つまり、戦いに勝利したことで豊臣家が優位に政治を進めようにも、家康が常に頭の痛い存在となりますし、三成などの優秀な官僚(かんりょう)がいるものの、その支えとなるのが当時8歳の秀頼では、豊臣家が中心の政治の実現には無理があると思われます。
かといって、関ヶ原の戦いで福島正則などの豊臣恩顧(おんこ)の武将を味方につけた家康も、第二・第三の関ヶ原の戦いを起こそうとしても、それらの武将が再び家康側につくとは考えにくく、豊臣家を一気に滅亡(めつぼう)させることは不可能に近いといえるでしょう。何しろ、史実においても関ヶ原の戦いから豊臣家の滅亡まで15年もかかっているのですから―。
ということは、家康が生き残っていた場合は我が国が東西に分かれて政治を行うと同時に、東西がそれぞれお互いの覇権(はけん)を握るために果てしない戦いを続けることになる可能性が十分に考えられるのです。そうなれば戦国時代がこの後も続くことになり、史実における江戸時代のような平和な時代の実現はかなり遅れたことでしょう。
では、もし家康が関ヶ原の戦いで死んでいれば、豊臣家による平和な時代は達成できるのでしょうか―?




いつも有難うございます。
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わろ 西軍が勝てば、南北朝時代の再来みたいになりそうですね。
名目上の総大将の毛利家も影響力が上がりそうですし、黒田さんが関ヶ原のどさくにまぎれて、北部九州を平定してたら、豊臣家が西側を抑えられるかも心配です。加えて、上杉家も恩賞をもらえたら強大になりすぎるのでは?と思います。
豊臣政権は、足利幕府なみの不安定なものになるのではと思われます。
空想してみました。
晴雨堂ミカエル 一晩いろいろ空想してみました。家康の生死に関わらず、豊臣家は六番目の摂関家になり君臨するだけの象徴的権威として大坂に閉じ籠る。
家康が生きていれば、時期は遅れても朝廷工作で征夷大将軍となり江戸で開幕、当初は鎌倉幕府のように関東ローカル政権、家康秀忠二代かけて豊臣恩顧の大名を切り崩し、全国へ影響力を広げる。
家康が討ち取られていたら、二十歳代前半の秀忠では家臣団をまとめるので精一杯。
毛利、宇喜多、上杉の三家は加増され大納言に叙勲、徳川並の勢力。権力闘争で豊臣家は形骸化。戦国時代に逆戻り。
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、室町幕府を想像すれば豊臣家の将来が見えてきそうですね。
だとすれば、家康が死ねばどうなるのでしょうか?
(血筋は全く関係ないですが)黒田官兵衛の活躍もありそうですね(^^ゞ
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 さすがにお見事なご想像ぶりですね。
国内情勢を考えれば同じような結果になるかもしれません。
しかしながら、この時代はもはや国内だけを考えていれば大丈夫な時代ではありませんからね…。
ヨーロッパの本格介入があると?
晴雨堂ミカエル 例えば、ボルトガルやスペインが九州諸大名や伊達家に、オランダやイギリスが徳川家や豊臣家に肩入れし、軍事介入する可能性が大きいとか?
ヨーロッパの東アジアへの影響力は17世紀初頭の時点で既に大きいと?
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 さぁ、どうでしょうか?(^^ゞ
詳しくは次回の更新をご覧下さい。
ぴーち おはようございます!
なるほど。。
私は想像力が足らないので、そこまで考えてみたことがありませんでしたが、戦国時代が長引いて人口が減り、江戸時代の到来が先延ばしになった事で急に人口爆発的に出生率が増えたとしたら。。いづれにせよ、日本は戦争で一時的に人口が増える現象が起きていましたが、前の時代がどう変化しようと変えられない運命みたいなものは
要所、要所に点在しているものなのかな・・などと馬鹿馬鹿しい考えが浮かんできましたm(__)m
失礼致しました(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、馬鹿馬鹿しいなんてとんでもないですよ。
仰るとおり平和の実現は人口爆発の一つの要因です。これはどんな運命であってもいずれは実現することになりますよね。
ただ問題なのは、我が国の国体(ここでは国の有り様のこと)が果たしてどうなるか、ということなのです。
しかしながら、豊臣家にとっての大きな課題は、むしろ徳川家を滅ぼした後にあるのです。幼(おさな)い秀頼率いる豊臣家が、果たして家康のような「平和の実現のために計算され尽くした政治」を実現できるのでしょうか?
