三成は物事に対して常に正確さを求め、また不正義な行動を許さない性格を持っていました。彼のこうした一面は、秀吉によるいわゆる太閤検地(たいこうけんち)を完全に実行することができたという大きな効果をもたらすなど、文治的な才能は非常に高いものがありました。
しかしその一方で、自分が完璧(かんぺき)であると自負(じふ)していたことで、それができないと判断した相手には横柄(おうへい)に振る舞うという欠点もありました。特に軍事面に強い武将とは相性が悪く、自分と同じ秀吉の家臣であった加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らといつしか不仲となるとやがて対立し、彼らが関ヶ原の戦いで家康側に所属する原因をつくってしまったのです。
とはいえ、関ヶ原の戦いで約80,000ともいわれる軍勢(ぐんぜい)を集め、その総指揮(そうしき)をとったという事実は三成が決して無能な武将でなかったことを証明していますし、また横柄な一方で彼が親友に見せた「男気(おとこぎ)あふれる行動」が現代においてもなお語り草となっています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
石田三成という人物は、優秀な反面、自分と同等な軍事力を持つ野心家とは角を突き合わせてしまう一面があったのですね。お人よしばかりでは、相手に足元を掬われてしまいますが、余り闘争心を顕にしてしまっても、これまた敵ばかり増やす事になり、なかなか難しいものですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 石田三成という人物は、優秀な反面、自分と同等な軍事力を持つ野心家とは角を突き合わせてしまう一面があったのですね。お人よしばかりでは、相手に足元を掬われてしまいますが、余り闘争心を顕にしてしまっても、これまた敵ばかり増やす事になり、なかなか難しいものですね(^_^;)
優秀であることや闘争心を持つことは人間にとって重要なことの一つではありますが、何事も程々の方が良いのかもしれませんね。
苦労人の家康に足元をすくわれるあたり、三成は戦った相手が強すぎたのかもしれませんが、それでも人間は戦わねばならない時がありますからね。
佐佐木あつし こんにちは。
講座には残念ながら参加できませんでしたが
こうして拝見させてもらえるて幸いと存じます。
昔から文官と武官は摩擦があるものですね。
今、NHKでやってる大河ドラマの三成は友人の萩原聖人君が演じてますが、彼なりの三成観とその演技には大変好感がモテます^^
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > こんにちは。
> 講座には残念ながら参加できませんでしたが
> こうして拝見させてもらえるて幸いと存じます。
お言葉有難うございます。次の機会にはぜひ先生にもご参加いただければと思います。
> 昔から文官と武官は摩擦があるものですね。
仰るとおりですね。どちらも自己が所属する国や組織を思っての行動のはずなのですが…。
> 今、NHKでやってる大河ドラマの三成は友人の萩原聖人君が演じてますが、彼なりの三成観とその演技には大変好感がモテます^^
今年の大河ドラマは脚本や内容には数々の意見があるようですが、演じていらっしゃる俳優の皆様の迫真の演技力は素晴らしいですね。
石田
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
石田三成は、たしかに武断派とは、合わなかったようですが、
自分自身の軍事的能力があることを知り、それを補うために『島左近』を自分の石高の半分も与えました。
当時、家臣と主君の石高が同じというのは、常識では、考えられないことです。
自分の長所だけではなく、自分の短所もしっかりと知っていた石田三成は、非常に優秀だと思います。
願わくば、その力を徳川幕府のために使ってほしかったです。
外様大名でも、藤堂高虎のように家康のブレインのような存在がいたわけですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 今回は割愛しましたが、確かに島左近の存在は大きかったですね。
秀吉に恩義を強く感じていた三成では、家康と組むことは現実的には不可能でしょう。
とはいえ、そのたぐいまれな文治的才能はやはり惜しまれますね。
吉継が業病を患っていたことを知っていた他の武将は、吉継と接触(せっしょく)することを嫌(いや)がり、茶会の際に吉継が飲んだ茶碗(ちゃわん)が回ってきても、茶碗に口をつけるフリをして、茶も飲まずに次の人に回すことが何度もありました。
そんなある日の茶会のことです。吉継はいつものように茶を飲んだ際に、体液を茶碗の中に落としてしまいました。自(みずか)らの大失態にさすがの吉継も慌(あわ)てましたが、同席していた三成が吉継から茶碗を受け取ると、何事もなかったかのように一気に茶を飲み干(ほ)しました。
三成はさらに「のどが渇(かわ)いたので茶をもう一杯(いっぱい)所望(しょもう)したい」と亭主(ていしゅ)に申し出ると、その際にわざと手をすべらせて茶碗を落としました。三成は慌てることなく「転げた茶碗では皆様に対して恐れ多いので取り替えてほしい」と告げて、茶碗を換(か)えさせたことで諸大名を安心させるとともに、吉継に恥(はじ)をかかせることを未然に防いだのでした。
三成の友情に感激した吉継は、その後の関ヶ原の戦いの際に三成と行動を共にする決意をしたのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今回のお話は、素直に解釈させていただいても宜しいのでしょうか。三成がそこまで相手に恩をきせる事で絶対の信用を得ようとする究極の「人たらし」という裏事情があったなどとは思いたくない程の美談ですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回のお話は、素直に解釈させていただいても宜しいのでしょうか。三成がそこまで相手に恩をきせる事で絶対の信用を得ようとする究極の「人たらし」という裏事情があったなどとは思いたくない程の美談ですね^^
三成の伝えられる性格から考えて、素直に解釈して問題ないものと思います。吉継もそんな三成の性格を知っていたからこそ感激したのでしょう。戦国らしからぬ美談も良いものですね。
小枝は
ろっぽん こういう小枝も歴史を身近に感じ、ブログ記事として大衆受けしますが
なぜ戦国時代になったかと言うと
1、 元寇によって鎌倉幕府の力が弱まって
2、 後醍醐天皇が再び公家の世にしようと
3、 そのことに足利尊氏が天皇に協力し鎌倉幕府を倒した
4、 だけど、後醍醐天皇の足利尊氏への恩賞が不十分で
5、 尊氏は後醍醐天皇を九州に追いやり
6、 傀儡の北朝に天皇を作り室町幕府を打ち立てた
7、 だけど室町の力も弱まり
8、 我こそがトップにならんと戦国時代になった
9、 弱小の小藩にすぎなかった織田が合理主義で覇権を勝ち取り
10、 だが冷酷非道な独裁に危機感をもった明智光秀が謀反で
本能寺で殺害される
11、だが秀吉に光秀は討たれ
12、その後のことはお江のドラマでご存知だと思うが
13、織田家の親類縁者の家臣を成敗しトップに登りつめ
14、百姓の出身なので将軍の位を天皇からさずからないので
身分詐称するため藤原の家系を買うなどの工作で太閤の身分を得、
茶々姫を得、子も授かった、でもその子は本当は石田光成の種だという説もある
●種なしブドウの秀吉に種などなかろう
オバrev 素直に(・∀・)イイネ!!
