なぜ別働隊は戦いに間に合わなかったのでしょうか。その原因は真田昌幸(さなだまさゆき)・真田信繁(さなだのぶしげ、別名を幸村=ゆきむら)父子にありました。
関ヶ原の戦いに向かうために東海道(とうかいどう)を進んだ家康本隊でしたが、それとは別に子の徳川秀忠(とくがわひでただ)に軍勢を預けて、中山道(なかせんどう)を進ませました。つまり、家康は二つの街道から同時に関ヶ原方面を目指す予定だったのです。
しかし、中山道の途中(とちゅう)には真田家が守る上田城(うえだじょう)がありました。関ヶ原の戦いという大きな目標があった以上は、上田城を無視して先に進むという手もあったのですが、昌幸・信繁父子の挑発(ちょうはつ)に引っかかった秀忠は上田城攻略を強く主張して容易に落とせず、結局多くの軍勢と時間を浪費してしまいました。
関ヶ原の戦いには勝利したものの家康の怒りは凄(すさ)まじく、秀忠が遅参に対してお詫(わ)びを申し出ても、しばらく面会を許さなかったと伝えられています。あてにしていた約38,000の兵力が使えなかったのですから、家康の怒りも当然といえば当然だったでしょう。
では、そんな不利な状況を家康が打開できたのはなぜでしょうか。カギを握(にぎ)ったのは、秀吉との縁が深かった一人の武将による「裏切り」でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確か歴史の教科書では「関ヶ原の戦い」では家康が勝利した。。。という簡単で簡潔過ぎる言葉でしか教えていただきませんでしたし、詳しい情勢までは存じませんでしたので、今回のお話を伺って、家康軍が思いの外、苦戦であった事を知り、勉強になりました。
ある武将とは。。どなたでしょうか・・
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仮にも「天下分け目の関ヶ原」ですからね。結果的に一日で決着がついたからといって楽勝だったかとはまた別物だということでしょうか。
この人物は確かに大きなカギを握っています。詳しくは次回(10日)以降にご紹介しますね。
きなり食堂 こんにちは
いつも、ありがとうございます。
すごく分かり易いですね~。
マスターは歴史が大好きなんのです。
昔、少しですが勉強していまして
あらためてみると、もう、ほとんど
忘れているようです。
黒田さんのブログを見て、
再度、勉強しようかな~、なんて思いました。
ブログの方は、リンクさせていただいて
いいのですか?
どうぞ、よろしくお願いします。
きなり食堂さんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
リンクの件は大歓迎です。
こちらからも相互リンクさせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
わろ 挑発といえば、家康も昔、三方ヶ原の戦いで信玄の挑発に乗ってしまったことを思い出して、やっぱり親子だなーっと思ったのですが、真田の挑発はどのようなものだったのですか?
真田は、最終的には攻め落とされちゃったのですか??
あと、秀忠軍勢は徳川主体の軍勢だったのでしょうか?
一説によると、関ヶ原の戦いは徳川主体の軍勢で大勝利することで、外様の恩賞を少なくして、譜代親藩の勢力を西日本まで伸ばす腹だったとも聞いたことがあるのですが、本当でしょうか?そうなると幕末も佐幕派ばかりで、まさに関ヶ原はその後の影響を考えて天下分け目の合戦だったと思います><
毎度、質問ばかりですみません(汗
HANA子 明治時代、黎明期の日本陸軍に教官として招かれたドイツ軍人のメッケル少佐が関ヶ原の両軍布陣図を見て、
「これは西軍の勝ちで間違いない」
と断言したのは有名な話ですけど、史実はその反対──東軍の勝ちであるわけで。
東と西の勝利の分水嶺が何であったのか、次の記事も楽しみにしていますね^^
わろさんへ
黒田裕樹 徳川家と真田家における上田城の戦いは、実は関ヶ原の直前が初めてではありませんでした。1585年にも同じような戦いがあり、この時も真田家が少ない兵で徳川家に煮え湯を飲ませているのです。
そんな前例もあって、秀忠は関ヶ原の手土産に真田家を血祭りにあげようという意図があったようですが、そこは老獪な昌幸によって阻まれたというのが通説になっていますね。いずれにせよ、秀忠クラスの武将では真田家の敵ではなかったようです。
真田家がさらに老獪なところは、昌幸の長男にあたる真田信幸が関ヶ原で徳川家についており、戦後に信幸が自らへの恩賞と引き換えに父と弟の助命を嘆願して許されています。かくして真田家は明治維新までその命脈を保つことになりました。
秀忠についての仰るような説は、恥ずかしながら初めて知りました。もし本当だとすれば家康は相当な食わせ者ですね。
HANA子さんへ
黒田裕樹 メッケルは布陣図だけを見て「西軍の勝利」を確信したようですね。実際には家康は様々な調略で勝利をしているわけですが、その最たるものが予告として紹介した「裏切り」だと思います。
次回(10日)の更新にご期待下さい!