現実の世界において、家康は平和のためにあらゆる手を打っているのです。例えば、大名の統治において、家康は政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えました。
これは、室町幕府(むろまちばくふ)の守護大名(しゅごだいみょう)が財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、幕府の言うことを聞かなくなったことによる失敗の教訓を生かした「大名の権力と財力との分散」でした。この手法によって家康は大名の統治に成功しているのです。
この手法が可能になったのも、家康というカリスマ性を持つ武将がいたからこそだったのですが、同じようなことを豊臣家が実行しようとしても、秀頼の言うことに対して、果たしてどれだけの武将が耳を傾(かたむ)けるでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
歴史上で成功した事をそっくりそのまま真似しようとしても、必ずしも成功出来ないのは、やはりその人物の性格にも大きく左右されてしまうものなんですね。
やはり最終的には瞬間、瞬間を生きるのではなく、自分の感情を自分でしっかりコントロール出来る強い精神の持ち主である事が一番の勝者になる様に思うのですが、いかがでしょうか。
応援凸
無理でしょうな。
晴雨堂ミカエル 秀頼は象徴関白になり事務は三成、毛利や上杉は豊臣家からみれば外様、しかし関ヶ原の段階で既に三位以上の位階と広い所領、加えて政権の中枢たる大老職。
太閤殿下からいただいた高い官位と広い所領と政権の権力、しかも家康に勝利では手放さないし、いくらKYの三成もその手は使えない。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 歴史上で成功した事をそっくりそのまま真似しようとしても、必ずしも成功出来ないのは、やはりその人物の性格にも大きく左右されてしまうものなんですね。
> やはり最終的には瞬間、瞬間を生きるのではなく、自分の感情を自分でしっかりコントロール出来る強い精神の持ち主である事が一番の勝者になる様に思うのですが、いかがでしょうか。
仰るような一面は確かに存在しますね。
強靭な精神力と実行力がなければ政治はできないのかもしれません。もっとも、中身が伴わなければどんなに図太くても国民から総スカンを食らってみじめな結末を迎えるわけですが…。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 秀頼は象徴関白になり事務は三成、毛利や上杉は豊臣家からみれば外様、しかし関ヶ原の段階で既に三位以上の位階と広い所領、加えて政権の中枢たる大老職。
> 太閤殿下からいただいた高い官位と広い所領と政権の権力、しかも家康に勝利では手放さないし、いくらKYの三成もその手は使えない。
仰るとおりです。これでは室町幕府と全く同じ構図ですからね。政治力の駆使にも限界があるでしょうし、それを黙って見ている勢力がいないはずがありません。そうなると…。
無理でしょう
ろっぽん 司馬遼太郎が「この国のかたち」でのべてますが
家康は誰が将軍になろうと幕府が継続する体制を構築したと書いています。
単にまぐれで勝ったとしても、東国でも秀吉から家康に鞍替えした武将も数多くいたわけで、そういった武将に土地を取り上げるなどのペナルティを出した場合、反乱をおこし再度、反乱がおき、短期政権でしょうね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康の政治姿勢は完璧に計算し尽くされています。
豊臣家に同じことができるとは思えない以上、せっかくの体制がもろくも崩れてしまう可能性は高いでしょう。
ということは…。
また、家康は朝廷や宗教勢力にも万全の対策をするとともに、徳川家の将来に対しても御三家(ごさんけ)という「血のセーフティーネット」などの様々な政策を実行していました。このような「後顧(こうこ)の憂(うれ)い」をなくしてこそ、安心して政治を実行できるものなのです。
しかし、大名統制ですら覚束(おぼつか)ない豊臣家に、徳川家と同じような政策が実行できるとは考えられません。ということは、一時的な平和の日々があったとしても、その先にあるのはかつての戦国時代のように戦いに明け暮(く)れる日々だといえるでしょう。
しかも家康亡き後にカリスマ性を持つ武将は当分見当たらないとすれば、戦乱の日々は果てしなく続くことにもなりかねませんし、そんな混乱を見越した外国に付け込まれることで、我が国が滅亡の危機に瀕(ひん)することも有り得ます。
「そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、現実の世界において秀吉や家康が対キリスト教(=カトリック)対策としてどのような政治を行ってきたか振り返ることで、決して大袈裟(おおげさ)でない「もう一つの真理」が見えてくるのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 学校の授業では、単なるキリスト教の弾圧、程度にしか教えません。大河ドラマでは権力者の好き嫌いのレベルで弾圧。
当時の私はそれが納得できませんでした。南米からアジアへとヨーロッパの侵略の魔の手が迫る。ルソン島まで勢力が迫る。
さらにキリスト教を知れば知るほど排他的独善発想。
家康は征夷大将軍として南蛮を睨み、朝鮮との和解を急いだのではないか。
ただ、いかに内乱状態とはいえ、日本全体の軍事力は強大で経済圏も構築。ヨーロッパ勢はあの段階ではまだとるに足らない存在のように見えます。
次回が楽しみです。
ぴーち こんにちは!
