なぜ秀吉の死が豊臣家の没落の引き金になってしまったのかといえば、後継者(こうけいしゃ)としてわずか6歳の豊臣秀頼(とよとみひでより)しか存在しなかったからでした。いくら何でも6歳の男児に政治が行えるはずがありません。秀吉の死によって生じてしまった政治的な空白を家康に付け込まれたがゆえに、関ヶ原の戦いが起きてしまったといっても過言ではないのです。
秀吉と正妻のおねとの間にはついに子が生まれませんでした。秀頼が生まれたのは秀吉が50歳を過ぎた晩年になってからであり、側室(そくしつ、第二以下の夫人のこと)の淀殿(よどどの)が産んでいます。天下人となった秀吉であれば、いくら正妻との間に子が生まれなかったからといっても、若いうちから側室との間に子をもうけていてもおかしくはないはずでした。
しかし、それは秀吉には無理な話でした。なぜなら、秀吉は「天下人になるべくしてなった」わけではないからです。




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ぴーち こんにちは!
この頃の血縁というのは、非常に重要な意味合いをなしている事が伺えますね(^^ゞ
なるほど、秀吉が天下人になってからの期間が短い為に子孫を残せなかった事が致命傷となった訳ですね。。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり血縁の武将に跡を継がせるのが当時の常識なのですが、秀吉の場合は次回に詳しく紹介する「特殊な事情」がありましたからね…。
天下人になるのも大変ですが、その時期も重要ということでしょうか。
こんばんは
ryo 今回のyoutubeの動画なのですが、何度か見る上で便利なので、連続再生できるように編集していただくことは可能でしょうか。わがまま言ってすいません。。
ryoさんへ
黒田裕樹 > 今回のyoutubeの動画なのですが、何度か見る上で便利なので、連続再生できるように編集していただくことは可能でしょうか。わがまま言ってすいません。。
私のブログでは、更新の分量に合わせて映像を分割しております。YouTubeで連続再生の機能というのが見当たりませんので、映像をあらためて編集しなおす作業が必要になりますが、その場合は2GBを超えてしまいますので、画質を落とすなどの編集が必要ですし、また統合した時間(通常は15分程度の長さが限度)の問題もありますので、可能かどうか現状では分かりません。
ただ、YouTubeでのコメントにもryoさんと同じようなご要望がありましたので、時間を見つけて検討してみたいと思います。
そんな信長に対して、秀吉は実に要領よく立ち振(ふ)る舞(ま)いました。自分に子がいなかったとしても家臣という身分では深刻(しんこく)な問題ではなかったですし、またそれを奇貨(きか)として(良い機会として、という意味)、信長の四男であった秀勝(ひでかつ)を自分の養子としました。
信長にしてみれば、自分の子が優秀な家臣の跡継(あとつ)ぎになるのですから嬉(うれ)しくないはずがありません。こうして「信長の家臣」としての地位を確実なものにした秀吉は、そのまま出世街道を歩んで生涯(しょうがい)を終えるはずでした。
しかし、信長が本能寺の変(ほんのうじのへん)で明智光秀(あけちみつひで)に暗殺されてしまったことで、秀吉の運命も大きく変わっていったのです。




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ぴーち こんにちは!
