトウー
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、天下統一は、偶然やラッキーではできないもんなんだ。
> やはり、それを裏付ける根拠があって力がないと取れない。
> ただ、想定外のミスや失敗もありうるので、両方をバランスよく兼ね備えていることが必要なのかも?
そのとおりですね。天下統一には運と実力の両方を兼ね備える必要があります。と同時に、さらなるプラスαが必要なんですが…とりあえず2つめは明日(27日)以降ということで(笑)。
> それにつけても今日のバンクーバー、金でなくても真央ちゃんの笑顔が見たかったです。
> でも3アクセル3発成功だけでも素晴らしい!セイノッZ(^・^)ヨクヤッタヨー\(~0~)/オメデトウー
私も同感です。真央ちゃんの涙は今後の成長のための試練と思いたいものですね。
実力では決してひけをとりませんから、次の希望へ向けて頑張って欲しいものです。
.
紗那 なるほど、経済的な面でも信長は優れていたんですね。 軍事的な面だけだと思われがちですけど。 実際、自分のクラスにもそういう人はいますし。
貿易が出来たのも、プラスなのか。 ゲームとかでは、大体、鉱山と交易って、収益は同じくらいに設定されてる門ですけどね。やっぱり、実際には大きな差があったってことでしょうか。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど、経済的な面でも信長は優れていたんですね。 軍事的な面だけだと思われがちですけど。 実際、自分のクラスにもそういう人はいますし。
そうなんです。経済的な面で優れていると、ここまでの大きな差が出るんですよね。
クラスにも色んな人がいると思いますが、個人によるアドバンテージは様々です。しかし、仮にハンデがあったとしても、それを乗り越えるのも人生の一つですね。
> 貿易が出来たのも、プラスなのか。 ゲームとかでは、大体、鉱山と交易って、収益は同じくらいに設定されてるもんですけどね。やっぱり、実際には大きな差があったってことでしょうか。
ゲームの世界ではなかなか表現しきれないですからね。
現代でも貿易額というのはかなり大きいですし、我が国の産業の根幹にも関わりますから、大きな差がつくのは当然かと思われます。
信玄と謙信は川中島で5度戦っていますが、彼らは何と11年間(1553年~1564年)も戦いに費やしているのです。そもそも川中島の戦いは、信玄が信濃国(しなののくに、現在の長野県)の北部を征服した際に、前の領主であった村上義清(むらかみよしきよ)が領地回復を謙信に訴え、謙信がこれに応(こた)えたことで信玄の宿敵となったことから始まりました。
多くの血を流すなど、様々な苦労を重ねてせっかく手に入れた新たな領土ですから、信玄の必死の思いも分からないことはないですが、それでも10年以上も戦い続けるというのは、余(あま)りにも時間を浪費し過ぎてはいないでしょうか。
もし信玄が上洛の意思を早くから持っているのであれば、目先の利益である北信濃よりも、上洛のための通り道(例えば美濃)を早めに抑えることのほうが遥(はる)かに重要でした。極論すれば、北信濃は村上氏に返して恩を売り、また謙信とも同盟して後顧(こうこ)の憂(うれ)いを断てばよかったのです。
戦国時代きっての名勝負とうたわれた川中島の戦いも、天下統一のための重要な第一歩である上洛を目標と定めるのであれば、実は必ずしもやらねばならないものではなかったのでした。




いつも有難うございます。
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【クメゼミ[i:63716]】塾長 武田信玄が亡くなった後、仮に埋葬された時の石棺(モガリ?)が発見されています
場所は甲府の躑躅ケ崎館(現武田神社)から数百米の距離です
碑文の戒名で明らかになりました
躑躅ケ崎館の風林火山の旗
御旗楯無の鎧…
史跡を訪れると悠久の時間と歴史のロマンを感じますね
コメントありがとうございました
いつか黒田先生の講座に伺いたいと思っています
以上、携帯からでした
こんばんは
スカイラインV35 織田信長の合理的な思考が良く伝わります。
史実は分かりませんが、寡兵で大兵に勝利した桶狭間の合戦。しかし、「織田信長の偉大な所は、奇跡を信じて突っ込んでいったのは、生涯この一度きりである」。それ以外は実に合理的な思考の持ち主だったんでしょうね。
現代のベンチャービジネスなどにも十分応用出来そうですよね。
.