確かに地球上には日本だけしか国が無いわけではありませんから、海の向こうには虎視眈々と領土を狙う外国が沢山存在している訳ですものね。
日本としてはしっかり内政状況を強固なものに
していかなければ、あっという間に敵に攻め入られてしまいますね。今の日本だとて、内輪揉めばかりを繰り返している様では、どうなるか分かりません・・・(´・ω・`)
応援凸
わろ 宗教の問題って大きいと思います
今の日本人が、宗教感が薄いのは、信長が宗教勢力を弾圧して、秀吉が宗教勢力を分裂させて、家康が葬式のみの宗教のように懐柔させたのが大きいと思います。
あと当時のカトリック布教は侵略のための先兵を敵地に獲得するための意味合いもありましたし、時代は、下りますが、帝国主義の時代に植民地になったのは、国内が不安定な国ばかりですし、外国の脅威に対抗するには、国が安定してないと不味いのは、いつの時代も変わらないのではとも思います。
幕末も混乱が続けば、幕府派のフランスと維新派のイギリスに、双方、武器を買うためお金を借り過ぎて、どっっちが勝っても、負債を抱えて植民地になってしまったのではと思います。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後年に鎖国と呼ばれた厳しい制限貿易は、侵略の手先とみなされたカトリックを封じるためでした。強大な権力を持つ徳川幕府だからできた芸当でもあります。
確かに欧州勢に比べて、当時の我が国は強い軍事力を持っていました。しかし、それは幕府という一枚岩のもとに我が国が成り立ってこその話なのです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに地球上には日本だけしか国が無いわけではありませんから、海の向こうには虎視眈々と領土を狙う外国が沢山存在している訳ですものね。
> 日本としてはしっかり内政状況を強固なものに
> していかなければ、あっという間に敵に攻め入られてしまいますね。今の日本だとて、内輪揉めばかりを繰り返している様では、どうなるか分かりません・・・(´・ω・`)
仰るとおりですね。
内輪もめはできればしたくはありません。ただ、内輪もめをしている原因がどこにあるかという問題もあると思います。いくら周囲が団結しようにも、指揮官がいい加減ではまとまるものもまとまりません。
ここに我が国のジレンマがあると思います。
わろさんへ
黒田裕樹 仰る内容については私も同意です。
我が国は戦国時代から脱出して国内が安定しました。幕末の混乱も、真の武力倒幕を実現させなかったことで少なく済みました。
もし関ヶ原で家康が死んでいればどうなるのかについて、まずは宗教との絡みを詳しく検討してみたいと思います。
彼らは海外での布教(ふきょう)に存続を賭(か)けていたカトリックが組織したイエズス会と連携(れんけい)して、先住民にカトリックを布教させてから「神の名の下(もと)に」戦争を仕掛けることでアフリカ大陸やアメリカ大陸を次々と支配し続け、その魔の手がついにアジアにまで伸び始めていたのです。
イエズス会の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルによって1549年に我が国でカトリックの布教が広がり始めた頃、当時の戦国大名は欧州による白人支配の野望に気づくこともなく、南蛮貿易(なんばんぼうえき)で欧州渡来(とらい)の珍しい財宝を手に入れるため、支配地でのカトリックの布教を許可するとともに「キリシタン大名」として自らカトリックを信仰する者も現れました。
天下統一を目指した織田信長も同じ理由で支配地におけるカトリックの布教を許可し、信長の後を継いだ秀吉も、当初はカトリックの布教を認めていたのですが、やがてカトリックに潜(ひそ)む欧州による世界侵略の野望に気づいたことで、禁教へと政策を転換しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
本来、宗教とは人間の業を浄化させる目的であったり、あるいは自らの精神を律する為、心の拠り所であったりする存在であるのに関わらず、国を侵略する目的で利用されるとなると、それこそ、天罰が下る行為だと思いますね。開宗当初は純粋に人類救済の為と謳った宗教でも、長い間受け継がれていく間には、様々な人間の欲が絡み、間違った方向へ推し進められてしまう事は、悲劇でもありますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ることはよく分かります。
その悲劇が世の中を支配したのが15~16世紀の大航海時代だったのです。
宗教が侵略欲とからんだことで、どれだけ多くの血が流されたことか…。