秀吉は最初から天下人になりたいという
考えでは無かった訳ですね。
信長に一生仕える身で、最高の待遇であれば
それで良いという立場を貫こうとしていたんですか・・。しかし、肝心の親方が居なくなってしまった事でその立場が急変してしまったわけですか。。人生、分からないものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
本来ならば「最高の忠実な家臣」で終わるはずが、思わぬ形で天下人になるチャンスが与えられたわけですから…。
もちろんその運をつかんだことは秀吉にとって最高の幸福だったと考えられるわけですし、人生は本当に分かりませんね。
オバrev なるほど~、秀吉に子供がいなかった理由がよく理解できました。
確かにトップに立つというのと、家臣のままでいるのでは全く立場が違いますね。
このことだけでも、秀吉は自分で天下をとろうと思っていなかったことが分かります。
そこが家康との大きな違いじゃないでしょうか。
クラチー お、やっと本能寺の変あたりまできましたね。
魔王様の家臣として頑張っていたときの猿。
この頃はまだ、有能で女好きなだけだったのに…。
(;。;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、秀吉に子供がいなかった理由がよく理解できました。
> 確かにトップに立つというのと、家臣のままでいるのでは全く立場が違いますね。
> このことだけでも、秀吉は自分で天下をとろうと思っていなかったことが分かります。
そのとおりです。家臣の立場としては、主君の子を養子にもらうというのは最高の「保身」でもありますからね。マイナスをプラスに変えるあたりがいかにも秀吉らしいです。
> そこが家康との大きな違いじゃないでしょうか。
家康は戦国大名ですから、秀吉とは全く立場が異なりますからね。
1560年代に早々と「徳川」を名乗っているところは抜け目がありません。
クラチーさんへ
黒田裕樹 > お、やっと本能寺の変あたりまできましたね。
> 魔王様の家臣として頑張っていたときの猿。
> この頃はまだ、有能で女好きなだけだったのに…。
> (;。;)
仰るとおり、本能寺の変を境に立場がガラッと変わることで、秀吉自身の性格も激変してしまいますからね…(´・ω・`)
立身出世は人間の栄誉でもありますが、失うものも多いようです。
わろ YouTube3/18まで見ました^^
確かに、秀吉の人生前半は天下人を狙っては無いとは思うのですが、自家の存続を狙うことは無かったのでしょうか??
織田の養子を迎えれば、織田家に乗っ取られる感じもしますが、当時の人はどんな気持ちなんでしょうか・・・
逆に、秀吉も毛利家を乗っ取ろうとしたけど、小早川家に養子を養子として出したと思ってたのですが、養子の概念ってどのような位置づけなのでしょうか?
あと、秀吉が、弟や福島や加藤を盛りたてたのは、もう少し後の話なのでしょうか?
なんだか質問ばかりすみません><
わろさんへ
黒田裕樹 確かに表面上は織田家に乗っ取られるかもしれませんが、もともと子供がいないうえに、信長が自分の息子の養子先の家臣の家をつぶすというのが考えられないことや、あまりにも自身が出世を重ねたことで他の家臣にねたまれることを防ぐというメリットの方が大きかったと思います。
養子は確かに乗っ取りというイメージがありますね。ただ、秀吉の場合は自分の方から望んでおり、区別が必要であると思われます。
加藤清正や福島正則の活躍が始まるのは1570年代後半からであり、この頃はまだ20歳前後の青年ですから本格的な活動は信長の死後に秀吉の天下取りが始まってからですね。
考え抜いた末、秀吉は姉の子である豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を養子として、関白(かんぱく)の地位を与えました。そのこと自体に大きな問題はなかったのですが、1593年に秀頼が生まれると、実子に跡を継がせたいと思うようになった秀吉は、次第に秀次を遠ざけるようになりました。
そして1595年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山(こうやさん)に入って出家しましたが、その後に切腹(せっぷく)を命じられ、また秀次の女子供を含(ふく)む一族郎党(いちぞくろうとう)の39人が京都で処刑されました。
それまでの「人たらし」としての面影(おもかげ)が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷無比(れいこくむひ)な行動は、我が子可愛(かわい)さからきたものであると同時に、独裁者(どくさいしゃ)となったことで猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと)が強くなったことが理由のひとつであるとされています。
確かに秀吉の行為は同じく独裁者となった信長の晩年と共通するところが見受けられますが、いずれにせよ秀次一族に対する虐殺(ぎゃくさつ)が、実は豊臣家のその後の運命を決定づけてしまったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはりどんな人物でも、天下人となると
周りに対しての猜疑心などが自然に身について来てしまうものなんですね。
これも人の上に立つものの性なんでしょうかね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはりどんな人物でも、天下人となると
> 周りに対しての猜疑心などが自然に身について来てしまうものなんですね。
> これも人の上に立つものの性なんでしょうかね(^_^;)
仰るとおりだと思います。
ごく普通の人間が、権力欲の高まりの果てに猜疑心の強い別の人格を持つようになる…。
どんな人間にも当てはまりそうで恐ろしくもありますね。
歴史の
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
もし、仮に、豊臣秀次が、豊臣秀頼の成人するまで、関白となり、殺されなかったとします。
すると、その後の歴史は、どうなっていたと思いますか?
