昭和57(1982)年、歴史教科書において外国が一方的に不利となる記述があったとして大問題になりましたが、後に全くのデマであったことが明らかになりました。しかし、この「教科書誤報事件(きょうかしょごほうじけん)」に対するマスコミの謝罪(しゃざい)は、一部の例外を除いてついになされることがなく、その後の「近隣諸国条項(きんりんしょこくじょうこう)」という名の自主規制(じしゅきせい)によって、健全な青少年の育成に欠かせない歴史教科書が外国の干渉(かんしょう)を平気で受けいれるようになってしまいました。
さらに昭和60(1985)年、当時の中曽根康弘(なかそねやすひろ)首相が終戦記念日の8月15日に靖國神社(やすくにじんじゃ)を公式に参拝(さんぱい)した際に、中国や韓国といった特定の国家の猛反発(もうはんぱつ)を受けたことで、以後10年以上にわたって、国政における最高権力者が我が国のために尊(とうと)い生命を捧(ささ)げられた多くの人々の御霊(みたま)をお慰めできないという異常事態を招いてしまいました。
翌昭和61(1986)年の終戦記念日の際に、昭和天皇は以下の御製をお詠みになっておられます。
「この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし」




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今日は日中の気温が高かったお陰で、計画停電が実施されずに過ごしておりますが、仕事があった為に今になってしまいましたm(_ _)mけれど、停電が無いということがこんなに有難いものかと感慨深いものを感じております^^
そうでしたか・中曽根さんの時からだったんですね。この内政干渉が甚だくなったのは・・・。
余り外国の言い分や、文化を軽々しく受けてしまうのも、良し悪しですよね。
今回の中国軍隊受け入れを検討するしないの話も、簡単に受け入れが行われない事を祈りますが。。
それでは、応援凸
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日は日中の気温が高かったお陰で、計画停電が実施されずに過ごしておりますが、仕事があった為に今になってしまいましたm(_ _)mけれど、停電が無いということがこんなに有難いものかと感慨深いものを感じております^^
お言葉に実感がこもっておられますね。
当たり前に思っていることが失われたとき、どれだけ不便で悲しいものでしょうか…。
> そうでしたか・中曽根さんの時からだったんですね。この内政干渉が甚だくなったのは・・・。
> 余り外国の言い分や、文化を軽々しく受けてしまうのも、良し悪しですよね。
> 今回の中国軍隊受け入れを検討するしないの話も、簡単に受け入れが行われない事を祈りますが。。
今回取り上げた二つの出来事がそもそもの混迷の始まりですね。
中国軍の受け入れだなんて、ブラックジョークも良いところですよ。
米軍に関することも含め、自分の国は自分の防衛隊(=自衛隊)で守るべきものなんですから。
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教育勅語
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
田母神さんが、『教育勅語』を復活させるべき。
と言っていました。
田母神さん曰く
『こう話すと、軍国主義の復活と叫ぶ人がいるから、その人に教育勅語を読んだことがあるのか』と尋ねると
『読んだことがない。』と答えるそうです。
田母神さん曰く
『教育勅語には、当たり前の普通のことしか書いてない。』というので
『教育勅語』を調べると
本当に当たり前の道徳教育に必要なことが
書いてありました。
好きな部分を抜粋します。
あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし
、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
『本当に純粋な道徳教育』ですね。
軍国主義とは、まったく、関係ありません。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、教育勅語は軍国主義とは未関係です。
GHQの命令で占領中に国会で無効決議をさせられたのが尾を引いていますね。
外国では教育勅語の精神がいまだに生きているそうですが…。
陛下のご無念のお気持ちは、以下の御製で私たちもうかがい知ることができます。
「思はざる 病(やまい)となりぬ 沖縄を たづねて果(はた)さむ つとめありしを」
実はこのとき、昭和天皇は病魔(びょうま)に蝕(むしば)まれておられました。宮内庁は陛下の玉体(ぎょくたい、天皇などの身分の高い人物のからだのこと)にメスを入れる決断を下しました。手術は成功して昭和天皇はお元気を取り戻(もど)されましたが、翌昭和63(1988)年の夏頃から急激(きゅうげき)に体調が悪化されました。
終戦記念日の8月15日に日本武道館(にっぽんぶどうかん)で行なわれた全国戦没者追悼式(ぜんこくせんぼつしゃついとうしき)に際して、昭和天皇はご療養先(りょうようさき)の那須御用邸(なすごようてい)からヘリコプターで駆けつけられましたが、そのやつれたお姿に対して多くの国民は息をのみました。この日の陛下の御製は以下のとおりです。
「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
そうです。あの時は天皇陛下のご病気の報道が随時テレビで報道されておりましたね
(-_-;)
下血なされたとの言葉が一番印象に残っています。
生きている限り、どんなに地位が高い人や、或いは大金持ちであっても生老病死は平等に訪れ、避けては通れませんが、天皇陛下もさぞ心残りだった事でしょう。
その時の無念のお気持ちが伝わる御製ですね・
応援凸
しー “しー”としては初コメですね…笑
リンクの件ですが…
こ、こちらこそよろしくお願いしますっっ!!!!