白色人種からの一方的な人種差別が加わったことも悲劇を拡大させてしまいましたね。
根強い
ろっぽん こちらの奈良の大仏を鍍金した金の産出地は隠れキリスタンの地で現在でもカトリックを信仰しています。高校の時、バイク事故で亡くなった同級生の葬式に行った時、感じたんですが、
私たちが仏教を信じてると言うけど、お教を読んでそらんじていますか、実に自然な感じで
カトリックを禁じられた江戸時代も隠れて
ほら穴で、回りがほとんど仏教徒の中ある部落だけ営々と隠れキリスタンだったんですよ。
学校の先生の分析は産金の権利が幕府だったことが
ある意味、隠れの原因だったと。
幕府のレジスタンではないかと、伊達の役人も見て見ぬふりしていたのではないかと
長崎などの隠れキリスタンも地元の役人が見せかけの取り締まりをしていたんでしょう
そうで、なければ21世紀まで残るはずないですよ
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 隠れキリシタンには様々な伝説があるようですね。
幕府の宗教弾圧の理由も「諸外国による侵略阻止」にありましたから、その危害が去った以上は表向きはともかく、裏では大目に見ていたのかもしれません。
わろ カトリックの野望に気がつくとは、流石は秀吉ですね
ただ、宗教勢の世界侵略への野望は気がついても、秀吉の世界情勢感はお粗末な気がします・・・
存在しない高山国を信じたり、朝鮮が対馬の属国と思ったり、満州と明の違いが分からなかったり・・・世界情勢が掴めないのは、日本人の伝統ではと思ってしまします。
あと、質問なのですが、有力者以外の下々の当時のカトリックの捉え方はどのようなものでしたのでしょうか?和を尊び村社会の日本では、カトリックのような一神教の排他的思考集団とは軋轢を生じなかったのでしょうか?
島原の人々への同情が、本願寺で弾圧された人々より、個人的に薄いと思うのは、認識違いなことなのでしょうか??
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国をめぐる危機にまでは気づいても、正確な世界情勢をつかめないのが我が国の泣き所でもあります。島国であったことが多分にも影響しているのでしょうか?
カトリックの一神教的な立場によって、秀吉の時代には九州の多数の神社仏閣が壊されるという被害が起きています。その事実からすれば、当時のカトリックの教えに反発を覚えた人々がいるかもしれませんが、カトリックの教えも時代によって変化したことで、人々に受け入れられる余地もあるのではないかと思います。現実にも、我が国のキリスト教の宗派では「キリストの幕屋」のように八百万の神と共存する教えを信じる人々もいらっしゃいますから。
そして、秀吉に代わって天下人となった家康もカトリックの禁止を強化して海外との大幅(おおはば)な制限貿易を実現したことで、カトリックを我が国から締(し)め出すとともに欧州による侵略を完全に防ぐことに成功しました。ちなみにこの状態が後年(こうねん)に鎖国(さこく)と呼ばれるようになります。
このようにして、史実における欧州による我が国侵略の野望は秀吉からバトンを受け継いだ家康によって打ち砕(くだ)かれたのですが、このことを可能にしたのは家康がそのカリスマ性を十分に活(い)かした強固(きょうこ)な基盤(きばん)を持つ江戸幕府を組織したからであり、もし西軍が家康を滅ぼしたことで、カリスマ武将がいない混乱した状態に我が国が陥(おちい)っていれば、その隙(すき)をついた諸外国によって我が国が乗っ取られるかもしれないという話は決して荒唐無稽(こうとうむけい、根拠がなくでたらめなこと)ではありません。
関ヶ原の戦いで家康が勝ったことは、私のような家康嫌いの人間にとって決して許せないことではありますが、その結果として我が国に平和が訪れるとともに、諸外国からの侵略を免(まぬが)れることが出来たというのもまた事実なのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
万人に好かれる人物という方を見ていると、はやり何事に置いても、自我を抑えて、控えめである場合が多いですが、やはり一国を統辞出来る程の人物とは、反面では良い結果を齎し、ある反面では人に嫌われる要素を持ちあわせているようですね。やはりそれなりに、一長一短があるものです(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 温厚な性格をもって人望があり、他人にやさしい心を持つことができる人物は総じて好まれる傾向がありますが、そのような綺麗事だけでは多くの人々を統治することはできません。