ケンシロウ こんにちは。
今日は講座の日でしたね。
相変わらず盛況だったことだと思います。
武田信玄は50過ぎで病死した記憶がありますが
病死しなければ上洛の夢を果たせていたのでしょうかね。
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 信玄は、自身の死を隠すために仮埋葬させたという伝説がありましたからね。その史実を裏付ける資料が事後に発見される…まさしくロマンですよね。
> コメントありがとうございました
> いつか黒田先生の講座に伺いたいと思っています
こちらこそお言葉有難うございます。
私も塾長さんのご講演をいつかは拝聴したいと思っております。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 織田信長の合理的な思考が良く伝わります。
> 史実は分かりませんが、寡兵で大兵に勝利した桶狭間の合戦。しかし、「織田信長の偉大な所は、奇跡を信じて突っ込んでいったのは、生涯この一度きりである」。それ以外は実に合理的な思考の持ち主だったんでしょうね。
桶狭間の際には絶体絶命でしたから、乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負をかけたといわれていますが、確かにそれ以外は無難な戦をしているという印象がありますね。仰るとおり、それだけ合理的だったということでしょうか。
> 現代のベンチャービジネスなどにも十分応用出来そうですよね。
戦国時代という枠に縛られない、自由な発想は確かに参考になりそうです。これもまた新たな発見ですね。有難うございます。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 今日は講座の日でしたね。
> 相変わらず盛況だったことだと思います。
有難うございます。今回も盛況のうちに終えることができました。
> 武田信玄は50過ぎで病死した記憶がありますが
> 病死しなければ上洛の夢を果たせていたのでしょうかね。
おそらく上洛自体は成功したでしょう。
ただ、その後が続いたのかどうかが疑問に感じるところなんですね。
そのあたりについて詳しく紹介できればと思っております。
信長は、1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を滅ぼしましたが、通常の戦国大名なら真っ先に考えるのが、当主亡き後の今川氏の領土を奪い取ることでした。
今川氏の領土は三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)から遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)、駿河国と広がっており、これらの国は気候が温暖で収穫も多く、海の幸(さち)にも恵まれ、さらには金山もあるという経済力豊かな地域でした。
しかし、現実の世界においては、信長は今川氏の領土には目もくれず、徳川家康と同盟を結んで、家康に今川氏の攻略を任せたうえで、自らは美濃の征服を目指しています。なぜ信長はこういった手段を選んだのでしょうか?
実は、この選択こそが、信長による「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、
とりあえず、半径1mのものにしか
目に入らない信玄と、半径100m以上もの範囲を見通せた信長とでは、
その視野の広さで、どちらに軍配が上がるか、既に結果が出ていたワケですね^^;
応援凸
.
まり姫 黒田さんこんばんは☆
先日は記念のコメントありがとうございました(*^.^*)エヘッ
黒田さんももう少しですねσ(゚ー^*)
連続更新で記念日を迎えられること期待してますね~♪
ぽち
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、
> とりあえず、半径1mのものにしか
> 目に入らない信玄と、半径100m以上もの範囲を見通せた信長とでは、
> その視野の広さで、どちらに軍配が上がるか、既に結果が出ていたワケですね^^;
なかなか絶妙な例え方ですね(^^ゞ
仰るとおり、視野の広さが二人の明暗を分けたのだと思います。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 先日は記念のコメントありがとうございました(*^.^*)エヘッ
> 黒田さんももう少しですねσ(゚ー^*)
> 連続更新で記念日を迎えられること期待してますね~♪
有難うございます。
あと一ヶ月ですから、まずは近い目標に向かって頑張っていきますね(^_^)v
.
紗那 なるほど!
上洛ですか? 今川氏の領土では、京都とは反対側になりますし。
答え合わせしなければ……
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> 上洛ですか? 今川氏の領土では、京都とは反対側になりますし。
そういうことです。
上洛を目指すのであれば、わざわざ反対方向へ行くこともないですよね。
> 答え合わせしなければ……
いかがでしたでしょうか?(^^♪
この講座はまだまだ続きますよ(笑)。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦国時代は、今よりも、今日、生き延びるのに
精一杯な武将が当たり前だと思います。
ということは、武田信玄、上杉謙信が普通で
信長が天才のような気がします。
これと似たような事例として、源義経は戦上手でも
ビジョンがなかった。
源頼朝は、ビジョンがあり、最後に鎌倉幕府を開きました。
最近、テレビ番組などで、『政治家には、ビジョンがないとか、経営者には、ビジョンがない。』とか、話題になりますが、
最近の政治家は、目の前の対処療法ばかりで、
ビジョンがないように思います。
やはり
政治家というリーダーには
絶対に必要ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明確なビジョンがあってこその政治家と言えるでしょう。
今の政府の信用が低くて、橋下氏の維新の会が人気があるのも、氏の言葉に明確なビジョンが見られるからだと思います(実現性は未知数ですが、民主党のマニフェストのようなことにはならないでしょうし)。
ということは、信長は自己の領地を守るために、信玄や北条氏への抑えとして常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになります。そんな「防衛するのが精一杯」の情勢において、天下取りの第一歩として上洛を目指すようなことが可能でしょうか?