あぁ…もうちょっと前から読まないとわかりませんね……。
読み甲斐あります^^
きゃす 遅くなりましたが、コメントありがとうございました。
とても励みになる言葉を頂きました、本当にありがとうございます。
というか、以前からずっと読んで頂いてたようで嬉しいですw
このブログを読むと教科書では学べないことなども知ることができて大変勉強になります。
日本史は大好きなので、今後も楽しみにしてますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうでしたね。
ずっと願われておられた沖縄へのご行幸がかなわなくなった陛下のご無念はいかばかりでしたでしょうか…。
しーさんへ
黒田裕樹 > “しー”としては初コメですね…笑
ようこそ当ブログへ!!(^ω^)
> リンクの件ですが…
> こ、こちらこそよろしくお願いしますっっ!!!!
有難うございます(^_^)v
早速リンクさせていただきますね。
> あぁ…もうちょっと前から読まないとわかりませんね……。
> 読み甲斐あります^^
毎日更新していますからね(^^ゞ
ゆっくり読んで下さいね(^o^)/
きゃすさんへ
黒田裕樹 > 遅くなりましたが、コメントありがとうございました。
> とても励みになる言葉を頂きました、本当にありがとうございます。
> というか、以前からずっと読んで頂いてたようで嬉しいですw
かなり前からお邪魔してますよ(^^♪
お役に立てて良かったです。
> このブログを読むと教科書では学べないことなども知ることができて大変勉強になります。
> 日本史は大好きなので、今後も楽しみにしてますね!
進学しても日本史は重要ですからね。
今後ともよろしくお願いします。
その余(あま)りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体となっておられるというのに、何も考えずに馬鹿騒(ばかさわ)ぎをすることが果たして許されるでしょうか。その証拠(しょうこ)に、陛下のお見舞いのため皇居へ記帳(きちょう)に訪れた国民の数は、ご不例から3ヵ月間で延べ800万人を越えているのです。
昭和天皇のご容態(ようたい)はその後も芳(かんば)しくない日々が続きましたが、そんな中でも陛下は国民のことを第一にお考えになっておられました。この年の我が国では秋の長雨が続いていましたが、そんなある日、雨音を耳にされた病床(びょうしょう)の陛下が「雨が続いているが、稲(いね)の方はどうか」と米の作柄(さくがら)を案じられたというエピソードが残っています。
ご不例になられてからも昭和天皇は驚異的(きょういてき)な生命力で病魔と闘(たたか)っておられましたが、年が明けた昭和64(1989)年1月7日午前6時33分、太陽が静かに沈(しず)んでいくように、昭和天皇は崩御(ほうぎょ)されました。御年(おんとし)87歳でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
陛下のご様態に関しての報道は当たり前の様に拝見させていただいていましたが、不満の声などがあったというのは今さらながら、初めて知りました(・o・)
最後まで国民の生活を案じていらしたんですね。
天皇陛下・・という地位以前に一人の人間としてのその崇高なお考えの前には頭が下がりますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 陛下のご様態に関しての報道は当たり前の様に拝見させていただいていましたが、不満の声などがあったというのは今さらながら、初めて知りました(・o・)
残念ながらそういう報道や声があったのは事実です。
今思えば、何ということを…という気がしますが。
> 最後まで国民の生活を案じていらしたんですね。
> 天皇陛下・・という地位以前に一人の人間としてのその崇高なお考えの前には頭が下がりますm(_ _)m
私もそう思います。
最後まで無私のお心を貫かれた陛下。有難うございました。
わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激(はげ)しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐(おんしゅう)を越えて、昭和天皇に弔意(ちょうい)を示したのです。また、皇居から新宿御苑へ続く6.5kmの雨の沿道(えんどう)において、昭和天皇をお見送りした国民の数は実に60万人にも及びました。
昭和という激動の時代を長く生き抜き、国民の象徴(しょうちょう)として我が国を支(ささ)えてこられた昭和天皇。自らが果たすことがかなわなかった沖縄へのご巡幸は、今上陛下によって平成5(1993)年に実現されました。そして崩御から18年後の平成19(2007)年、昭和天皇のお誕生日(たんじょうび)である4月29日は「激動の日々を経(へ)て、復興を遂(と)げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」との目的で、新たに「昭和の日」として蘇(よみがえ)りました。
昭和が終わって早や22年の歳月(さいげつ)が流れましたが、国民とともに歩まれた昭和天皇の大御心は、今もなお、そして永久に国民の心の中に生き続けていくことでしょう。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
あ~・・停電明けは、心が晴れやかになります(^^ゞ
こうして記事を拝見させていただいていると、