時にはずる賢く、時には他人に嫌われようが、自国の繁栄のために力を尽くした人物に対して私たちはもっと評価すべきではないでしょうか。
ろっぽん 司馬遼太郎は鎖国しないでも、運営できたのではと言ってます。
長崎の出島のようなを江戸近辺と平清盛の開港した堺、下関、石巻、函館などに港を作り、スペイン、ポルトガルは別にしてもピューリタントのイギリス、フランス、オランダ、ベルギーなどと国交しても侵略受けなかったのでは、とのべてます。まぁ侵略受けなくても倒幕はもっと早まった知れませんが。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かにプロテスタントであれば布教の必要もないし、貿易もできたかもしれません。
厳しい制限貿易で失ったものも大きいですが、江戸幕府による長い国内の平和をもたらしたメリットも大き買ったことも忘れてはいけません。
制限貿易がいつの間にか「鎖国」と呼ばれてしまい、幕府の祖法と化してしまったことで、世界の情勢と我が国とが大きくかけ離れてしまったことが悔やまれてなりません。
オバrev その場限りの感情論でなく、大所にたって物事を判断し実行できることが、日本を守り発展させるということは、歴史が証明していますね。
秀吉や家康にはそれがあったということだと思いますが、歴史教育ではなかなかそこまで踏み込めていないように感じます。
わろ 私も家康嫌いです^^
亡国の手先と聞いて、伊達正宗を思い浮かべてしまいました。西軍が勝って家康が亡くなっていたら、伊達さんの遣欧政策で、亡国の手先になっちゃうのでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > その場限りの感情論でなく、大所にたって物事を判断し実行できることが、日本を守り発展させるということは、歴史が証明していますね。
まさしく仰るとおりです。感情に流されたり、一時の人気取りの為だけに大衆受けを狙ったりして国策を誤る指導者は御免です。
> 秀吉や家康にはそれがあったということだと思いますが、歴史教育ではなかなかそこまで踏み込めていないように感じます。
それが記憶重視の歴史教育の最大の欠点なんですよ。
単なる知識の詰め込みだけではない、自分の頭で物事を考える力を身につけるためにも歴史教育の改革が求められますね。
わろさんへ
黒田裕樹 > 私も家康嫌いです^^
多いですよね(^^ゞ
ただ、個人的な評価と歴史の大きな流れにおける評価とは全く別ですから、歴史を教える際には注意しなければいけません。
> 亡国の手先と聞いて、伊達政宗を思い浮かべてしまいました。西軍が勝って家康が亡くなっていたら、伊達さんの遣欧政策で、亡国の手先になっちゃうのでしょうか?
伊達政宗については仰るような可能性がありますね。伊達家の繁栄の為だけにカトリックの仕掛けた罠にはまる。一時の栄光はあっても、その先に待っているのは…。
秀吉の失政
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、徳川家康は、嫌いですが、
豊臣秀吉の組織運営のまずさが、家康の力を
増大させて気がします。
関白秀次事件は、もちろんですが、
五大老は、全て外様大名です。
それぞれが、地方の一代勢力ですから、自分のことが第一と考えます。
五奉行は、あくまでも、五大老の下になります。
しかも、五大老、五奉行は、秀吉の最晩年にできました。
秀吉は、信長、家康のような譜代の家臣が少なく、元々は、自分の上司、同僚、敵対勢力を家臣化したので、組織としての脆さを最初から、内包していたようですね。
秀吉の軍師的存在の黒田如水、蜂須賀小六などは、遠ざけられていました。
歴史のifを考えた場合、秀吉は、どういう組織にすれば、秀吉なき後の豊臣家が安泰だったか
考えてしまいます。
① 関白秀次を後継者にする。
(そもそも、成人していない秀頼を後継者にしたことが間違い。)
② 秀次は、子供が多かったので、後継者問題には、困らない。
③ もし、秀頼に後継者を譲る場合は、秀次の養子というカタチを取る。
④ 天下普請をして、外様大名の力を削ぐ。
そのために、朝廷工作をする。
関白なので、朝廷工作は、やりやすいのでは
⑤ プロテスタントとの国の貿易を独占する。
と考えましたが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 お見事なご推察です。ここまでやれば、あるいは豊臣家の天下が続いたかもしれません。
もっとも、秀次以降の政治がどうなったかはわかりませんし、秀次自身の器量も不透明ですが。
秀次を事実上抹殺したことが、やはり豊臣家の運命を決めてしまったということでしょうか…。