そこで、信長は奪えるかもしれない今川氏の領土をあっさりと捨てて、家康に三河の攻略を勧めることで、いわば三河を「クッション」として自領の尾張を「安全地帯」にしたうえで、後顧の憂いをなくして美濃を攻め取り、上洛への道を確保したのです。
これらの事実から、信長には早くから上洛を目指すという、明確で先見性のあるビジョンがあったといえるでしょう。一方、信玄は上洛を決意してからわずか半年後に、病に倒れて亡くなってしまいます。北信濃という「目先の利益」にこだわり、天下取りへのビジョンを持たなかったがゆえの、信玄の「余りにも遅すぎる」上洛への決断でした。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 私は光栄の歴史シミュレーションウォーゲームのファンで、「信長の野望」は新作が出るたびにやっています。
よくできたゲームで、信長が三河をとらなかった理由が具体的に解りますよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 私は光栄の歴史シミュレーションウォーゲームのファンで、「信長の野望」は新作が出るたびにやっています。
> よくできたゲームで、信長が三河をとらなかった理由が具体的に解りますよ。
信長の野望は私も昔はよくプレイしました。
確かに、戦国時代の流れが良く分かるゲームですよね。
.
HANA子 あまり同意してくれる人がいなくて寂しいんですけど、
信長とビスマルクってけっこう共通点のある人じゃないかなーとか思ってます
必要であれば大いに戦争もやり、そうでなければ戦争に拠らない方法で解決をはかり、
その時々で最も合理的で現実的な手法でぶれずに目的を達成していく
戦国時代の武将で最も「勝ちやすきに勝つ」を実践している人じゃないかなと
あらためて感心しました
ゲームといえば、ボードゲームですけど「ディプロマシー」をよく遊びました
第一次大戦の欧州を舞台にした国獲りゲームですけど、これって国によっては歴史授業の教材にもなってるんだそうです
「信長の野望」もですけど、ゲームと歴史って相性がいいのかもしれませんね~
.今晩は
りら やっと訪問出来ました
信長は女性にはかなり人気です
私のブログを持っていない
友達も楽しみにしています
これからも勉強させて下さいね
また明日お逢いしましょう
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、ビスマルクですか。「鉄血宰相」の合理性は確かに信長に通じるところがありますね。
余談ですが、私はビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名言がお気に入りです(笑)。
> ゲームといえば、ボードゲームですけど「ディプロマシー」をよく遊びました
> 第一次大戦の欧州を舞台にした国獲りゲームですけど、これって国によっては歴史授業の教材にもなってるんだそうです
> 「信長の野望」もですけど、ゲームと歴史って相性がいいのかもしれませんね~
戦いのボードゲームを授業にするとは、柔軟な発想ですね。歴史をゲームで学べれば楽しいと私も思います。ただ、それとなく歪んだ知識をもたらす恐れもありますので、注意が必要ですね。
りらさんへ
黒田裕樹 確かに、信長は女性に持てる要素を持っていそうですね。秀吉の妻のおねに書いた手紙の繊細さなどは素晴らしいですし。
貴重なお知らせを有難うございます。より多くの方に私のブログをご覧いただけて、本当に嬉しいです。
.
桃源児 よく短気で、何ごとも急いで進めそうなイメージを持たれている信長ですが。実際はものすごく気長というか、長期的なビジョンを確かに持っていましたね。
姉川の後も、浅井、朝倉を一気に攻めず、長篠の後も武田家が自壊するのを待って、軍を進めた。
鳴くまで待とうホトトギスという言葉は、家康よりも信長にこそ相応しいですね。
使用されている信長と信玄の肖像、一般に知られている物ではなく、より実物に近いと言われている物を使われているんですね。
リンクの件、OKです。
桃源児さんへ
黒田裕樹 > よく短気で、何ごとも急いで進めそうなイメージを持たれている信長ですが。実際はものすごく気長というか、長期的なビジョンを確かに持っていましたね。
> 姉川の後も、浅井、朝倉を一気に攻めず、長篠の後も武田家が自壊するのを待って、軍を進めた。
> 鳴くまで待とうホトトギスという言葉は、家康よりも信長にこそ相応しいですね。
仰るとおりですね。見た目はせかせかして短気であっても、天下統一という長いスパンで物事を見ることのできる稀有(けう)な政治家だったと思います。
> 使用されている信長と信玄の肖像、一般に知られている物ではなく、より実物に近いと言われている物を使われているんですね。
そのとおりです。
せっかく東京で講座を行う機会を得ましたので、同じ開くのであればいつもとは違った肖像を使おうと思って採用しました。皆様の評判も良かったので嬉しかったです。
> リンクの件、OKです。
有難うございます。今後ともよろしくお願いいたします。
ということは、もし信玄の軍勢が兵農分離を可能として傭兵を雇うことで一年中戦うことができるようになり、また信玄が早くから天下取りへの明確なビジョンを持ち、寿命のあるうちに上洛を果たすことができれば、信玄による天下統一は可能だったのでしょうか?
答えは残念ながら「No」です。実は、信玄は信長との決定的な違いの1つめや2つめを克服できたとしても、それらよりももっと重要で、かつ致命的(ちめいてき)ともいえる「3つめの違い」があったのです。そして、この3つめが存在する以上は、仮に信玄が天下を統一できたとしても、その政権は決して長続きできないと断言できる事情もありました。
では、その「3つめの違い」とはいったい何でしょうか?