小早川
ろっぽん 小早川が寝返ったのですね
考えてみれば、常陸の佐竹氏なども徳川についてれば
秋田に追いやられることはなかったですね
伊達正宗なぞはあんなに秀吉に護摩すってて
西につくかと思うか思いきや東を選んでいましたね
いまだに大阪の人に東なんか西からの移民で開拓した土地であって西高東低なんだという考えがありますね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、それぞれの大名がそれぞれの思惑で動いたことによって、関ヶ原後の扱いが全く異なっていますね。伊達政宗のような本領安堵はむしろ幸運だったのかもしれません。
同じ日本でありながら西と東の対立は残念な話ではありますが、競ったライバル意識がお互いを発展させるという効果もある様です。
秀秋は毛利家(もうりけ)の名将であった小早川隆景(こばやかわたかかげ)の後継でしたが、実は秀吉の正室であったおねの血縁者であり、小早川家には養子として迎えられていました。秀吉と縁浅からぬ者としてその将来を嘱望(しょくぼう)されたものの、慶長の役での戦いに敗れて領地を半減されてしまいました。
そして領地を没収された際に三成が代官として旧領に入ったことで、秀秋は自分の領地が削(けず)られたのは三成が秀吉に讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)したからではないかと疑いを持つようになったとされています。後に秀吉の遺言(ゆいごん)によって秀秋は旧領を回復するものの、三成への恨(うら)みはそのまま残っていました。
秀秋と三成とのこうした関係(というよりも秀秋による三成への一方的な決めつけ)によって、秀秋は最終的に家康の誘いに応じて東軍に寝返ることを決断するのですが、その行為によって関ヶ原の明暗がはっきりと分かれる結果をもたらすことになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
すみません、私の読解力が浅い為か
よく理解出来ない部分があるのですが、
結局、三成は秀秋に対して本当に領土を削るような行為をしたのでしょうか。
それとも単なる秀秋の勘違いによる逆恨みだったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > すみません、私の読解力が浅い為か
> よく理解出来ない部分があるのですが、
> 結局、三成は秀秋に対して本当に領土を削るような行為をしたのでしょうか。
> それとも単なる秀秋の勘違いによる逆恨みだったのでしょうか?
逆恨みの可能性が極めて高いですね。
自己の失態で領地が削られるのはどうしようもないことですが、恥をごまかすために責任を他になすり付けたという印象を強く感じます。
もっとも、普段からの三成の容赦ない厳しさがそれを生んだともいえるのですが…。
オバrev この記事を読んでいると、結果論ですけど、運命は既に決まっていて、我々としてはそれを受け止めて、今目の前にあることに全力で取り組みしかないような気がしますが、でもその前に、やはり三成の大将としての器がなかったんじゃないでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この記事を読んでいると、結果論ですけど、運命は既に決まっていて、我々としてはそれを受け止めて、今目の前にあることに全力で取り組みしかないような気がしますが、でもその前に、やはり三成の大将としての器がなかったんじゃないでしょうか?