① 関ヶ原の戦いは、起こったか?
② 徳川家康は、態度を軟化させて、宥和策を取ったか?
③ 諸大名は、後継者が豊臣秀次で、納得できたか?
④ 徳川家康が生きている間に徳川幕府は、開けたか?
などの疑問が浮かびました。
黒田先生は、どう思われますか?
支配
ろっぽん 企業でも社会でも私は血族の後継にはあまり好ましく思いません。天皇もです。
血がつながってるだけで、
身分が決まるというのは、納得がいきません。
まぁ豊臣の没落は奢れるもの云々でしょう。
その教訓を学びましょう。
青田さんへ
黒田裕樹 秀次が生きていた場合、秀吉から秀次への「緩やかな政権移譲」が完成していた可能性が高いですね。
もちろん、家康が豊臣家に付け入る隙があったかもしれませんが、現実の世界のように何もかも家康の思いどおりになる可能性は低かったと思われます。
そうなると、さらに歴史が変わっていた可能性が高いですが、この点についてはじっくりと検討する余地がありそうですね、
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 企業でも社会でも私は血族の後継にはあまり好ましく思いません。天皇もです。
> 血がつながってるだけで、
> 身分が決まるというのは、納得がいきません。
確かに血族というだけで身分が決まるという制度には弊害が多いですからね。
それが皇室にまで至るというのも自由なお考えでしょう。
> まぁ豊臣の没落は奢れるもの云々でしょう。
> その教訓を学びましょう。
過去の歴史に学ぶのは貴重ですからね。
逆に「なぜ長く続いているのか」など、様々な教訓が存在しておりますし。
長く続いてる存在
ろっぽん 天皇などの継承制は
カトリックのような法王のような制度がいいなぁ
天皇が神官の親分みたいな存在ですから
日本全国の神官の代表を選んだ方がいい
歌舞伎などの世襲制の伝統芸能などは
国立伝統学芸術校などを作って継承するのがいいでしょう現にヨーロッパや中国はそうやっています
私なども民話をよりわかりやすい媒体で全国に伝えようと言う運動をしてます。
半年に一回くらい何を勘違いするのか国粋主義的なサイトから愛国的コメントがきます。
でもその人たちは日本の文化とはなにかを形だけで何も理解してません
民話を授業の中へは、日の丸、君が代強制だけで
愛国教育はできんと郡部の校長などがとりあげたことです。
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 昨今の歌舞伎役者による騒動を思えば、世襲制が必ず善とは限りませんからね。海外での手法は大いに参考になるでしょう。
300年以上の歴史を持つ歌舞伎に比べ、神話の世界を除いても1500年程度は続いていると考えられる皇室ですが、ろっぽんさんと同じような考えが当然と受け止められていれば、それこそカトリックの法王のように、かなり以前から「日本全国の神官の代表」がその任を受け継いでいることでしょう。しかし、現実にはそうはなってはいない。
なぜ皇室は皇室でなければいけないのでしょうか。カギを握るのは、古事記や日本書紀による神話の世界で語られている天照大神をはじめとする皇祖神(こうそしん)の存在であり、現在の皇室が皇祖神の直系であるという「血の伝説」ですね。
もちろん、その存在自体が怪しいとされる神話の世界に信憑性を求めるのは無理があるでしょう。しかしながら、キリスト教がキリストを唯一神として崇め奉り、一度息絶えた者を「復活」させるなどの数々の伝説を基本に現在においてなお信仰心を深めている姿勢を評価するのであれば、神話を基本とした我が国独自の「八百万の神」といった精神もまた尊重されるべきです。
私は歴史教育に携わる末端の存在ですが、私たち日本人が祖先から受け継いできた「日本の精神」を次代へとしっかりつないでいく立場からも、皇室をはじめとする我が国の長年の伝統を、そのままの形で受け継いでいくという姿勢を重視しております。
同じように長い歴史に根付いた民話を大事に継承しようなさるろっぽんさんであれば、私の考えにもご理解いただけるものと信じております。