カギを握るのは「信玄」という彼の名前です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
何でしょう??
全く想像が付きません(苦笑)
名前がヒントなんですか・・。
明日に期待したいと思います(^0^
それでは、応援凸
.
桃源児 武田信玄は中世の枠を抜け切ることが出来なかったという点があるでしょうね。
結構な年齢になったら出家というのも、中世の武士のやること。
後の天下人、信長、秀吉、家康などは誰も出家していない。
つまり、信玄は宗教に囚われ、それを従えることは難しい。それどころか、彼自身が宗教に従えられていることにもなりかねない。
そんな所でしょうか?
甲斐源氏の血を引いているので、征夷大将軍になる資格はあったのですが、仮に武田幕府が出来ても、宗教勢力に協力はさせられても、従えることは出来ず、破綻したかもしれない?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんです、名前がヒントです(笑)。
信玄は、なぜ信玄なのか?
改名したからですよね。
では、なぜ改名したのか…ということです(^^♪
桃源児さんへ
黒田裕樹 さすがに着眼点が鋭いですね。
詳しくは明日以降の更新にご期待ください。
今晩は
りら カギを握るのは「信玄」という彼の名前
明日を期待しています
いつも楽しみにしています
私の知的好奇心を刺激してくださいます
りらさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつも有難うございます。
一から全部説明するよりも、多少のヒントを残した方が皆様にお楽しみいただけるかなと考えております。たまにひねり過ぎのときもありますが(笑)。
明日も是非お越しください。
.
- しばらくバタバタしていて訪問もできませんでしたが、なるほど、信長の経営能力の高さに感心しました。
明確な戦略がないといかに無駄が多く、結果がでないかですね。
でも、3つ目の違いはヽ(。_゚)ノヘッ!サッパリ???
名無し?さんへ
黒田裕樹 (※ホストからしておそらくリンク先のいつもの方と思われますが、念のために名無し扱いとさせていただきます)
> しばらくバタバタしていて訪問もできませんでしたが、なるほど、信長の経営能力の高さに感心しました。
> 明確な戦略がないといかに無駄が多く、結果がでないかですね。
そうですね。人生には無駄がつきものとはいえ、多過ぎれば時間がかかるだけ不利ですね。
> でも、3つ目の違いはヽ(。_゚)ノヘッ!サッパリ???
明日(3日)以降の更新ではっきりしますよ(^o^)丿
.
紗那 名前?
そういえば、武田信玄って改名してたっけ……?
あぁ、まったく分からない。次回に期待します!
でも、当時は名前って、現代以上に重要だったんでしょうね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 名前?
> そういえば、武田信玄って改名してたっけ……?
はい、してますよ(^^♪
正しくは「信玄に改名した」です。
> あぁ、まったく分からない。次回に期待します!
今日(3日)から順に更新していきますので、是非ご覧下さいね(^o^)丿
> でも、当時は名前って、現代以上に重要だったんでしょうね。
名前に魂が存在すると考えられていたこともあって、江戸時代の頃までは本名というものは滅多に名乗らないものでした。その一方で、出世魚のようによく改名していったものです。
その背景には、現代に生きる私たちが誤解している「戦国時代の宗教に関する事情」があります。
現代の宗教に対する印象といえば、特に仏教に関しては「お坊さんが有難いお経(きょう)を読む」という平和なイメージしかありませんが、これが定着したのは江戸時代(えどじだい)以降のことです。実はそれ以前、特に戦国時代には自分の身を守るために多くの宗教勢力それぞれが、僧兵(そうへい)などの武力を持っていました。
その中でも一向宗(いっこうしゅう、浄土真宗=じょうどしんしゅうのこと)の熱心な信者たちは、女性や子供、あるいは老人までもが武器を持って戦っていました。そして、京都などの有力な布教地(ふきょうち)では、宗教同士の勢力争いによって、血で血を洗う戦いが繰り広げられました。
例えば、1532年の法華一揆(ほっけいっき)では日蓮宗(にちれんしゅう)が一向宗を追放しましたが、4年後の1536年に起きた天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)では、天台宗(てんだいしゅう)の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)によって日蓮宗が京都を追われています。いずれの戦いも約70年前に起きた応仁の乱(おうにんのらん)に負けず劣(おと)らずの激しさで、京都は焦土(しょうど)と化し、宗教勢力は地元の人々の恨みを買っていました。




いつも有難うございます。
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伝次郎 仏教やお坊さんはありがたいもの、というイメージのままでした。
僧兵などはてっきり、戦国大名などの支配者の圧政などから仏教徒達を守る為かと思いきや、宗派間で勢力争いなどをし、戦国大名化していたのですね。
一向一揆の鎮圧は有名な武将も命を落としたりしていますし、一向衆も信仰や結束だけで強いのではなく、戦慣れの側面もありそうですね。
あと、信長の野望は私、けっこうハマリましたね。本願寺顕如で全国統一もしました。
.