日本という国は、確かに世界からは睨まれたり、恨まれたりする事もあるでしょうけれど、何処の国よりも一目置かれる存在でもあるものだと改めて感じました。そして今回の震災に関しても、各国の賞賛の数々には正直、驚いています。
ただ褒められたからと言って、被災者の方達の心の大きな穴を埋める事は出来ないでしょうけれど、それでもその賞賛の言葉を聞いて、私たちは改めて、日本人としての誇りを再確認することが出来たように思います。
勿論、そこには天皇制という長い歴史の尊さという事が軸となっているのでしょうね。
それにしても、国同士の色々な柵はあったとしても、日本の国をこれまでに賞賛しようとする世界の国々の考え方も素晴らしいものだとありがたく感じております。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の長い歴史には天皇陛下をはじめとする皇室のご存在が大きな軸となっています。
いつまでも皇室とともに、我が国も存在したいものですね。
なおまゆ 1989年2月24日が大葬の礼でしたね。店はネオンを消し、あるいは閉店し、弔意を示しましたが、当時、ビデオ屋は大盛況、パチンコ屋はひそかに営業、レストランも営業という状態だったのを思い出します。
実は私はその年の2月22日に挙式しました。しかし、披露宴は自粛、新婚旅行も中止しました。式はどうしても挙げたかったので強行しましたが、一般の人々の関心は極めて薄かったようです。
昭和天皇の業績は、そのお人柄に似て目立たないしかし、重要なことばかりだったのに・・・。
4月29日の昭和の日にはせめてその業績、生き様を学ぶ機会を作って欲しいと思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 私も成人式が平成元年1月15日でした。簡素な成人式でしたが、これもまた思い出の一つになったと振り返っております。
仰るとおり、昭和の日がせっかくできたのですから、せめて当日くらいは文字どおり思いをはせてしかるべきだと思います。
皇位継承問題
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
どのテーマの中で、質問をしようか、迷ったのですが、
天皇について、取り上げたこのパートと質問させて頂きます。
『平清盛』『南北朝動乱』などの歴史で
いつも、頭が大混乱になるのは、
天皇の皇位継承問題です。
私の両親も大河ドラマを観て、その部分が??と言っていました。
私は、黒田先生の歴史講座を観て、明治以前の
皇位継承について、以前よりも、かなり、理解できるようになりました。
ただ、私が、わからないのは、現代の皇位継承順位です。ネットで、調べると以下の記述になっていました。
1位 皇太子徳仁親王 なるひと 男性 1960年02月23日 52歳 親等1/第1子(長男)
2位 秋篠宮文仁親王 あきしののみや ふみひと 男性 1965年11月30日 46歳 親等1/第2子(次男)
3位 悠仁親王 ひさひと 男性 2006年09月06日 5歳 親等2/孫 / 第2子の第3子(長男)
4位 常陸宮正仁親王 ひたちのみや まさひと 男性 1935年11月28日 76歳 親等2/弟(昭和天皇の第6子、次男)
5位 三笠宮崇仁親王 みかさのみや たかひと 男性 1915年12月02日 96歳 親等3/叔父 / 父昭和天皇の弟(大正天皇の第4子、四男)
6位 仁親王 ともひと 男性 1946年01月05日 66歳 親等4/従弟 / 叔父三笠宮崇仁親王の第2子(長男)
7位 桂宮宜仁親王 かつらのみや よしひと 男性 1948年02月11日 64歳 親等4/従弟 / 叔父三笠宮崇仁親王の第3子(次男)
皇位継承者が皇太子殿下、秋篠宮文仁親王以外
高齢で、
しかも
現在5歳の悠仁親王が皇位継承順位が3位がということになっていることに驚きました。
歴史的に皇位継承男子がここまで、少なくなったことは、それ以前の日本の歴史で、あったのでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 いくらでもあるじゃないですか。
例えば、直近では江戸時代に後桃園天皇が崩御された際に主だった後継者は即位された光格天皇を含めて3名しかおられませんでした。
この他にも承久の乱の後に後鳥羽上皇の血統が鎌倉幕府によって排除されると、残されたわずかな血統から後堀河天皇が即位されておられますし、もっと古代には推古天皇が我が国初の女帝となられたのも(厩戸皇子を除いて)有力な後継者が見当たらなかったからです。
そして、何よりも第26代の継体天皇ご即位の際には大伴金村が大変な苦労をしていますしね。
歴史をその場だけでとらえるのではなく、大きな森も同時に眺めないととんでもなく深い落とし穴に嵌ってしまいますよ。
ちなみに、第30回の歴史講座においても同じような場面がいずれ出てきます。ネタバレになるのでここでは申しませんが、講座に参加された青田さんならよくご存じのはずです。
奇跡の血統
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
黒田先生が、歴史講座で、天皇家が『奇跡の血統』だという意味が漸く、理解できました。
現代のような皇位継承者が少ない、状況を乗り越えて、現代まで、続いているから、『奇跡の血統』だったんですね。
黒田先生のコメントを読んで、妙な安心感を感じました。
ありがとうございます。
青田さんへ その2
黒田裕樹 それは結構なことですね。
ちなみに「天皇家」という表現は天皇以外に我が国の皇室が存在する可能性があることを意味しますから、使用されない方が良いですよ。