ちなみに国旗や国歌の強制ですが、本来であれば強制などしなくても自然と身につくものでしょう。それが長年の教育姿勢によって反対することが当然となりつつある現状を憂慮すれば、一時的には強制じみた行為になるのも仕方ないのではと個人的には思っております。
神道と国民の生活
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
あれから、日本の歴史の神道との関わり方について、本を読みました。
まず、『君が代』についてですが、
この歌詞の意味を知り、感動しました。
『君とは、天皇を指すのではなく、尊敬する人間にたいしての尊敬の呼び名であり、国民が千年も繁栄するように。。』を歌っているとうこと。
しかも古今和歌集で、歌われてということ。
さらに
天皇が和歌を詠むのは、日本の神道の考え方として、言霊(言葉にも魂がある。)という考え方を基にしていることを知りました。
こういうことの大切さは、唯物論、合理主義だけの人間には、理解できないことですね。
人間というのは、やはり、心、精神的な存在なので、心を大事にする日本の文化がないことが、現代人の心の病の急増につながっていると思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰る思い、よく分かります。
我が国は政教分離の国ではありますが、精神面での宗教の存在までも失わさせる必要はありませんし、むしろ失ってはいけません。それこそ唯物論者の思うつぼです。
心の支えとして、我が国では古くから八百万の神々がついています。神に感謝する思いを大事にしながら、明日(8月15日)を迎えたいですね。
そして、秀吉の身内がこのような刑罰(けいばつ)を受けたということは、仕える家臣に底知れぬ恐怖感(きょうふかん)を与え、その後に秀吉に表立って意見する家臣が存在しにくくなったことで、秀吉による独裁政治が一層強くなり、結果として1597年に秀吉が二度目の朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)となる慶長の役(けいちょうのえき)を起こしたとも考えられるのです。
加えて秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。
また、いわゆる秀次事件に巻き込まれたことで多くの大名が秀吉の不興(ふきょう)を買いましたが、その大名の多くが関ヶ原の戦いで家康率(ひき)いる東軍に所属しているのです。我が子可愛さが余(あま)っての秀吉による残酷(ざんこく)な行為が、関ヶ原の戦いを含むその後の豊臣家にとって逆(さか)らえない落日(らくじつ)をもたらしたことは意外にも知られていません。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
普通一般の家庭の主人であるのなら、妻子の幸せを一番に考えて仕事に人付き合いに心血を注ぐ事が通常の考え方だとは思いますが、天下人となるとその優先順位がいれかわり、家族の幸せをさて置いても、周りからの信用、信頼を一番に考えていかなければ、いづれ自分の首も危ぶまれる事態に陥る事になるんですね。
特殊な状態ではあるものの、それも天下人になる為には避けられない運命なのかも知れませんね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつ寝首をかかれるかわからないという恐ろしさは、天下人にならないと理解できないとよく言われますからね。
本来であれば一門衆は大事に育てていかなければなりませんが、秀吉が天下人になる過程でかなりの無理がありましたから、その矛盾が秀頼の誕生によって一気に噴き出した感があります。
所詮、武力だけでは真の人心の把握はできないという教訓なのかもしれませんね。それに比べて、政治の実権を失うことはあっても、徳によって世の中を治め続けてきた皇室が21世紀の今日においても我が国に存在なさっておられることが意味する現実は重いと個人的には考えます。
サムライ銅像研究会 こんばんわ。