ちゃてれ こんにちは。
いつもご訪問ありがとうございますー。
やっぱりこの指示棒を持った黒田さんは、素敵ですね(笑)
これからも頑張ってください~
伝次郎さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦国の世では仏教徒も立派な「戦力」です。それが証拠に、加賀では100年も農民の自治が続きましたからね。
「信長の野望」は私もはまった人間ですが、本願寺ですか!
「政教一致」の極みですね(笑)。現実には他の宗教との激しい争いで成立しそうもありませんが…。
ちゃてれさんへ
黒田裕樹 > こんにちは。
> いつもご訪問ありがとうございますー。
こちらこそ、お忙しいのにコメント有難うございます(^^♪
> やっぱりこの指示棒を持った黒田さんは、素敵ですね(笑)
> これからも頑張ってください~
…(^^ゞ
教師に指示棒は付き物ですからね(笑)。
もちろん頑張りますよ(^_^)v
.
ぴーち こんばんは!
詳しくは存じませんが、
世界に目を向けても、宗教がらみの
争いというのは、実に多いように感じます。
宗教間の争いというのは、これから先の未来も、終息を迎えることが無いように感じますね^^;
特に日蓮宗の教えは、他宗は全てが
間違っているという教えの様ですから、
対立意識も激しいと思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 詳しくは存じませんが、
> 世界に目を向けても、宗教がらみの
> 争いというのは、実に多いように感じます。
> 宗教間の争いというのは、これから先の未来も、終息を迎えることが無いように感じますね^^;
エルサレムという聖地の帰属をめぐる争いなどで、アラブとイスラエルの間は今の時代の解決が見出せませんからね。
> 特に日蓮宗の教えは、他宗は全てが
> 間違っているという教えの様ですから、
> 対立意識も激しいと思いますね。
日蓮宗のように他を認めない宗教というのは、仰るような過激な争いを生み出しやすいですからね。まして戦国時代であればなおさらということになります。
.
オバrev 昨日は無名のコメントをしてしまいました(m_m)
ふ~ん、宗教というのは人々を救うというイメージでしたが、当時は違ってたんですね。
信長は一向宗や、比叡山征伐をしたと思うのですが、現在から見れば非情な仕打ちだと思いますが、このことに対する当時の一般大衆の考えはどうだったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 昨日は無名のコメントをしてしまいました(m_m)
やはりそうでしたか(^^ゞ
あまりお気になさらないで下さいね。
> ふ~ん、宗教というのは人々を救うというイメージでしたが、当時は違ってたんですね。
> 信長は一向宗や、比叡山征伐をしたと思うのですが、現在から見れば非情な仕打ちだと思いますが、このことに対する当時の一般大衆の考えはどうだったんでしょうか?
今日も鋭いですね(^^♪
ご質問の件は近日中には答えが出ると思いますので、今しばらくお待ちください。
.今晩は
りら 信玄は元々信仰深かったようですが
まだ武士として戦っていた時に
なぜ法名を名乗ったのか不可解です
またご説明楽しみにしています
私への拙いブログへのコメントいつ
も感謝です ありがとう
りらさんへ
黒田裕樹 > 信玄は元々信仰深かったようですが
> まだ武士として戦っていた時に
> なぜ法名を名乗ったのか不可解です
信玄が出家したのには、宗教勢力の一員となることで他の勢力への牽制(けんせい)の意味があったとされています。また、本願寺顕如の妻と信玄の正室とは実の姉妹であり、信玄と宗教勢力との関わりの深さがうかがえますね。それだけに3つめの違いが…となるわけです。
> またご説明楽しみにしています
> 私への拙いブログへのコメントいつ
> も感謝です ありがとう
いえいえ、とんでもないです。
またこちらもご訪問させていただきます。
このような連鎖(れんさ)が続けられた結果、16世紀の後半までには宗教勢力のそれぞれが、政治力や財力を持った巨大な圧力団体と化してしまっていました。そして、強大な武力を持つ宗教勢力には誰も逆らうことができず、人々の暮らしや商業の発達に大きな障害となっていたのです。
当時の人々の多くは、大きな障害と化してしまった宗教勢力を追放して、元の過ごしやすい世の中に戻してほしいと熱望していました。そんな中で、仏門に入ったことで宗教勢力の一員となった信玄が仮に天下を取ったとしても、果たして人々の望みどおりの改革を成し遂げることができるでしょうか。
信玄は、信長が比叡山を焼討(やきう)ちした際に天台座主(てんだいざす、延暦寺の最高位の僧職のこと)を自国で保護しており、また座主から権僧正(ごんのそうじょう、僧職の最高の地位のひとつ)の地位を贈られた際には、その法衣(ほうえ、僧の着用する衣服)をまとって悦(えつ)に入(い)っていた(=事がうまく運び、満足して喜ぶこと)というエピソードも残っています。
大変残念ながら、そんな信玄が宗教勢力に対して大ナタをふるえるとはとても考えられません。




いつも有難うございます。
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ボス。 いつも読み逃げしてるのに、、、
ありがとうございます。
ボス。さんへ
黒田裕樹 > いつも読み逃げしてるのに、、、
> ありがとうございます。
いえいえ、こちらも読み逃げが多いですから、お気になさらないで下さい。
お祝い事は、ご本人はもちろん、周囲の人々も幸福な思いになるもの。私も嬉しい限りです。
今晩は
りら 今回の講座で信長が残酷に思える
程 宗教関係を弾圧して
キリスト教を擁護した分けが
理解できました
ありがとう御座います
りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の講座で信長が残酷に思える
> 程 宗教関係を弾圧して
> キリスト教を擁護した分けが
> 理解できました
> ありがとう御座います
いえいえ、ご理解下さって光栄です(^^♪
信長と宗教勢力との争いについては明日以降に少しだけ書いた後、今月(3月)の講座で詳しくご紹介できると思いますので、またよろしくお願いします。
.