三成についての事実上の総大将としての疑問が尽きることはないと思います。
ただ、彼がその器でなかったというよりも、家康を相手に互角に戦うには三成では相手にならなかったと判断すべきだったかもしれません。
もっともその家康にしても若い頃には三方ヶ原の戦いで大敗を喫しているわけですし、経験を生かした老獪さには誰であろうと勝てなかったのでしょう。
運命ですか。確かに言えますね。ただ、仮にそれが決まっていたとしても、私が三成の立場であれば、同じように死中に活を求めるのではないかと思います。
政治家家康と官僚三成。
晴雨堂ミカエル 関ヶ原の合戦は当時の日本の軍事力の強大さをあらわす事件でもありますね。
二度にわたる朝鮮侵攻から日が浅いにも関わらず、双方あわせて20万近くの兵力を動員。しかも時代劇にあるようなチャンバラではなく、鉄砲による銃撃戦が大規模に展開されたようですから。
梅棹氏が数十年前に、織豊政権の政策が継続していたら、ヨーロッパと日本はベンガル湾で激突したと論じていましたが、それもあり得たでしょう。
ところで家康と三成の戦いぶりは、政治家と官僚の戦に見えますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに朝鮮出兵の直後に20万近くの兵力と鉄砲ですからね。
国内に目を向けていることで、侵略を受けずに海外を目指さずに…。
我が国にとっては良かった、ということなのでしょうか。
> ところで家康と三成の戦いぶりは、政治家と官僚の戦に見えますね。
なるほど、そういう見方もありますね。
小早川秀秋に同情
青田です。 青田です。
歴史というのは、常に勝った側が書きます。
そう考えると
小早川秀秋=アンポンタンというふうにドラマで
描かれますが、私は、小早川秀秋に感情移入します。
この時、小早川秀秋は、19歳です。
しかも、頼れる人間は、誰もいません。
(小早川隆景、豊臣秀吉は亡くなっています。)
もの凄い、不安で、心細いです。
よく、徳川家康が、小早川秀秋を裏切るように調略していたとドラマで、描きますが、
それは、西軍も同じように小早川秀秋を調略していました。(上方に2カ国、秀頼が成人するまで関白)
やはり、徳川家康がキレて、小早川秀秋の陣に鉄砲を打ち掛けたのが、ガラスハート(小心者)の小早川秀秋のケツに火を付けたと思います。
私もガラスハート(小心者)なので、小早川秀秋と同じ行動に出たと思います。(笑)
黒田先生は、忠義の人なので、どちらかと言えば、石田三成タイプのように思いますが(笑)
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、秀秋にはそういう一面もありそうですね。
私は三成と違って、人の意見を聞いて行動する方だと思いますが(笑)。
秀秋の下に陣取っていた大谷吉継が懸命に秀秋軍を食い止めていましたが、秀秋の様子を見ていた周囲の西軍の武将がこぞって東軍に寝返ったために吉継軍は壊滅(かいめつ)状態になり、刀折れ矢尽(つ)きた吉継は切腹しました。
この動きを見た家康が東軍全軍に総攻撃をかけたことで、西軍の各武将は防戦一方となり、ついにはこらえきれずに敗走しました。こうして天下分け目の関ヶ原の戦いは一日で決着がついたのです。
なお、自身の寝返りが東軍の勝利に大いに貢献したとされた秀秋は、後に岡山55万石の大名に出世しましたが、1602年に21歳の若さで急死しました。秀秋には跡継ぎがいなかったため、江戸幕府によって小早川家は無嗣断絶(むしだんぜつ)を理由に改易(かいえき)、すなわち取り潰しの処分を受けています。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 豊臣家の血をひく従三位権中納言50万石の大大名が若くして死ぬ。そして幕府初の無嗣改易。代わりに岡山に入ったのは外様でも徳川よりの池田氏。
証拠はありませんが、家康たちが怖くなります。
秀詮は生前の記録から暗愚の評判ですが、徳川の謀略説は当時ありましたか?
韓流時代劇なら三成の祟りにはせず、家康による謀殺にしますね。
ぴーち こんにちは!