初回からずっと聞いておりましたが、なるほど分かりやすい講義です。関白秀次切腹事件が大名に恐怖心を抱かせ、秀吉死後雪崩をうって「律義者」徳川家康の味方についた・・説得力のあるお話です。心理面に着目して説き起こす論はあまり聞いたことがありませんでした。
以前、山形の「最上義光歴史館」に伺った時、秀次事件で連座した娘の死を義光公がいかに悲しんだかということを等身大の人形を使って展示していました。最上は東軍に付きましたからね。
続きを楽しみにしております。
徹底
ろっぽん 現代の職場の倫理にも似てますね。
実力主義で年功序列を廃止し派遣社員ですぐ解雇する黒田先生のように講師の教師を増やし、
正教員になかなか雇わない。
思想的にも反体制では講師もすぐ解雇になる
だから従順にならざるおえない。
こういうブログだって当局の誰かが見てるかわかりませんからね
私が反天皇なのは、日本の保守のシンボルだからで
より柔軟な保守に変換するためには天皇制を壊すしかないのです。私の側に蝦夷成敗の砦の伊豆(これはる)城跡があります。大和朝廷に侵略され植民地になった東北そういう詳細を日本史で教えてますか
残念なことに戦中教育を受けた人に特にこういうことを知りません。
朝廷に逆らったことで現在も悪人扱いのアザマロ(伊豆(これはる)城に火をつけ焼いた多賀城も放火した)
私はこの「アザマロ」にスポットをあてマンガに描こうと思います。
天皇の系列は南朝北朝で途絶え血が交ざり合っていますね是非この南朝北朝も取り上げてくれませんか。
サムライ銅像研究会さんへ
黒田裕樹 お褒めのお言葉有難うございます。
最上義光もそうでしたね。秀次事件の余波は様々な場所に広がっています。独裁者が持つ強い猜疑心では、そんな幅広い視野を持てないのかもしれません。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「長いものに巻かれろ」という論理がまかり通っていますからね。
東北地方の歴史も朝廷以外からの視点で見ることも重要ですし、それを伝えていくことも歴史教育の一環だと私も思います。
ご提案有難うございます。私は私の視点で歴史教育に役立てるようブログを構成しておりますが、お互いに自由な認識から歴史を展開して良ければ良いですね。
AKKO この当時出家した者の命を取ることは考えられなかったという記述は他でも見かけますが、羽柴四天皇の尾藤知宣は、九州征伐での失態により秀吉の怒りを買い、剃髪して秀吉に赦しを乞うたものの惨殺されたと言われています。
当時は出家したと言っても弓矢を取ることは普通にありましたし(信玄や細川幽斎も)、実際は出家したかどうかはあまり関係なかったのではないか・・・とも思うのですが、どうなんでしょうか? 素朴に疑問です。
AKKOさんへ
黒田裕樹 出家に関しては仰る一面があるのも事実だと思いますが、秀次の場合は自主的に出家したばかりでなく、高野山にまで登っていますからね。
命乞いのために出家するのとは次元が異なりますし、ましてや身内ですから、やはり考えられないことだと思います。TPOで考えてみるべきかもしれません。
秀次問題
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
秀次が後継者として、資質は、ともかく、
大きな利点が2つあったと思います。
① 成人している後継者
(これは、講座の中で、黒田先生がおっしゃっていましたね。)
②4男1女の子供にも恵まれていたこと。
→ 徳川家康の血のセーフティーネットのように少なくとも、豊臣の流れは、長期的に創れる。
余談ですが、真田幸村の側室は、秀次の娘ですが
何とか難は、逃れたようですね。
最上義光の娘は、処刑されたのに。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、秀次の存在は意外と大きいものがありました。
それだけに秀吉の短慮ともいえる行動が悔やまれますね。
真田信繁の側室の件は確かに不思議ですね。
父親(昌幸)の政治力が関係しているのでしょうか?