HANA子 一説にはこの時の信長の宗教弾圧が
「政治と宗教の分離」
を決定付けたという話がありますね
そうでなければ日本は他の国同様「政治」と「宗教」の二重権力構造の弊害に苛まれることになったと
思考の飛躍かもしれませんが、日本人の宗教への無頓着ぶりのキッカケって案外この人の功績なのかも? とか思っちゃったりします
現代に例えるなら
オバrev このエピソードは、時代が変わっているのに気がつかず、政権を取ったとたんに、以前の自民党以上に金権まみれで、権力を傘に自分の言うことをきかせて悦にいっているO氏を思い浮かべます。
こういう人物に、時代に対応した改革ができるとは思えません。
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 一説にはこの時の信長の宗教弾圧が
> 「政治と宗教の分離」
> を決定付けたという話がありますね
> そうでなければ日本は他の国同様「政治」と「宗教」の二重権力構造の弊害に苛まれることになったと
さすがはHANA子さん、よくご存知ですね(^_^)v
仰る件は次回(5日)以降で少し触れるとともに、今月27日の講座で詳しく紹介する予定です。
> 思考の飛躍かもしれませんが、日本人の宗教への無頓着ぶりのキッカケって案外この人の功績なのかも? とか思っちゃったりします
信長が種をまいたことには間違いありません。しかし、信長だけで無頓着になったのではなく…おっと、これも今月の講座で明らかにしますね(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 > このエピソードは、時代が変わっているのに気がつかず、政権を取ったとたんに、以前の自民党以上に金権まみれで、権力を傘に自分の言うことをきかせて悦にいっているO氏を思い浮かべます。
> こういう人物に、時代に対応した改革ができるとは思えません。
オバrevさんのご意見のほとんどが、私が常々考えていることと同じなのは、広島ファン同士のご縁でしょうか(笑)。
「悦に入っている」点なんか、まさに信玄そのまんまですね(´・ω・`)
現代こそ大胆な改革が必要なはずですが…。
.
紗那 なるほど。当時の日本を変えるためには、宗教勢力に手を出す必要があった。
だが、信玄は、自ら仏門に入っていたので、改革は出来なかっただろう。そういうことですね。
信玄さん、歴史ゲームでは強いんですけどね。現実では、いろんなしがらみがあるんですね。 ……今の政治家さんたちにも、こういう人いませんか? 利権が絡むと、ダメな人。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど。当時の日本を変えるためには、宗教勢力に手を出す必要があった。
> だが、信玄は、自ら仏門に入っていたので、改革は出来なかっただろう。そういうことですね。
そのとおりです。自分の利権の対象を、自らの手で潰すなんてありえないですからね(´・ω・`)
> 信玄さん、歴史ゲームでは強いんですけどね。現実では、いろんなしがらみがあるんですね。 ……今の政治家さんたちにも、こういう人いませんか? 利権が絡むと、ダメな人。
ゲームと現実とはやはり違いますよね。
残念ながら、利権と関係ない政治家がいるかどうか…。ただ、利権を持っていても、特別扱いしない政治家であればいいのですが、現在の与党はどうでしょうか?
それでは、信長は宗教勢力に対していったいどのような態度をとったのでしょうか?