やはりそれ相応の優秀な人材であったおこと間違いないですね。
ただ、天下を統一し平和な社会をつくるというモチベーションというか執念が、家康の方が明らかに上回っていて、天もも味方してくれたということでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 大まかな流れは仰るとおりですね。
秀頼が石田「三成(光成ではありません)」の子ではないかという噂は尽きないですね。
今となっては確認のしようがないのですが。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 素直に(・∀・)イイネ!!
> やはりそれ相応の優秀な人材であったおこと間違いないですね。
今回のようなエピソードがあるということが、仰るとおり三成がひとかどの武将であったということは間違いないでしょう。
> ただ、天下を統一し平和な社会をつくるというモチベーションというか執念が、家康の方が明らかに上回っていて、天も味方してくれたということでしょうか。
確かに家康の執念は凄いですからね。家康側の検証は後日またブログ上で行いますので、どうぞお楽しみに!
家康の執念
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
家康の執念を感じるのは、
『関ヶ原の戦い』から、『大阪の陣』までの
15年間ですね。
この15年間が非常に重いですね。
わろ 秀次、弟じゃなくて甥でしたね(汗
それにしても、三成はいい人な上に頭も切れるのですね^^
諸大名への配慮を忘れないが流石です。
気の合わない武闘派の武将への配慮がもう少しできていたら、関ヶ原の戦いも違っていたのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康の真骨頂は関ヶ原の戦いそのものよりも、その後の15年間でしょう。
自分の寿命とも戦い抜き、見事に使い切ったその執念は凄味すら感じさせます。
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武闘派との妥協ができていればむしろ関ヶ原は起きなかったかもしれません。
しかしながら、現実には「殺し合い」にまで発展していますから、抜き差しならない関係だったのが悔やまれますね。
そんな関係に見事にくさびを打ち込んだ家康の手腕も褒めるべきですが。
戦いの後に処刑されたのは三成の他に小西行長(こにしゆきなが)と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がいました。家康が処刑前の三人に対して小袖(こそで)を与えた際に、他の二人が何も言わずに受け取った一方で、三成は「この小袖は誰からのものか」と聞きました。使いの者が「江戸の上様(=家康)からだ」と返答すると、三成は「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか」と言って受け取らなかったそうです。
また、三成が刑場に引き出される途中でのどが渇いて水を所望すると、警護の人間から「水は無いが、柿(かき)があるからそれを食え」と言われましたが、三成は 「柿は体に悪いからいらない」と答えました。警護の人間が「もうすぐ首を斬られる者が、体の具合を気にして何になる」と笑うと、三成は「大きな志(こころざし)を持つ者は最期の時まで命を惜(お)しむものだ」と平然と答えたと伝えられています。
こうして武運拙(つたな)く刑場の露(つゆ)と消えた三成でしたが、関ヶ原の戦いに勝利した家康側にしても、決して楽勝とは言えなかったのが真実でした。なぜなら、家康の別動隊ともいうべき軍勢が戦いに間に合わなかったからです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり最後まで三成は自分が目標としていた天下人の野望を志半ばにして断念しなければならないという悔しさがその一言の中に凝縮されているかの様ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり最後まで三成は自分が目標としていた天下人の野望を志半ばにして断念しなければならないという悔しさがその一言の中に凝縮されているかの様ですね。
そうですね。死にゆく我が身の悔しさと、そんな中でも武士としても矜持を失いたくないという意地も見え隠れします。やはりひとかどの武将ですよね。
下部の犠牲も
ろっぽん 私はそれほど上部の人間の刑罰に心動かれません。
何千何万の敵も味方も下部の兵が犠牲になったと思うんですね
現在、戦国ゲームなどで、若い女の子でも
カッコイイからと戦国ブームですけど、
もっと悲惨なことも伝えるのが日本史でしょう。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間の価値に上士も下士もありません。
私は歴史上の名のある人物を中心に歴史を展開することを主としておりますが、下部の犠牲の悲惨さを伝えていくのもまた重要でしょう。
価値観の違いもまた、歴史を学び伝えることに厚みを加えていくのは間違いありません。
私は私の歴史の見方で伝えてまいります。