やはり跡継ぎが居ないというのは、この時代は
特に致命傷的な大問題だったんですね(^^ゞ
それにしても一日で決着が着いたなんて
天下分け目の激戦の割には呆気なかったですね(^^ゞ
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに証拠はないですが、疑ってみる価値はありそうですね。
秀秋の場合は、秀次などと違って当時からあまり評判がよくなかったようですね。将来に新資料が出てくれば名誉を回復できるかもしれませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつの世も後継ぎというのは重要ですね。とはいえ、子が生まれないからと言って弟などを早めに後継ぎとしてしまうと、後になって子が生まれた場合には応仁の乱のようにお家騒動の原因になりかねませんし、困ったものです。
激戦であればあるほど、かえって決着がつくのは早いのかもしれません。歴史に名高い第四次の川中島の戦いも、激しく戦ったのはほんの一時ですし。
HANA子 史記の漢の高祖劉邦の中国平定のくだりと家康の全国統一が重なって見えるのはわたしだけではないと思うのですがどうでしょう?
皇帝に即位して天下に号令を下すようになった高祖が次々に有力家臣を粛清していく姿と
もはや敵のいなくなった家康が徳川の体制を磐石とすべく(彼にとっての)外様大名たちの力を削いでいく部分は同じ凄味を感じます。
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば確かに似ていますね。
家康は豊臣家を滅ぼしてから一年足らずで死にましたが、もっと長生きしていれば呂后のような女性が現れたのでしょうか?
築山殿が生きていればそうなったかもしれませんね。
勝負
ろっぽん ある意味でそうやって支配する者が移り変わって
歴史が変わっていったのでしょう。
しかし秀秋の寝がえりで西軍から東軍へ寝返った
武将もいたのですね。
しかし、そうやって貢献しても
後継ぎがいないというだけでお取りつぶしとは、
家康も情け容赦がないですね。
なにも親類縁者の中から選ぶよう小早川家に協議する時間を与えてもいいではいいではないですか
生き馬の目を抜く時代では、すきあらば脚が取られる時代だから、情けが仇となりますからね
しかし、生徒にこういうことを教えると人間関係というのはドライであるべきという価値観を与えるのでは?
こういう話はエピソードとして小説のネタになっても自分的には好かんですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 秀秋の寝返りで日和見をしていた武将が雪崩を打って一緒に寝返りましたから、その影響は大きかったと思います。
無嗣断絶ですが、小早川家に限らず徳川家にとって譜代の大名や、場合によっては親藩格の大名にも平等に適用されています。武力で成立した徳川幕府ですから、その力を示すためにも例外は認められなかったとともに、仮想敵国たる大名家を減らす良い口実になったのでしょう。
ところが、大名家を取り潰し過ぎたことによって国中に牢人があふれて治安は悪化し、由比正雪が慶安の変を起こしかけて幕府はあわや存亡の危機を迎えかねなくなってしまいました。
何事もやり過ぎはよくないということですが、こういった様々な「生きた教訓」を学ばせるのも歴史であり、自身の一面的な考えを押し付けがましく語るのでなければ、生徒に対しても決して悪い影響を与えることはないでしょう。
ということは、もし秀秋が寝返らなかったら西軍と東軍はそのまま一進一退の膠着(こうちゃく、ほとんど動きがなくなること)した状態が続いたでしょうし、また秀秋軍が史実とは逆に家康軍を攻撃するために松尾山を下って行けば、壊滅状態になったのはむしろ家康軍の方になったことも十分考えられるのです。
つまり、東軍が敗れて三成の西軍が勝利した可能性も有り得るのですが、もし西軍が勝っていれば、その後の我が国の歴史はどうなったのでしょうか。
この「歴史のif」を考えるにあたって、私は関ヶ原の戦いで「家康が生き延びた場合」と「家康が死んだ場合」の二つの条件でそれぞれ想像しなければならないと思います。まずは「家康が生き延びた場合」を考えてみましょう。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに激戦であればあるほど、早く決着が付くというのは世の習いでしたね(^^ゞ
もしも家康が死んでいたら。
面白いですね!
そんな発想は今まで想像したことがありませんでしたので、これからの展開を楽しみにしています♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに激戦であればあるほど、早く決着が付くというのは世の習いでしたね(^^ゞ
仰るとおり世の習いではありますが、盲点でもありますね。
歴史教育に限りませんが、思い込みというのは不思議なものです。
> もしも家康が死んでいたら。
> 面白いですね!