信長は入洛後、宗教勢力に対して「今後は自分がお前たちを守ってやるから、武器や権益(けんえき)を捨てるように」と命令しました。しかし、一度握ってしまった巨大な権益を手放すのがもったいないと思った宗教勢力はこれを拒否したのみならず、逆に信長を滅ぼそうとしました。
命を狙(ねら)われて激怒した信長は、自衛の意味も込めて比叡山延暦寺を焼討ちし、また一向一揆(いっこういっき)の勢力を、女子供に至(いた)るまで攻め殺しました。信長のこれらの行為は、現代の道徳観や倫理観(りんりかん)からすれば許されざるものではありますが、当時が食うか食われるかの戦国時代であったということを考えれば、ある意味では仕方がないという一面もあります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
確かに平和な時代では、
人道的がどうの、倫理的にどうの
と問題になるような行為でも、
乱世の世の最中では、
そんな事を言っていては、自分達が
やられてしまいますものね。
世の中全体の流れとはいえ、
悲しい時代だったんですね。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに平和な時代では、
> 人道的がどうの、倫理的にどうの
> と問題になるような行為でも、
> 乱世の世の最中では、
> そんな事を言っていては、自分達が
> やられてしまいますものね。
> 世の中全体の流れとはいえ、
> 悲しい時代だったんですね。。
そのとおりです。
現代の倫理観や道徳観だけで歴史を「知ってるつもり」になるのではなく、当時の状況や流れをしっかりとらえたうえで、活かすところや反省すべきところをしっかりと見極めるのも「歴史を学ぶ」ことなんですよね。
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明天会更美好 毎日目からうろこの講座ありがとうございます。
わたしは日本史についての知識はあまり持ち合わせていないので勉強する毎日ですが、武田信玄に対する印象は少し変わりました。
やはり、物事に対してはプラスとマイナスの両面から検証することがとても大事ですよね。
これからも勉強させてください!
明天会更美好さんへ
黒田裕樹 > 毎日目からうろこの講座ありがとうございます。
いえいえ、毎日のようにお越し下さいまして有難うございます。
> わたしは日本史についての知識はあまり持ち合わせていないので勉強する毎日ですが、武田信玄に対する印象は少し変わりました。
> やはり、物事に対してはプラスとマイナスの両面から検証することがとても大事ですよね。
仰るとおりです。一方的な解釈で満足するのではなく、両面からの検証によって、初めて本当の歴史を学ぶことができます。
> これからも勉強させてください!
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
歴史ドラマの??
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
大河ドラマなどの歴史ドラマを観ると
織田信長は、他の戦国大名との戦いがメインに
描かれますが、
信長を最も苦しめた最大の敵は、宗教勢力であることに間違いありませんね。
ドラマでは、宗教勢力との戦いは、ほんの少しだという描かれますが、
これは、大きな誤解ですね。
石山本願寺vs 織田信長の戦いは、10年間も掛っています。
さらに
伊勢長島の一向一揆では、一向衆は、10万人です。たとえ、女・子供も含んだとしても、
10万人の一向門徒が、『お経』を唱えがら、向かってくるシーンをメージするだけでも
ぞっとします。
それに比べて
ドラマで、描かれる武田信玄、上杉謙信との戦いは、1回、戦っただけで、それほど、信長を苦しめていません。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
戦国時代を映像化する際にどうしても現代のイメージを引きずっているからこそ起きる現象でしょうね。
かといって歴史に忠実にすれば視聴率が取れるかどうか…難しいところではあります。
信長によって、巨大な権益を持っていた宗教勢力は解体されましたが、天台宗や浄土真宗などの宗教そのものは現在も残っています。実は、これこそが本当の意味での「政教分離」(せいきょうぶんり)であって、江戸時代以降、現在に至るまでの私たち日本人に対して、宗教が政治に関わることによって生じる様々な問題とは無縁にしてくれているのです。なお、この問題については3月の大阪での講座(第12回)で改めて取り上げます。
いずれにせよ、当時の国民の切実な願いでもあった、巨大な圧力団体と化した宗教勢力の排除(はいじょ)に成功した信長が、多くの国民から歓迎されたからこそ、信長が志半(こころざしなか)ばで滅ぼされた後も、その後を継いだ秀吉や、あるいは家康によって戦国の世は終わりを告げ、江戸時代を迎えることになったのでした。
天下を統一して、戦国時代を終わらせるという大きな目標は、豊富な経済力で兵農分離を実現するなどといった、それまでの常識にこだわらない柔軟(じゅうなん)な姿勢のみならず、天下取りへ向けての明確なビジョンを持つとともに、どんな圧力にも屈(くっ)しないという強い信念に基づく実行力によって、初めて可能となったのです。
そして、それらの要素をすべて持っていた信長だったからこそ、時代は彼を「英雄」として選び、その一方で、信長との決定的な「3つの違い」を克服できなかった信玄やその子孫たちは、歴史の表舞台から姿を消していったのでした。
※第10回歴史講座の記事はこれで終了です。なお、明日(3月7日)からは第11回歴史講座の内容の更新を開始します。




いつも有難うございます。
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伝次郎 信長への固定観念が1つ消えました。
信長の極悪非道な一面としての、比叡山延暦寺焼き討ちと刷り込まれていましたが、今回の講座で消えました。
信玄、信長にこのような違いがあることは知りませんでしたので大変勉強になりました。
遅くなりましたが、いつもコメントへの返信ありがとうございます。
次回からもブログ楽しみにしています。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 > 信長への固定観念が1つ消えました。
> 信長の極悪非道な一面としての、比叡山延暦寺焼き討ちと刷り込まれていましたが、今回の講座で消えました。
> 信玄、信長にこのような違いがあることは知りませんでしたので大変勉強になりました。
お言葉有難うございます。
「刷り込み」の歴史教育が横行する現実を嘆く者ですが、今回のようなかたちで、少しでも皆様のご理解につながればと思っております。
> 遅くなりましたが、いつもコメントへの返信ありがとうございます。
> 次回からもブログ楽しみにしています。
いえいえ、ご質問にお答えするのが、私のような歴史ブログの運営者としては当然の務めです。
次回の秀吉の朝鮮出兵でも、同じような「刷り込み」からの脱却を目指したいと考えております。
こんばんは。
スカイラインV35 織田信長は噂どおり無神論者で合理主義者だったんでしょうね。逆にそれ故に「宗教そのものは弾圧しない」という結論を導き出した。と、言った所でしょうか。
やはり、信長は政治、軍事、経済、宗教(に対する認識)と、他を圧倒していたんでしょうね。
そして武田信玄は、実はその当時の圧倒的大多数の平均的な日本人だったのかもしれない。という認識も持ちました。
この辺も何回やっても興味が尽きない所ですね。
訂正
スカイラインV35 ちょっとブログを読み直して考え直しました。
武田信玄は、当時の為政者(公家や武家や僧侶も含め)の平均的な日本人だったのかもしれない。と訂正しようと思います。
失礼しました。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 織田信長は噂どおり無神論者で合理主義者だったんでしょうね。逆にそれ故に「宗教そのものは弾圧しない」という結論を導き出した。と、言った所でしょうか。
> やはり、信長は政治、軍事、経済、宗教(に対する認識)と、他を圧倒していたんでしょうね。
そうですね。信長のような合理主義者でない限りは、それまでの「常識」でもあった政治と宗教の結びつきをあっさりクリアすることはできなかったでしょう。また、その合理性ゆえに政教分離など、斬新な政策を次々と打ち出すことができたのではないでしょうか。
秀吉や家康の場合は、信長という先駆者が敷いたレールのうえを走ったということになるもかもしれません。もっとも、走る行為そのものも勇気のいる話ですが。
> そして武田信玄は、実はその当時の為政者(公家や武家や僧侶も含め)の平均的な日本人だったのかもしれない。という認識も持ちました。
> この辺も何回やっても興味が尽きない所ですね。
同感です。日本人らしさであるがゆえに、戦国時代の混乱を脱出できなかったともいえるでしょう。この国では、様々な「日本人離れ」した存在でないと、本当の改革はできないのかもしれませんね。
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Masa 記念すべき10回目の講座おめでとうございます。
毎回毎回、知らなかった歴史が先生の講座で明かされてゆくのでとても楽しんでいます。
信長、信玄ともにすごいとは思っていましたが、ここまで大きな違いがあるということに驚きました。
ぼくの好きな信長は、やっぱりすごい方だということが、この講座を通じてより深まりました。
ありがとうございました。
今晩は
りら 信長が最初の政教分離を
行なったのですね
目から うろこの気分です
いつも感心するばかり
ろくにコメント出来なくて
ごめんなさいね
Masaさんへ
黒田裕樹 > 記念すべき10回目の講座おめでとうございます。
有難うございます。ブログ開設から1年足らずでここまで来ることができて光栄です。
> 毎回毎回、知らなかった歴史が先生の講座で明かされてゆくのでとても楽しんでいます。
> 信長、信玄ともにすごいとは思っていましたが、ここまで大きな違いがあるということに驚きました。
> ぼくの好きな信長は、やっぱりすごい方だということが、この講座を通じてより深まりました。
時代に名を残す英雄というものは、当時や将来の人類に対して大きな功績を残している場合が多いです。信長も無論その一人というわけですね。もちろん、信玄も地元の甲府を中心に大きな業績を残していますよ。
> ありがとうございました。
こちらこそ。明日(7日)からの更新もお楽しみに!
りらさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長こそが我が国で本当の意味での政教分離を果たした人物といえるでしょう。
このあたりの経緯については、今月の講座で詳しく紹介する予定です。
いえいえ、私もりらさんの世界一周に癒やされている一人ですから、お気になさらないで下さいね(^o^)丿
まさに次世代と旧世代
オバrev 信長と信玄は、まさに次世代と旧世代の戦いのように感じました。
江戸幕末から明治維新もそうでしたが、時代の流れの中で、その流れにマッチした価値観を持った者がその戦いに勝利し、次の時代を担うように思います。
歴史は繰り返します。結局人間の考えは進歩してないのかもしれません。
それを考えると、現在の激動する時代には、自民党旧田中派のようにお金や利権にまみれた政治家には退場願いたいところです・・・誰とは言いませんが(^^;)