> そんな発想は今まで想像したことがありませんでしたので、これからの展開を楽しみにしています♪
有難うございます(^^♪
明日(13日)からの更新にご期待ください!
オバrev 歴史にifは禁物だと思いますが、もし家康が生き延びていたら、確実に復活して豊臣を滅ぼしたことは間違いなく、その後の歴史も大きくは変わらなかったんじゃないでしょうか。
ただ家康が死んでいた場合は、東軍にも西軍にも天下をまとめきれる人はいず、世は再び群雄割拠の時代となり、あるいは西欧の植民地になっていたかもしれません。
家康は出るべくして出た天下人で、薄氷を踏みながらも、天下統一の運命は決まっていたように感じます。
これは興味深い考察。
晴雨堂ミカエル 生き延びた場合と討ち取られたのでは大きく違いますね。
上田城攻略に失敗して大損害とはいえ、秀忠の軍勢は徳川の主力。ただ中納言秀忠はまだ権威やカリスマが無いので、大老家康の「部下」として従った豊臣恩顧の大名は従わないでしょう。あくまで豊臣家の家臣として家老の家康の指揮下ですから。
かといって、三成に戦後調整は無理ですし、宇喜多や毛利が増長する。豊臣家内部の権力闘争は三成ではまとめられないでしょう。
混沌として面白い時代になりますね。
家康が落ち延びたら、私は頼朝のように関東は磐石なので巻き返せると思います。西軍は指揮系統が混乱しそうですから。
オバrevさんへ
黒田裕樹 さすがはオバrevさん、鋭いですね(^^ゞ
お考えが的中なさっておられるかどうか、今後の更新をご覧いただければと思います。
> 家康は出るべくして出た天下人で、薄氷を踏みながらも、天下統一の運命は決まっていたように感じます。
私も同感ですね。後日改めて検証することになるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るように混沌とした世の中になるのは間違いないと思います。
問題は果たして誰が得をすることになるか、ということになるかもしれませんね。
HANA子 他の方もおっしゃってますが、確固とした地盤を備えている以上一敗地に塗れたとしても徳川方の巻き返しは間違いないでしょうね。
結局のところ有能ではあっても将器でなかった石田三成には豊臣を纏め上げることは出来なかったでしょうし、事実出来なかったですものね
次回も楽しみに待ってます!
HANA子さんへ
黒田裕樹 家康が負けた場合、徳川家の巻き返しと豊臣家の再興とのバランスがどうなるかがカギを握るのは間違いなさそうです。
まずは生き延びた場合から推論していきますので、どうぞご覧下さい。
もう、一つの可能性
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
関ヶ原の戦いで、もう、一つのifが浮かびました。
もし、秀忠の38000が、関ヶ原に間に合ったとします。
すると、私の展開では
① 東軍の圧勝。
② 豊臣恩顧の大名に大幅加増する必要ががないので、徳川の親藩、譜代大名の大幅加増ができる。(但し、権力と財力のバランスは、配慮し、
徳川家の直轄領の増加が中心になる。)
ここで、気になるのは、豊臣秀頼の存在なのですがこの時、豊臣秀頼は、関白職だったのでしょうか。というのも、関白職の場合だと、いかに東軍が圧勝でも、スグにどうこう出来ない気がします。
しかし、考えてみると、豊臣政権は、不思議です。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は、武家政権です。
しかし、豊臣秀吉、秀次の関白というのは、
天皇に代わって、政治を行うという公家の政権です。公家の頭領に武士が従うというのは、平家政権のようになる気がするのですが、政権発足当時から、脆かった気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに東軍が圧勝であれば、大名のバランスが変わってきそうですね。もっとも、家康であれば失敗するようなことはないと思いますが。
豊臣政権が関白になったのは、秀吉の出自に問題があったのと、足利義昭が健在であったために征夷大将軍になれなかったからです。武家政権のよりどころが関白では、やはり無理があったのかもしれませんね。